20歳の自分に受けさせたい文章講義
身体でおぼえろ
レビュアー:鳩羽
文章とは、頭を使って書くものだという思い込みがある。確かに、書くことを決めるのも、順番や構成、結論として何を主張するかを決めるのも、頭だ。だが、ブラックボックスのように仕組みが見えない頭だけで書こうとするから、文章を書くことが特に不可解で難しく思えるのではないだろうか。この本はそんな蒙昧な思い込みをすっきりと整理整頓してくれる、いわば文章の技芸の本だ。
例えば、文章のリズムについて書いてある文章指南の本は多い。しかし、じゃあそのリズムとは具体的になんだというと、あえて言わなくても分かるだろうとでも言うように、読みやすさだとか音読のしやすさ、というところにとどまってしまう。
しかし、この本では、文体のリズムを論理展開の簡明さ、正しい文章であること、接続詞をしっかり使うことというふうに、まるで国語の授業のようにひとつひとつ教えてくれる。国語の授業と違うのは、授業を受ける私たちがまさにその知識を欲していて、手を差し出しているというところなのだ。その手のひらにぴったりと欲しい知識が収まると、なんとも言えない快感である。
他にも、眼で構成を考えること、書くときの自分は一体どこに座るべきなのか、編集はどうするのか、など、どの項目も五感になぞらえるような説明が多い。文章のことを文章で説明しようとすると抽象的になりがちだが、この身体を使った例は分かりやすく、分からなくてもとりあえず真似てみることくらいはできる。習いながら、倣うことができるのだ。
書くことがないわけでもない。まして、言葉を知らないわけでもない。それでも書けなくて詰まってしまうとき、一体自分はなにをインプットして生きてきたのか、考えたことすべてが無駄なような気がして、途方にくれてしまう。
だが、文章を書くことは、もともと溢れんばかりにある情報や感情を翻訳し、加工し、取り出して、編集することにすぎない。それは作業であり、工程であり、技術だ。
才能だと思えば、書くことから逃げたくなってしまう。けれど、技術だと思えば、練習して上手くなることもあるだろう。
それに、文章を書く機会は増えこそすれ、減ることはない。若いときに、文字通り身体全体を使って染み付かせた文章を書く力は、一生ものの技となってくれるだろう。
たとえ三色しか絵の具を持っていなくても、やり方さえ知っていれば虹を描くこともできる。
これは、芸術的な名画を描けるようになるための本ではない。虹を書けるようになるためのハウツー本なのだ。
例えば、文章のリズムについて書いてある文章指南の本は多い。しかし、じゃあそのリズムとは具体的になんだというと、あえて言わなくても分かるだろうとでも言うように、読みやすさだとか音読のしやすさ、というところにとどまってしまう。
しかし、この本では、文体のリズムを論理展開の簡明さ、正しい文章であること、接続詞をしっかり使うことというふうに、まるで国語の授業のようにひとつひとつ教えてくれる。国語の授業と違うのは、授業を受ける私たちがまさにその知識を欲していて、手を差し出しているというところなのだ。その手のひらにぴったりと欲しい知識が収まると、なんとも言えない快感である。
他にも、眼で構成を考えること、書くときの自分は一体どこに座るべきなのか、編集はどうするのか、など、どの項目も五感になぞらえるような説明が多い。文章のことを文章で説明しようとすると抽象的になりがちだが、この身体を使った例は分かりやすく、分からなくてもとりあえず真似てみることくらいはできる。習いながら、倣うことができるのだ。
書くことがないわけでもない。まして、言葉を知らないわけでもない。それでも書けなくて詰まってしまうとき、一体自分はなにをインプットして生きてきたのか、考えたことすべてが無駄なような気がして、途方にくれてしまう。
だが、文章を書くことは、もともと溢れんばかりにある情報や感情を翻訳し、加工し、取り出して、編集することにすぎない。それは作業であり、工程であり、技術だ。
才能だと思えば、書くことから逃げたくなってしまう。けれど、技術だと思えば、練習して上手くなることもあるだろう。
それに、文章を書く機会は増えこそすれ、減ることはない。若いときに、文字通り身体全体を使って染み付かせた文章を書く力は、一生ものの技となってくれるだろう。
たとえ三色しか絵の具を持っていなくても、やり方さえ知っていれば虹を描くこともできる。
これは、芸術的な名画を描けるようになるための本ではない。虹を書けるようになるためのハウツー本なのだ。