私のおわり
他者の時間を思うこと。
レビュアー:USB農民
「私のおわり」の物語の舞台となる空間は、ほぼ一つの部屋に限定されている。
そして、そのことと対照的に、作中に流れる時間の流れはいくつも存在し、それらは物語中、時に互いに接近し、時に離れて行く。
サヨ、七原、パリオたちがたまり場としている天霧の部屋は、そのような場所として描かれる。年齢も職業も生活リズムも違う四人は、同じ部屋で時間を過ごすことによって、互いに時間を共有し合う。それはとても優しい時間として描かれている。
けれど、幽霊となったサヨは、その時間に戻ることができなくなってしまう。
同じ部屋、同じ空間にいても、そこに流れる時間を生きた人間と共有することはできない。
かつて過ごした優しい時間を喪失してしまったサヨの悲しみは深い。
その時間は、もう二度と取り戻せないものだからだ。
サヨは最初、自分の存在と彼らに流れる時間が無関係であることに耐えられず、生きている自分を誘導し、天霧に告白させることで、自分と彼らの時間の関わりを取り戻そうとする。
しかしその試みは、結果として天霧たちを傷つけることになってしまうのだと、サヨは気づく。
私は、この気付きこそが「私のおわり」の中で最も重要なポイントだと思う。
自分と他者に流れる時間は異なっていて、しかもそれは時として完全に断絶されてしまう。二度と関わることのできない相手がいることを、サヨは知る。
そして同時に、自分が二度と関わることのできない相手にもまた、自分と同じように、その人の持つ時間が流れて行くことも理解する。
「私が本当に考えなくちゃいけないのは、自分のことでも、もうじき死ぬことになる生きている私のことでもない。
私が一番に考えなくちゃいけないのは、私が死んだあとも生き続ける人達のことだ。」
私の時間が終わった後にも、生き続ける人たちの時間は終わらない。
サヨはその人たちの時間を思うことで、自分の人生と死を受け入れて行く。
サヨにとって大事なことは、喪失したものを取り戻すことではなく、喪失したものについて、それを失ったまま、それでも思いを馳せることだったのだ。
ラストで、サヨは「ミタマ=神様」になることが示されている。
ミタマになるということは、離れた場所にいる人の時間や、二度と会えない人の時間について思いやることを意味している。
物語前半のサヨではミタマは務まらなかったかもしれない。
けれど、他人の時間を思うという大切なことに気付いたサヨには、ミタマになる資格は十分にあると思う。
他者の時間を思うこと。
サヨはその大切なことに気付くことができたから。
この物語が、不可避な「死=おわり」を描いているのに、気持ちのいい読後感を残すのは、そんなサヨの気付きがあるからだと思う。
そして、そのことと対照的に、作中に流れる時間の流れはいくつも存在し、それらは物語中、時に互いに接近し、時に離れて行く。
サヨ、七原、パリオたちがたまり場としている天霧の部屋は、そのような場所として描かれる。年齢も職業も生活リズムも違う四人は、同じ部屋で時間を過ごすことによって、互いに時間を共有し合う。それはとても優しい時間として描かれている。
けれど、幽霊となったサヨは、その時間に戻ることができなくなってしまう。
同じ部屋、同じ空間にいても、そこに流れる時間を生きた人間と共有することはできない。
かつて過ごした優しい時間を喪失してしまったサヨの悲しみは深い。
その時間は、もう二度と取り戻せないものだからだ。
サヨは最初、自分の存在と彼らに流れる時間が無関係であることに耐えられず、生きている自分を誘導し、天霧に告白させることで、自分と彼らの時間の関わりを取り戻そうとする。
しかしその試みは、結果として天霧たちを傷つけることになってしまうのだと、サヨは気づく。
私は、この気付きこそが「私のおわり」の中で最も重要なポイントだと思う。
自分と他者に流れる時間は異なっていて、しかもそれは時として完全に断絶されてしまう。二度と関わることのできない相手がいることを、サヨは知る。
そして同時に、自分が二度と関わることのできない相手にもまた、自分と同じように、その人の持つ時間が流れて行くことも理解する。
「私が本当に考えなくちゃいけないのは、自分のことでも、もうじき死ぬことになる生きている私のことでもない。
私が一番に考えなくちゃいけないのは、私が死んだあとも生き続ける人達のことだ。」
私の時間が終わった後にも、生き続ける人たちの時間は終わらない。
サヨはその人たちの時間を思うことで、自分の人生と死を受け入れて行く。
サヨにとって大事なことは、喪失したものを取り戻すことではなく、喪失したものについて、それを失ったまま、それでも思いを馳せることだったのだ。
ラストで、サヨは「ミタマ=神様」になることが示されている。
ミタマになるということは、離れた場所にいる人の時間や、二度と会えない人の時間について思いやることを意味している。
物語前半のサヨではミタマは務まらなかったかもしれない。
けれど、他人の時間を思うという大切なことに気付いたサヨには、ミタマになる資格は十分にあると思う。
他者の時間を思うこと。
サヨはその大切なことに気付くことができたから。
この物語が、不可避な「死=おわり」を描いているのに、気持ちのいい読後感を残すのは、そんなサヨの気付きがあるからだと思う。