私のおわり
私をおわらせる爽やかさ
レビュアー:6rin
ぼくは小説を読んだりアニメを鑑賞するのが好きで、作品についてぼんやりと考えを巡らすことがよくあります。
そうやって思いついたことを、ときには誰かに読んでもらうテキストにします。しかし途中で、こんな下らないこと書いても意味がないとか、もっと別の言い方があるんじゃないかとか思って筆が止まり、時間がたってしまいます。生活があるので、テキストにばかり時間をかけるわけにはいかない。だから、書きあぐねるのをどこかで切り上げ、テキストの質を無視してとにかく書くことに(あるいは書かないことに)決めます。
そのとき、書きあぐねることから解放され、妙に爽やかな気分になります。書こうとするテキストの質の低さが気になっているのに、気分が爽やかなのが妙なのです。
同じような妙な爽やかさが『私のおわり』からも感じられました。
『私のおわり』は、大学生のサヨが幽霊になる物語です。死んだサヨは、想いを寄せる天霧くんとの関係が全く進展していないことに未練があり、あの世に連れて行かれる船から逃げだします。人間が死んだらあの世へ行くのが道理。サヨはその道理を身勝手な理由で犯したのです。海に飛び込んだサヨは溺れ流され、天霧くんの部屋で目を覚まし、その部屋から出られない地縛霊として過ごします。天霧くんのことだけ考える身勝手なサヨの視野つまり世界は、天霧くんしか存在しない狭いものです。サヨが天霧くんの部屋に閉じこもる地縛霊であることは、その世界が狭いことを表しているかのようです。
この世に戻ることに成功したサヨですが、道理に反するこの滞在が許されるはずもありません。サヨはこの世に長くいられないことを突き付けられます。
サヨはこの世から消えることを恐れます。それはやはり、想いを寄せる天霧くんとの関係を進展させられなくなるからです。しかしやがて、サヨは天霧くんとの恋愛を諦めることで死をそれほど恐れなくなります。ただ、天霧くんへの想いがサヨから無くなったわけではありません。サヨは天霧くんへの想いに執着する自分=「私」を捨て、天霧くんを想う自分に蓋をしたのです。『私のおわり』は、執着する「私」を捨てる=おわらすことを描いた物語なのです。
恋する自分に蓋をしたサヨは、あの世へつながる大海原に天霧くんの部屋から連れ出されます。ここでは、サヨが執着する「私」から解放され天霧くんの外にも視野を広げたことが、天霧くんの狭い部屋から大海原へという変化でダイナミックに表現されています。
こうしてサヨは天霧くんだけを見る身勝手な人間ではなくなりました。だから、サヨはかつてのように感情に流され自分の死から逃げようとしません。今のサヨなら、死を嘆く彼女を溺れさせ、その体のコントロールを奪った海の上を行くことが出来ます。涙と成分が似ている海。その匂いのする空気を切って、サヨはあの世へ向かいます。ぼくはその姿に爽やかさを感じました。サヨは天霧くんに対する恋愛感情を無くしたわけでもないし、死が全く怖くなくなったわけでもない。それでもサヨは死を全うしようとする。その爽やかさは、ぼくがテキストの質の低さを気にしつつ、テキストを受け入れ書くことに決めた時に感じる妙な爽やかさと同じものです。拒否しつつ受け入れることの爽やかさです。とはいえ、サヨとぼくの爽やかさではスケールが違います。前者は死という人間の大問題に対処する姿勢の爽やかさであり、後者はゴミみたいなテキストに対処する姿勢の爽やかさです。
ぼくは趣味で書くテキストというちっぽけな問題ですら自意識に振り回され、やっとのことで切り抜ける人間なのです。死ぬときには、きっと序盤のサヨのようにのたうち回ることでしょう。終盤のサヨのようにはとても振る舞えない。あんな風に、避けられないことを爽やかにさらさらと受け入れて問題を片付けたい。だから、ぼくはこれからも『私のおわり』の描く爽やかさに惹かれることをやめないでしょう。
そうやって思いついたことを、ときには誰かに読んでもらうテキストにします。しかし途中で、こんな下らないこと書いても意味がないとか、もっと別の言い方があるんじゃないかとか思って筆が止まり、時間がたってしまいます。生活があるので、テキストにばかり時間をかけるわけにはいかない。だから、書きあぐねるのをどこかで切り上げ、テキストの質を無視してとにかく書くことに(あるいは書かないことに)決めます。
そのとき、書きあぐねることから解放され、妙に爽やかな気分になります。書こうとするテキストの質の低さが気になっているのに、気分が爽やかなのが妙なのです。
同じような妙な爽やかさが『私のおわり』からも感じられました。
『私のおわり』は、大学生のサヨが幽霊になる物語です。死んだサヨは、想いを寄せる天霧くんとの関係が全く進展していないことに未練があり、あの世に連れて行かれる船から逃げだします。人間が死んだらあの世へ行くのが道理。サヨはその道理を身勝手な理由で犯したのです。海に飛び込んだサヨは溺れ流され、天霧くんの部屋で目を覚まし、その部屋から出られない地縛霊として過ごします。天霧くんのことだけ考える身勝手なサヨの視野つまり世界は、天霧くんしか存在しない狭いものです。サヨが天霧くんの部屋に閉じこもる地縛霊であることは、その世界が狭いことを表しているかのようです。
この世に戻ることに成功したサヨですが、道理に反するこの滞在が許されるはずもありません。サヨはこの世に長くいられないことを突き付けられます。
サヨはこの世から消えることを恐れます。それはやはり、想いを寄せる天霧くんとの関係を進展させられなくなるからです。しかしやがて、サヨは天霧くんとの恋愛を諦めることで死をそれほど恐れなくなります。ただ、天霧くんへの想いがサヨから無くなったわけではありません。サヨは天霧くんへの想いに執着する自分=「私」を捨て、天霧くんを想う自分に蓋をしたのです。『私のおわり』は、執着する「私」を捨てる=おわらすことを描いた物語なのです。
恋する自分に蓋をしたサヨは、あの世へつながる大海原に天霧くんの部屋から連れ出されます。ここでは、サヨが執着する「私」から解放され天霧くんの外にも視野を広げたことが、天霧くんの狭い部屋から大海原へという変化でダイナミックに表現されています。
こうしてサヨは天霧くんだけを見る身勝手な人間ではなくなりました。だから、サヨはかつてのように感情に流され自分の死から逃げようとしません。今のサヨなら、死を嘆く彼女を溺れさせ、その体のコントロールを奪った海の上を行くことが出来ます。涙と成分が似ている海。その匂いのする空気を切って、サヨはあの世へ向かいます。ぼくはその姿に爽やかさを感じました。サヨは天霧くんに対する恋愛感情を無くしたわけでもないし、死が全く怖くなくなったわけでもない。それでもサヨは死を全うしようとする。その爽やかさは、ぼくがテキストの質の低さを気にしつつ、テキストを受け入れ書くことに決めた時に感じる妙な爽やかさと同じものです。拒否しつつ受け入れることの爽やかさです。とはいえ、サヨとぼくの爽やかさではスケールが違います。前者は死という人間の大問題に対処する姿勢の爽やかさであり、後者はゴミみたいなテキストに対処する姿勢の爽やかさです。
ぼくは趣味で書くテキストというちっぽけな問題ですら自意識に振り回され、やっとのことで切り抜ける人間なのです。死ぬときには、きっと序盤のサヨのようにのたうち回ることでしょう。終盤のサヨのようにはとても振る舞えない。あんな風に、避けられないことを爽やかにさらさらと受け入れて問題を片付けたい。だから、ぼくはこれからも『私のおわり』の描く爽やかさに惹かれることをやめないでしょう。