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読者レビュー

鉄

泉和良『私のおわり』

いつか必ず死ぬことを忘れるな

レビュアー:yagi_pon Novice

『私のおわり』という物語はなんて残酷なのだろうと思った。
この物語は、主人公である「私」が死んでしまったことからはじまり
ひょんなことから死んでしまった四日前に、
幽霊として現れるところから話が動き出す。
「私」は死ぬ前の四日間を再び見ていくことになる。
そしてラストはまた、『私』の死で閉められる。
「私」のおわりからはじまり、「私」のおわりでおわる、
死からはじまり、死でおわる、
なんて残酷なのか。
この物語がせつなさ100%だと謳うなら、
それはどうしようもない残酷な死のせつなさだと思っていた。
再び死へと向かう「私」を思うと、目が潤んだ。

たしかに、「私」は死に向かっていった。
けれども、「私」は死に向かい合っていった。

「私」は当初、死を受け入れてはいなかった。
だからこそ再び、死ぬ前の日常を見ることになった。
なにげない、しかし今となっては特別な日常を目の前にして、
叶わなかった恋を実らせようともがいていって、
「私」はようやく、自分の死を認識していったのだと思う。
友人の語る未来に、好きな人の未来に、
いると思っていたし、いたいと思っていた。
死を受け入れられなかった「私」は、
なにげない未来を思い、初めて未来がないことを認識する。
「私」と、友人や好きな人との間を隔てる、
生と死の溝はあまりに残酷だった。
潤んでいた私の瞳に、涙が流れた。

しかし、「私」の最期の四日間は、
それだけでは終わらない。
「私」はそれから、死と向かい合っていくことになる。
逝ってしまう者よりも残された者の方が辛いのだと、
そんなふうに残された友人たちを案じた。
なによりも辛いのは、死にゆく「私」の方なはずなのに。
つい四日前まで死を受け入れられなかった「私」が、
死と向かい合い、自ら死に向かって歩みを進める。
そんな姿に、涙が溢れた。

たしかに「私」のおわりのはじまりは、残酷なはじまりだったと思う。
けれども「私」のおわりのおわりは、優しいおわりだった。

この物語はせつなさでいっぱいだった。
残酷な死のせつなさが胸に突き刺さった。
残酷な死と向き合う「私」の優しさに、
胸はせつなさでうめつくされた。

「私のおわり」はせつなさ100%の物語だ。
そのせつなさは、残酷だけど優しい。
この物語も、残酷だけど優しい。

読めばきっと涙する。
その残酷さに、
その優しさに、
そしてそのせつなさに。

2011.07.14

さやわか
なかなか熱っぽく書けてますな!
のぞみ
私も泣きましたわ~(TдT)切なさ、はんぱないです~。「たしかに、「私」は死に向かっていった。けれども、「私」は死に向かい合っていった」みたいなところも、好きですわ~。
さやわか
そういう技術的なチャレンジは評価したいですね。結果としてyagi_ponさんの感じた「絶望」と前進したいという気持ちが伝わってきます。ただ、「せつなさ100%」という『私のおわり』のコピーをわりと素直に広げている印象が強いかなと思います。いや、作品に配された印象的な一言にこだわって書いても悪くはないのですが、ならばこそ、ダメ押しとして「『私のおわり』はせつなさ100%の物語だ」という一言までは、なくてもよかったかもしれない。これがあることで、yagi_ponさんの純粋な感想を、作品の、あるいはキャッチコピーの想定内に収めてしまう。yagi_ponさんは全く同じ手法で『Fate/Zero』のレビューも書かれていて、僕はそこに疑問を抱きました。今回のところは「鉄」とさせていただきます。話はちょっと違いますが、『サクラコ・アトミカ』も、小説の最後の一文を引用したレビューがわりとたくさん寄せられていて、ほとんどの場合その文、フレーズの強力さにやられちゃってるのですね。残念ながら、それはレビューの良さとはあまり関係がないのです。使ってもいいのですが、なぜそれを使うかよく考えていただければ。

本文はここまでです。