「私のおわり」 泉和良
夜の航海のはてに
レビュアー:ややせ
『私のおわり』の頁をめくりながら、私は読んだばかりの別の小説が二重写しのように重なるのを感じていた。
恋人の死体を盗み出して、物言わぬその物体と同居していた静謐な悲しみの話。
『死体泥棒』である。
共通しているのは、死による断絶を受け入れられず、もがいていることだろうか。
いつだってメールできた、会って話すことができた。昂ぶった気持のままに抱きつくことだってきっと、できた。
ただ、しなかっただけ。
そのコミュニケーションの可能性が失われたこと。コミュニケーション自体ではなくて、あくまでもその可能性が失われたことを痛がるのは、確かに切ない。愚かしいとすら言えるかもしれない。
ひねくれたことを言うならば、どこにでもいるような普通の人物が物語の主人公になるには、「死」にご登場願うのが一番手っ取り早い。日常に劇的なドラマを立ち上げるためには、既存の「劇的なドラマ」を模倣するのがいい。
誰もが逃れられない死という運命、それにまつわる悲嘆。
サヨは死神船長の船から逃げ出して自らが死ぬ四日前にたどり着くが、誰かに触れることもできず、言葉を交わすこともできず、まさに表紙の絵のごとくにじっと涙をこぼしているしかない幽霊のような存在だ。
淡々と過ぎていく四日間は、寄せる波のように静かにサヨの心残りをなだめていくものの、このまま死を迎えてもいいのだろうか、という気持ちが芽生えてくる。
せめて生きている過去の自分に思いを伝えさせてあげたいというサヨのストーリーと、いつ死んでしまうか分からないのだから生きている今を精一杯生きなければならないという読者へのストーリーとが妙な正当性を持って合致したとき、そこに初めて独自の物語が生まれたのではないか。
誰にとっても、自分の生死ほど大きな特別な問題はない。
それに他者をどのくらい巻き込んでいいのか、費やしても許されるのか。
私は終わっても、世界は終わらない。
サヨの選択と新たな悩みから、この小説の本当の切なさが始まるのだ。
ところで、航海日誌は後悔日誌のことでもあるのだろう。
『死体泥棒』の主人公が死んだ妻を取り戻そうとしたオルフェウスならば、『私のおわり』のサヨの旅はプシュケのそれに似ている。
冥府に下り、試練を乗り越えて、やがて神々の列に迎え入れられるプシュケの物語をなぞるかのように、サヨの行き先も清明な光に満ちているといいなと思う。
先立つ者と残される者の痛みを比べることなんて、結局どうしたって無理なのだ。
無理なのだけれど、知りたくて。
物語は語られ続け、私たちは頁を巡りつづけるのだろう。
恋人の死体を盗み出して、物言わぬその物体と同居していた静謐な悲しみの話。
『死体泥棒』である。
共通しているのは、死による断絶を受け入れられず、もがいていることだろうか。
いつだってメールできた、会って話すことができた。昂ぶった気持のままに抱きつくことだってきっと、できた。
ただ、しなかっただけ。
そのコミュニケーションの可能性が失われたこと。コミュニケーション自体ではなくて、あくまでもその可能性が失われたことを痛がるのは、確かに切ない。愚かしいとすら言えるかもしれない。
ひねくれたことを言うならば、どこにでもいるような普通の人物が物語の主人公になるには、「死」にご登場願うのが一番手っ取り早い。日常に劇的なドラマを立ち上げるためには、既存の「劇的なドラマ」を模倣するのがいい。
誰もが逃れられない死という運命、それにまつわる悲嘆。
サヨは死神船長の船から逃げ出して自らが死ぬ四日前にたどり着くが、誰かに触れることもできず、言葉を交わすこともできず、まさに表紙の絵のごとくにじっと涙をこぼしているしかない幽霊のような存在だ。
淡々と過ぎていく四日間は、寄せる波のように静かにサヨの心残りをなだめていくものの、このまま死を迎えてもいいのだろうか、という気持ちが芽生えてくる。
せめて生きている過去の自分に思いを伝えさせてあげたいというサヨのストーリーと、いつ死んでしまうか分からないのだから生きている今を精一杯生きなければならないという読者へのストーリーとが妙な正当性を持って合致したとき、そこに初めて独自の物語が生まれたのではないか。
誰にとっても、自分の生死ほど大きな特別な問題はない。
それに他者をどのくらい巻き込んでいいのか、費やしても許されるのか。
私は終わっても、世界は終わらない。
サヨの選択と新たな悩みから、この小説の本当の切なさが始まるのだ。
ところで、航海日誌は後悔日誌のことでもあるのだろう。
『死体泥棒』の主人公が死んだ妻を取り戻そうとしたオルフェウスならば、『私のおわり』のサヨの旅はプシュケのそれに似ている。
冥府に下り、試練を乗り越えて、やがて神々の列に迎え入れられるプシュケの物語をなぞるかのように、サヨの行き先も清明な光に満ちているといいなと思う。
先立つ者と残される者の痛みを比べることなんて、結局どうしたって無理なのだ。
無理なのだけれど、知りたくて。
物語は語られ続け、私たちは頁を巡りつづけるのだろう。