レビュアー騎士団に見る星海社の思想
「愛情」が繋ぐ、幸せな共犯関係
レビュアー:大和
『想像してみてください。『さやわかの星海社レビュアー騎士団』ってどんなページかな? どんなレビューがあるのかな? と思って読者が見に来たら、『さやわかの星海社レビュアー騎士団』とはどんなものか? という議論が書いてある。その不思議な状態は、レビューというものや、このコーナーが目指さねばならないものからむしろ離れてしまうと思います』
『そこまで「レビューすること自体」について考えているならば、その考えを踏まえて、さまざまな作品についてのレビューを書いてみることの方をずっとオススメします』
これは、さやわか氏が横浜県氏のレビューに対して寄せた講評の一部である。ここで語られていることに僕は全面同意する。だがその上で、僕はとても感銘を受けた『レビュアー騎士団』というコンテンツに関して語らずにはいられない。だからここでは、レビュアー騎士団に関して語りつつ、その背後にある星海社の思想そのものについてレビューする、ということに挑戦してみたい。そのために、まずは「愛情」に関して触れる必要がある。
説明不要かもしれないが触れておこう。レビュアー騎士団とは読者投稿型のレビュー企画である。読者が星海社に関するレビューを書き、レビュアー騎士団へと送る。団長であるさやわか氏が優秀だと判定したレビューは、レビュアー騎士団のページに掲載される。
レビュアー騎士団のジャッジ方法は「愛情」「論理性」「発展性」の三つを軸に行われる。
紹介ページより引用させていただこう。
『上にあるものほど重要で、例えば「論理性」があっても「愛情」がなければ掲載や得点ができないことがある。三つの要素をすべて満たすと、例外なく最高得点である「金」が与えられる。』
つまりレビュアー騎士団のレビューにおいて、最も重要視されているのは「愛情」なのだ。これを見て、違和感を持った人もいるのではないだろうか? 何故なら「論理性」「発展性」はある種の客観性に立脚しているが、「愛情」は主観性の強い概念だからだ。通常、批評≒論文的な高度さを追求するのであれば、主観的な文章は極力排除される。中には対象を通して自分を語ってしまうものも多いが、少なくとも体裁としては主観性が混じらないことが是とされる。だがレビュアー騎士団は「愛情」を最も重要だと位置づけることで、レビューに主観性が混じることを強く肯定する。ここで示されているのは、あらゆる主観的なレビュー≒個人の価値観を全て肯定する、という態度だ。しかし、全てのレビューが掲載されるわけではない。
『採点はレビュアー騎士団の団長であるさやわかが単独で行う。採点にあたって、レビューの内容が作品に対して好意的であるかどうかは問わない。優れたレビューは必ず掲載し、高い得点を与える(さやわか保証)。』
ここには一見して矛盾がある。レビュー者の主観性を肯定するのであれば、レビューを選ぶ人間の主観性も肯定することになってしまう。それは結局、レビュアー騎士団においてはレビューを選ぶ人間の主観こそが正しい価値観なのだ、と標榜してしまうことにならないだろうか。
さやわか氏はその矛盾を注意深く回避することに成功している。それはレビュアー騎士団というコンテンツが、一定のルールに基づいたゲームとして設計されているからだ。恐らく、さやわか氏が最も気を配ったのはこの部分ではないか。例えばレビュアー騎士団は、さやわか氏や他の作家達が審査員を務める、という形式にもできたはずだ。だがそれでは先述の通り「審査員の価値観こそが正しい」という立場に繋がってしまう。そこでレビュアー騎士団は、ゲームルールという外部の基準によってレビューを選別する。さやわか氏は「レビューを(主観的に)審査する」のではなく、「レビューがゲームルールの基準をクリアしているか否か判定する」ことで、<「選ばれなかったレビュー≒価値観」の否定>を巧妙に回避しようとする。一見して遠回りながら、レビュアー騎士団は確実にその「愛情」を成立させることに成功している。
このことから分かるのは、レビュアー騎士団は「究極のレビュー」とでも言うような一つの到達点を目指すのではなく、多種多様なレビューをこそ読者に提示しようとしている、ということだ。それは「作品の楽しみ方」を提供することに他ならない。
僕らの趣味やライフスタイルはあまりにも拡散してしまっている。例えばtwitterのタイムラインは個人個人によって全然違うし、同じ教室で何年も一緒に暮らした奴が全然知らない音楽を聞いて全然知らない漫画を読んで全然違う文化に触れていたりする。そんなことは今や当然過ぎて、是非を問うことすら馬鹿馬鹿しい。
そんな世界に置いて重要なのは、「どの作品を選択するか」ではなく「どんな態度で作品に接するか」なのだ。レビュアー騎士団というゲームは、一つの視点に縛られない多用な見方をプレイヤーに要求する。そして「愛情」「論理性」「発展性」という、あくまで文章的な基準をクリアしたレビューを掲載し、あるプレイヤーの「作品の楽しみ方」を他のプレイヤーに対し提供する。このゲームの目的は星海社の作品を褒めることでは無い。レビューとして優れていれば貶していても構わないという。これもまた、重要なのは選択そのものではなくそのレビューに至った視点なのだ、ということを語っている。様々な視点を身につければ、それだけ作品を楽しめる可能性が増える。レビュアー騎士団が僕らに与えてくれるのは、その「可能性」なのだ。
また、レビュアー騎士団は夢中になればなるほど星海社のコンテンツに触れざるをえないように作られている。例えば一つの作品だけで五つも六つもレビューを書くのはかなり厳しい。レビュアー騎士団が盛り上がれば盛り上がるほど、プレイヤー達は星海社に関するあらゆるモノに触れようとするだろう。これを「星海社のコンテンツをよりたくさん消費するよう仕向けた罠」と捉える人もいるかもしれないが、それはあまりにも認識が一方通行すぎる。むしろ星海社は、いかにして読者と出版社の新しい関係――双方向的に影響しあう関係を築くか、ということに腐心している。Ustreamによる配信や新人賞の賞金システム、最前線セレクションズ、最前線のトップページに表示されるツイート等を見れば明らかだ。
そういった双方向的な関係を築くための柱となるコンテンツがレビュアー騎士団なのだ。プレイヤーが夢中になればなるほど星海社のコンテンツは消費される。そしてレビューが投稿され、レビュアー騎士団が盛り上がる。盛り上がれば盛り上がるほど様々な優れたレビューが掲載され、プレイヤー達は新たな「物語の楽しみ方」を得る。新たな視点を得たプレイヤー達はそれを持って再び星海社のコンテンツを消費する。盛り上がりは新たなプレイヤーを呼び寄せ、レビュアー騎士団が作りだす消費のサイクルに巻き込まれる。
これは確かに星海社のコンテンツを消費させることを狙っていながら、それでいて誰もが得をするような、幸せな共犯関係だ。星海社とその読者が互いを高め合う関係。僕は何よりも、二者を繋ぐための言葉が「愛情」であるということが素晴らしいと思う。このことが何よりも星海社の思想を象徴していると言ってもいい。読者や出版に対して強烈な愛情を持っていなければ、こんな関係性は思いつかないはずだ。だから僕はレビュアー騎士団が僕らのレビューを「愛情」という言葉で肯定するように、僕もレビュアー騎士団、ひいてはレビュアー騎士団に賭ける星海社の想いを、愛情をもって肯定したい。
願わくば、この繋がりが読者と星海社だけに終わらず、作品の作り手達をも巻き込むものになってほしい。僕らのレビューが作家に届き、作家はそのフィードバックを受けてより自身の作品を高める。これほどまでに幸せな関係があるだろうか? 誰もが相手を高めるために死力を尽くす。そんな関係になれたら、僕らの想いは本当に、地球を飛び出て星の海を突きぬけてしまうに違いない。
以上でレビューを終わらせていただく。後半はいささか主観的にすぎる文章となってしまったが、これも僕なりの愛情表現だと受け取っていただければ、幸いである。
『そこまで「レビューすること自体」について考えているならば、その考えを踏まえて、さまざまな作品についてのレビューを書いてみることの方をずっとオススメします』
これは、さやわか氏が横浜県氏のレビューに対して寄せた講評の一部である。ここで語られていることに僕は全面同意する。だがその上で、僕はとても感銘を受けた『レビュアー騎士団』というコンテンツに関して語らずにはいられない。だからここでは、レビュアー騎士団に関して語りつつ、その背後にある星海社の思想そのものについてレビューする、ということに挑戦してみたい。そのために、まずは「愛情」に関して触れる必要がある。
説明不要かもしれないが触れておこう。レビュアー騎士団とは読者投稿型のレビュー企画である。読者が星海社に関するレビューを書き、レビュアー騎士団へと送る。団長であるさやわか氏が優秀だと判定したレビューは、レビュアー騎士団のページに掲載される。
レビュアー騎士団のジャッジ方法は「愛情」「論理性」「発展性」の三つを軸に行われる。
紹介ページより引用させていただこう。
『上にあるものほど重要で、例えば「論理性」があっても「愛情」がなければ掲載や得点ができないことがある。三つの要素をすべて満たすと、例外なく最高得点である「金」が与えられる。』
つまりレビュアー騎士団のレビューにおいて、最も重要視されているのは「愛情」なのだ。これを見て、違和感を持った人もいるのではないだろうか? 何故なら「論理性」「発展性」はある種の客観性に立脚しているが、「愛情」は主観性の強い概念だからだ。通常、批評≒論文的な高度さを追求するのであれば、主観的な文章は極力排除される。中には対象を通して自分を語ってしまうものも多いが、少なくとも体裁としては主観性が混じらないことが是とされる。だがレビュアー騎士団は「愛情」を最も重要だと位置づけることで、レビューに主観性が混じることを強く肯定する。ここで示されているのは、あらゆる主観的なレビュー≒個人の価値観を全て肯定する、という態度だ。しかし、全てのレビューが掲載されるわけではない。
『採点はレビュアー騎士団の団長であるさやわかが単独で行う。採点にあたって、レビューの内容が作品に対して好意的であるかどうかは問わない。優れたレビューは必ず掲載し、高い得点を与える(さやわか保証)。』
ここには一見して矛盾がある。レビュー者の主観性を肯定するのであれば、レビューを選ぶ人間の主観性も肯定することになってしまう。それは結局、レビュアー騎士団においてはレビューを選ぶ人間の主観こそが正しい価値観なのだ、と標榜してしまうことにならないだろうか。
さやわか氏はその矛盾を注意深く回避することに成功している。それはレビュアー騎士団というコンテンツが、一定のルールに基づいたゲームとして設計されているからだ。恐らく、さやわか氏が最も気を配ったのはこの部分ではないか。例えばレビュアー騎士団は、さやわか氏や他の作家達が審査員を務める、という形式にもできたはずだ。だがそれでは先述の通り「審査員の価値観こそが正しい」という立場に繋がってしまう。そこでレビュアー騎士団は、ゲームルールという外部の基準によってレビューを選別する。さやわか氏は「レビューを(主観的に)審査する」のではなく、「レビューがゲームルールの基準をクリアしているか否か判定する」ことで、<「選ばれなかったレビュー≒価値観」の否定>を巧妙に回避しようとする。一見して遠回りながら、レビュアー騎士団は確実にその「愛情」を成立させることに成功している。
このことから分かるのは、レビュアー騎士団は「究極のレビュー」とでも言うような一つの到達点を目指すのではなく、多種多様なレビューをこそ読者に提示しようとしている、ということだ。それは「作品の楽しみ方」を提供することに他ならない。
僕らの趣味やライフスタイルはあまりにも拡散してしまっている。例えばtwitterのタイムラインは個人個人によって全然違うし、同じ教室で何年も一緒に暮らした奴が全然知らない音楽を聞いて全然知らない漫画を読んで全然違う文化に触れていたりする。そんなことは今や当然過ぎて、是非を問うことすら馬鹿馬鹿しい。
そんな世界に置いて重要なのは、「どの作品を選択するか」ではなく「どんな態度で作品に接するか」なのだ。レビュアー騎士団というゲームは、一つの視点に縛られない多用な見方をプレイヤーに要求する。そして「愛情」「論理性」「発展性」という、あくまで文章的な基準をクリアしたレビューを掲載し、あるプレイヤーの「作品の楽しみ方」を他のプレイヤーに対し提供する。このゲームの目的は星海社の作品を褒めることでは無い。レビューとして優れていれば貶していても構わないという。これもまた、重要なのは選択そのものではなくそのレビューに至った視点なのだ、ということを語っている。様々な視点を身につければ、それだけ作品を楽しめる可能性が増える。レビュアー騎士団が僕らに与えてくれるのは、その「可能性」なのだ。
また、レビュアー騎士団は夢中になればなるほど星海社のコンテンツに触れざるをえないように作られている。例えば一つの作品だけで五つも六つもレビューを書くのはかなり厳しい。レビュアー騎士団が盛り上がれば盛り上がるほど、プレイヤー達は星海社に関するあらゆるモノに触れようとするだろう。これを「星海社のコンテンツをよりたくさん消費するよう仕向けた罠」と捉える人もいるかもしれないが、それはあまりにも認識が一方通行すぎる。むしろ星海社は、いかにして読者と出版社の新しい関係――双方向的に影響しあう関係を築くか、ということに腐心している。Ustreamによる配信や新人賞の賞金システム、最前線セレクションズ、最前線のトップページに表示されるツイート等を見れば明らかだ。
そういった双方向的な関係を築くための柱となるコンテンツがレビュアー騎士団なのだ。プレイヤーが夢中になればなるほど星海社のコンテンツは消費される。そしてレビューが投稿され、レビュアー騎士団が盛り上がる。盛り上がれば盛り上がるほど様々な優れたレビューが掲載され、プレイヤー達は新たな「物語の楽しみ方」を得る。新たな視点を得たプレイヤー達はそれを持って再び星海社のコンテンツを消費する。盛り上がりは新たなプレイヤーを呼び寄せ、レビュアー騎士団が作りだす消費のサイクルに巻き込まれる。
これは確かに星海社のコンテンツを消費させることを狙っていながら、それでいて誰もが得をするような、幸せな共犯関係だ。星海社とその読者が互いを高め合う関係。僕は何よりも、二者を繋ぐための言葉が「愛情」であるということが素晴らしいと思う。このことが何よりも星海社の思想を象徴していると言ってもいい。読者や出版に対して強烈な愛情を持っていなければ、こんな関係性は思いつかないはずだ。だから僕はレビュアー騎士団が僕らのレビューを「愛情」という言葉で肯定するように、僕もレビュアー騎士団、ひいてはレビュアー騎士団に賭ける星海社の想いを、愛情をもって肯定したい。
願わくば、この繋がりが読者と星海社だけに終わらず、作品の作り手達をも巻き込むものになってほしい。僕らのレビューが作家に届き、作家はそのフィードバックを受けてより自身の作品を高める。これほどまでに幸せな関係があるだろうか? 誰もが相手を高めるために死力を尽くす。そんな関係になれたら、僕らの想いは本当に、地球を飛び出て星の海を突きぬけてしまうに違いない。
以上でレビューを終わらせていただく。後半はいささか主観的にすぎる文章となってしまったが、これも僕なりの愛情表現だと受け取っていただければ、幸いである。