空の境界
俯瞰する作者
レビュアー:ヨシマル
僕が「空の境界」に出会ったのは講談社ノベルスから上梓されて間もなくのことだった。当時から、奈須きのこの名前は有名ではあったし、『新伝綺』なる十代をくすぐる言葉で彩られた本は瞬く間に人気となった。もともと売り場の少ないノベルス売り場に長く平積みにされ、その美麗な表紙を見せつけていた。もともと奈須きのこの名前を知らない人でも「空の境界」を読んでいたし、「ファウスト」誌の存在を知らなくても『新伝綺』なる言葉を知っていた。
そんな中、僕も、かなりの期待と同程度の不安をもって本書に臨んだ。
そして見事に期待は裏切られ、不安が現実となった。
絶賛されていることが全く理解できなかった。僕にとってそれは数多ある物語の一つとして記録されるものだった。ある友人は言う「キャラクターが魅力的だ」、またある友人が言う「物語に重みがある」、それらの言葉に偽りはないのだろう。けれど、本文と同様どの言葉も僕には響いて来なかった。この会話に入れない僕の青春の一ページ、それは羞恥でも忸怩でもなく、諦念だった。
理解出来ない理由を文章のせいにしたし、心の中で作品自体を貶めようとも画策していた。それが意味のない行為であることも充分に承知もしていたし、なにより読書する自分の価値を下げるものであることもよく分かっていた。けれど、周りに対抗したいとする心は僕の中にもあったし、だから映画が公開されても見に行くこともなかった。
けれど、漫画として新たに形を変える段になって覚悟を決めることにした。自分が「空の境界」を受け入れることができないのは文章が苦手だったためなのかもしれない。漫画になれば、その要因はなくなり、物語それ自体を享受できるようになるかもしれない。そう思ってこの漫画に向かった。
だからこそ、僕はこの漫画を慎重に読んだ。初めて読むときの気持ちを大切に、バイアスをかけることなく素直な気持ちを持ちながら。僕の青春時代に輝いていた彼らの気持ちになれるように。
結果として僕の感想に変化が起きることはなかった。原作付きの漫画としては充分過ぎるほどのできだと思う。絵が上手い下手の判断はできないが、僕好みの絵柄ではあるし、作品の雰囲気ともマッチしている。それでも僕はこの物語に感動も歓喜も感傷も抱かなかった。僕にとってそれは消費される一つの物語のままだったのだ。
何故か。しかし、それは「殺人考察(前)」第一回を見て理解できた。この回の最後、誰が考えたのかは分からないが、漫画でしかできないギミックが施された。確かにそれは両手を挙げて喝采すべきものなのかもしれない。創造性に富み、まさに『最前線』な表現なのだろう。けれど、僕に見えたのはその表現方法を考えただろう誰かや、それを描いた誰かの姿だった。その瞬間から創造性は独善性に変わり、ギミックは自己満足の道具に成り下がった。
思えば最初に「空の境界」を読んだときに感じたものもこの種の印象だったのだろう。冒頭の話である「俯瞰風景」は特殊な時制で話が進む。この話を整理するためには、全体を一度上から眺めることが必要となってくる。そうすることで「俯瞰風景」の時制を理解し、それと同時にビルの上にいる幽霊の時制も理解しやすくなる。しかし、ひとたび僕が眺めようとすると、そこに作者・奈須きのこの幻影を見てしまう。僕が眺めることを許されたのは彼によって上空に上げられてしまったからだ。僕が眺めている、そんな僕を常に彼が眺めている。そんな気分にさせられてしまう。
僕は奈須きのこの幻影に捉えられながら読み進めざるを得なくなってしまっていた。それは知らず知らずのうちに、僕の気持ちを物語から引かせてしまっていたのだろう。キャラクターの行動、言動、思考、それらと向きあうことなしに、作者・奈須きのこと向きあってしまう。そして僕はそこからすぐに目を逸らしてしまったのだ。だからいくら媒体が変わろうと、僕の気持ちが変わることがなかったのだ。
だからこそ思う。作者と真摯に向き合い、目を逸らすことなくこの物語を享受している人たちが心底羨ましいと。できるならば僕もいつか正面から作者と対峙できることを望まずにはいられない。
そんな中、僕も、かなりの期待と同程度の不安をもって本書に臨んだ。
そして見事に期待は裏切られ、不安が現実となった。
絶賛されていることが全く理解できなかった。僕にとってそれは数多ある物語の一つとして記録されるものだった。ある友人は言う「キャラクターが魅力的だ」、またある友人が言う「物語に重みがある」、それらの言葉に偽りはないのだろう。けれど、本文と同様どの言葉も僕には響いて来なかった。この会話に入れない僕の青春の一ページ、それは羞恥でも忸怩でもなく、諦念だった。
理解出来ない理由を文章のせいにしたし、心の中で作品自体を貶めようとも画策していた。それが意味のない行為であることも充分に承知もしていたし、なにより読書する自分の価値を下げるものであることもよく分かっていた。けれど、周りに対抗したいとする心は僕の中にもあったし、だから映画が公開されても見に行くこともなかった。
けれど、漫画として新たに形を変える段になって覚悟を決めることにした。自分が「空の境界」を受け入れることができないのは文章が苦手だったためなのかもしれない。漫画になれば、その要因はなくなり、物語それ自体を享受できるようになるかもしれない。そう思ってこの漫画に向かった。
だからこそ、僕はこの漫画を慎重に読んだ。初めて読むときの気持ちを大切に、バイアスをかけることなく素直な気持ちを持ちながら。僕の青春時代に輝いていた彼らの気持ちになれるように。
結果として僕の感想に変化が起きることはなかった。原作付きの漫画としては充分過ぎるほどのできだと思う。絵が上手い下手の判断はできないが、僕好みの絵柄ではあるし、作品の雰囲気ともマッチしている。それでも僕はこの物語に感動も歓喜も感傷も抱かなかった。僕にとってそれは消費される一つの物語のままだったのだ。
何故か。しかし、それは「殺人考察(前)」第一回を見て理解できた。この回の最後、誰が考えたのかは分からないが、漫画でしかできないギミックが施された。確かにそれは両手を挙げて喝采すべきものなのかもしれない。創造性に富み、まさに『最前線』な表現なのだろう。けれど、僕に見えたのはその表現方法を考えただろう誰かや、それを描いた誰かの姿だった。その瞬間から創造性は独善性に変わり、ギミックは自己満足の道具に成り下がった。
思えば最初に「空の境界」を読んだときに感じたものもこの種の印象だったのだろう。冒頭の話である「俯瞰風景」は特殊な時制で話が進む。この話を整理するためには、全体を一度上から眺めることが必要となってくる。そうすることで「俯瞰風景」の時制を理解し、それと同時にビルの上にいる幽霊の時制も理解しやすくなる。しかし、ひとたび僕が眺めようとすると、そこに作者・奈須きのこの幻影を見てしまう。僕が眺めることを許されたのは彼によって上空に上げられてしまったからだ。僕が眺めている、そんな僕を常に彼が眺めている。そんな気分にさせられてしまう。
僕は奈須きのこの幻影に捉えられながら読み進めざるを得なくなってしまっていた。それは知らず知らずのうちに、僕の気持ちを物語から引かせてしまっていたのだろう。キャラクターの行動、言動、思考、それらと向きあうことなしに、作者・奈須きのこと向きあってしまう。そして僕はそこからすぐに目を逸らしてしまったのだ。だからいくら媒体が変わろうと、僕の気持ちが変わることがなかったのだ。
だからこそ思う。作者と真摯に向き合い、目を逸らすことなくこの物語を享受している人たちが心底羨ましいと。できるならば僕もいつか正面から作者と対峙できることを望まずにはいられない。