空の境界
コミカライズの神様、ありがとう。
レビュアー:牛島
まずは一言。
コミカライズの神様、ありがとう。
ここで「空の境界」について語れることはそれほど多くありません。
鋭くて、仄暗くて、難解で。
残酷で、哲学的で、美しくて。
純愛で、ボーイミーツガールで、ポエムで。
語ることが、読者を傷つけんばかりの激しさで書かれた小説版で受けた印象が中心になってしまいます。
今はまだ漫画版が始まったばかりの段階なので、それは当然なんですが。
さて。
今回の漫画化ですが。
「空の境界」がweb上で漫画化されている――天空すふぃあ先生が描く両儀式をみつけたとき、しかし私はこの漫画化の持つ意味を理解していませんでした。
素直に喜んで漫画を読みながら、しかし気づけば私は奇妙な感覚に襲われている。
小説を読んだときの、ページを捲る感覚を思い出しながら――それがひどく寂しかったのです。
この「空の境界」という作品の来歴ですが、今さら語るほどのことではないのですが、原作者の奈須きのこ氏が1998年にweb連載で始めたものがオリジナルとなっています。
それから同人ノベルスとして異例のヒットを叩き出し、ドラマCDにもなり、商業版として認知を広め――2007年には映画化にまで至りました(引用・順番等に間違いがあったとしたら、全て私の勉強不足です)。
そして今回の漫画化です。
前述の通り、私はこの漫画を読みながら常に寂しさを感じていました。
最初それがいわゆる新規ファン獲得に対する反感に近い感情なのか、と自問したりもしたのですが、むしろ近い世代のファンが増える事は素直に喜ばしいことです。
というか、ファンである以上新規ファンへの感情は排斥ではあり得ないと思っています。
なら、なにが寂しいのか。
映画を観たときにはまったく感じなかったこの感情の原因は何なのか。
そう考えるうちに、一つの答えが浮かびました。
ひょっとすると、この作品――斬りつけるような勢いをもった「空の境界」を本当の意味で楽しむことができるのは、これが最後の機会なんじゃあないか、と。
web連載の小説から始まり、同人・商業とステージを変え、ときにはドラマCDとなり、ときにはゲームのゲストキャラとして登場し、ついには映画化までされ――そして、ここ「最前線」で公式漫画化へと至りました。
「空の境界」はほとんどのメディアで表現されつくしました。
もちろんこれだけの人気作ですので、同人・アンソロジー・ファンサービスなスターシステム的なキャラクターの登場など、随所で「空の境界」を目にする事はあると思います。
しかし原作の形を保ったまま、原作をハッキリと思い出しながら作品を楽しむことが出来る、という条件ではこれが最後の機会ではないでしょうか?
映画化のときには考えもしなかったことが、いまさらにのしかかります。
読者である私は、それを寂しく思う気持ちが当然あります。
けれど考え方をかえればこれは「空の境界」が偉大だったからこそやもしれません。ただ消費され埋もれていくだけの作品だったなら……なんて、わざわざ言うまでもないでしょう。
この「空の境界」をとりまく大きな“流れ”――広義にはそのファンの熱気もコミカライズの神様だと思います。
手放しで喜ぶことなんてできはしない。けれど、その必要も無い。
寂しさをおぼえながら、それでも更新の日を待ち望んでいる自分がいる。
だから私は声を大にして言いたい。
コミカライズの神様、本当にありがとう。
コミカライズの神様、ありがとう。
ここで「空の境界」について語れることはそれほど多くありません。
鋭くて、仄暗くて、難解で。
残酷で、哲学的で、美しくて。
純愛で、ボーイミーツガールで、ポエムで。
語ることが、読者を傷つけんばかりの激しさで書かれた小説版で受けた印象が中心になってしまいます。
今はまだ漫画版が始まったばかりの段階なので、それは当然なんですが。
さて。
今回の漫画化ですが。
「空の境界」がweb上で漫画化されている――天空すふぃあ先生が描く両儀式をみつけたとき、しかし私はこの漫画化の持つ意味を理解していませんでした。
素直に喜んで漫画を読みながら、しかし気づけば私は奇妙な感覚に襲われている。
小説を読んだときの、ページを捲る感覚を思い出しながら――それがひどく寂しかったのです。
この「空の境界」という作品の来歴ですが、今さら語るほどのことではないのですが、原作者の奈須きのこ氏が1998年にweb連載で始めたものがオリジナルとなっています。
それから同人ノベルスとして異例のヒットを叩き出し、ドラマCDにもなり、商業版として認知を広め――2007年には映画化にまで至りました(引用・順番等に間違いがあったとしたら、全て私の勉強不足です)。
そして今回の漫画化です。
前述の通り、私はこの漫画を読みながら常に寂しさを感じていました。
最初それがいわゆる新規ファン獲得に対する反感に近い感情なのか、と自問したりもしたのですが、むしろ近い世代のファンが増える事は素直に喜ばしいことです。
というか、ファンである以上新規ファンへの感情は排斥ではあり得ないと思っています。
なら、なにが寂しいのか。
映画を観たときにはまったく感じなかったこの感情の原因は何なのか。
そう考えるうちに、一つの答えが浮かびました。
ひょっとすると、この作品――斬りつけるような勢いをもった「空の境界」を本当の意味で楽しむことができるのは、これが最後の機会なんじゃあないか、と。
web連載の小説から始まり、同人・商業とステージを変え、ときにはドラマCDとなり、ときにはゲームのゲストキャラとして登場し、ついには映画化までされ――そして、ここ「最前線」で公式漫画化へと至りました。
「空の境界」はほとんどのメディアで表現されつくしました。
もちろんこれだけの人気作ですので、同人・アンソロジー・ファンサービスなスターシステム的なキャラクターの登場など、随所で「空の境界」を目にする事はあると思います。
しかし原作の形を保ったまま、原作をハッキリと思い出しながら作品を楽しむことが出来る、という条件ではこれが最後の機会ではないでしょうか?
映画化のときには考えもしなかったことが、いまさらにのしかかります。
読者である私は、それを寂しく思う気持ちが当然あります。
けれど考え方をかえればこれは「空の境界」が偉大だったからこそやもしれません。ただ消費され埋もれていくだけの作品だったなら……なんて、わざわざ言うまでもないでしょう。
この「空の境界」をとりまく大きな“流れ”――広義にはそのファンの熱気もコミカライズの神様だと思います。
手放しで喜ぶことなんてできはしない。けれど、その必要も無い。
寂しさをおぼえながら、それでも更新の日を待ち望んでいる自分がいる。
だから私は声を大にして言いたい。
コミカライズの神様、本当にありがとう。