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読者レビュー

銀

空の境界

「すふぃあ版両儀式の目の表現について」

レビュアー:USB農民 Adept

webで連載されていた頃から、すふぃあ版の両儀式の評判は良かったし、私も着物姿で動き回る式というヒロインの魅力を改めて知ることとなった。
 だが、小説や劇場版で繰り返し見てきた物語に、なぜそのような思いを感じるのか、すぐには判然としなかった。
 私がすふぃあ版の式に感じたのは、何年も前に見た物語のヒロインに再会した懐かしさというよりも、今描かれ始めたばかりの新しいヒロインを前にしたような新鮮さが強かった。
 その理由は、単行本としてまとめて読み終えた時に、ようやくはっきりと掴むことができた。

「天空すふぃあの描く式には、胸を衝くほどの情念が込められている」

『空の境界』は、「死の線が見える主人公」こと両儀式の物語だ。
 そして、天空すふぃあの漫画は、原作や劇場版以上にするどく深く「両儀式」を描いている。
 原作者による上述のコメントは、そのことを強く示唆している。
 そして、それは漫画版『空の境界』の本質でもある。
 
 横向きにデザインされた表紙に躍るのは、ナイフを一閃させる式の姿だ。ナイフを構える式の姿は、小説の表紙や映画のイメージイラストなどで、これまでに何度となく描かれているが、それらとこの表紙は決定的に異なっている点がある。
 それは「目」だ。
 同人版、ノベルス版、文庫版と、小説だけでも何冊ものバリエーションのある『空の境界』だが、式のトレードマークである魔眼を強調するようなデザインの表紙は今までに一冊もない。強いて言えば、劇場版のイラストに数パターンがある程度で(第一章や第四章のイメージイラストなど)、これほどヴィジュアル化に恵まれた作品の主人公にしては、意外なほどに少ない。しかもその少数にしたところで、式の魔眼は本書に比べるとずっと控えめに描かれている。(逆に、ノベルス版や文庫版の表紙で強調されている赤いジャケットは、本書では背景に溶け込むような暗い赤色が使われている)

 また、作中でも式の「目」は要所要所で特徴的に使われている。
 例えば、式に殺された巫条霧絵の姿が散り散りに消えて行く場面。式の瞳に霧絵の姿が花のように映り込んでいる描写がある。あるいは、高校時代の式が下着姿で姿見の前に立つ時、読者の目に映る鏡像は、同時に式の視界でもある。(後者は、同様の場面が劇場版にも存在するが、ページ全体を使って描かれていることや、鏡面についた手などの描写の差異から、単純に映画のシーンをそのまま描いたのではないことが窺える)
 このような演出によって、式の見ている世界と、読者が見る世界の距離が縮められていく。結果、読者は式の内面により近づいていくことができる。(こういった積み重ねが「胸を衝くほどの情念が込められている」という評につながっている)

 漫画表現において、「目」はキャラクターを表現する際の重要な要素の一つだ。
 そして、『空の境界』において、式の魔眼は「死の線が見える主人公」という作品の初期構想を支える重要な要素である。(このことは原作者が対談などで語っている)
 つまり、式の「目」の表現を重視することは、両儀式というキャラクターの表現を深化させ、さらには作品全体の表現をも深化させることになる。
 だから、これまでの『空の境界』以上に式の魔眼を強調し、視界や視線による表現を丹念に積み重ねて行くすふぃあ版『空の境界』は、原作とも劇場版とも異なる在り方を示しながら、そのどちらよりも深い表現を目指しているのだろう。
 
 帯に大きく縦書きされた「魔眼、新生。」というコピーは実に的確だ。
 この漫画から『空の境界』に入る人には勿論、既に小説や映画で『空の境界』を知った人でもこの漫画は楽しめるはずだ。
 なぜなら、すふぃあ版『空の境界』と、そこに登場する両儀式は、そのような読者にとっても新しい出会いとなるはずだから。

2011.12.20

さやわか
文章は安定していて、とても面白く読めます。これはいいレビューですね。とりわけ式の目についての指摘は慧眼と言えるもので、批評性がとても高い。願えるならばラストの「新規読者にとっても新しい出会いとなる」というような結びも、目にまつわる話でまとめて締めてあればもっとよかったと個人的には思いました。なので「銅」にしようかなと思ったのですが、それ以上に目についての指摘自体がそもそも優れている。批評家だってこの漫画版『空の境界』について、こんな鋭い批評は書いていないと断言できます。なので「銀」にさせていただきました!

本文はここまでです。