空の境界theGardenofsinners
”TYPE-MOON教”の外からみた”空の境界”
レビュアー:さの
ぬるり、とひとつの動画がニコニコしたところにアップロードされた。
2008年2月28日のことである。
素材の少なさを感じさせない編集の巧みさ、そしてなにより元となった素材の質の高さに、衝撃を受けた。原作を知らない当時の自分も、なにか蠱惑的なものを感じていたと思う。
世の中に娯楽は多く、ネットもそれを写すように新しいコンテンツが生まれていく。
先の動画で受けた衝撃も、やがて麻痺して忘れていくはずだった。
変化があったのはショッピングサイトの、Amazonのランキングである。例の動画のタイトルと同じDVDが複数上位に食い込んでいたのである。空の境界は七章構成だが、当時の自分はそんなこと知る由もなく、ただただ異様な光景がそこにあった。
あの蠱惑的なものが、動画を飛び越えて自分に襲いかかってきたのを今でもよく憶えている。
原作の一章、俯瞰風景の台詞にはこうある。
「高所から見下ろす景色は壮観だ。なんでもない景色でさえ素晴らしい物と感じる。だがね、自分の住んでいる世界を一望した時に感じるのはそんな衝動じゃない。俯瞰の視界から得る衝動はただ一つ――」
衝動、と口にして、橙子さんは少しの間だけ言葉を切った。
衝動は理性や知性からくる感情じゃない。
衝動とは、感想のように自分の内側からやってくるものではなく、外側から襲いかかってくるものだと思う。
たとえ本人がそれを拒んでいようとも、不意に襲いかかってくる暴力のような認識。それを僕らは衝動と呼ぶ。では、俯瞰の視界がもたらす暴力とはなんなのか―――「それは遠い、だよ。」
私は「TYPE-MOON教」の外から、”そこ”への遠さを感じたのだと思う。
原作を読むことは、それを地図として、遠い”そこ”にたどり着くことに似ていた
先に一章劇場版を見ていなければ、とても理解できなかったであろう小説一章。
最初が語られる二章
そして、あの三章、痛覚残留。
物語は加速度的に面白くなっていった。”そこ”を目指して。
この体験は、きっと得難いものだったと思う。あの一章を乗り越えられたのは、劇場版による映像があってこそだったからだ。少なくとも、自分にとっては。
また、極めて個人的な理由がもうひとつある。
わたしには、姉か兄がいたのだ。流産で死んだ。
また彼、もしくは彼女がこの世に生を受けていたら、自分は生まれていない。
自分が母に宿ったのは、本来まだ居るべき人がいるはずの時期だったからだ。
死に対する恐怖を感じていた。自分のせいじゃないのに罪悪感を感じていた。
原作七章、殺人考察(後)の台詞にはこうある。
”人は、一生にかならず一度は人を殺す”
そう、なの?
”そうだよ。自分自身を最後に死なせるために、私たちには一度だけ、その権利が
あるんだ”
じぶんの、ため?
”そうとも。人はね、一人分しか人生の価値を受け持てないんだ。だからみんな、
最後まで辿り着けなかった人生を許してあげられるように、死を尊ぶんだ。
命はみんな等価値だからね。自分の命だからって、自分の物ではないんだよ”
彼もしくは彼女は、自分の死を受け持ったのだ。
この硬質の哲学は、私の一生の宝物だと思う。
2008年2月28日のことである。
素材の少なさを感じさせない編集の巧みさ、そしてなにより元となった素材の質の高さに、衝撃を受けた。原作を知らない当時の自分も、なにか蠱惑的なものを感じていたと思う。
世の中に娯楽は多く、ネットもそれを写すように新しいコンテンツが生まれていく。
先の動画で受けた衝撃も、やがて麻痺して忘れていくはずだった。
変化があったのはショッピングサイトの、Amazonのランキングである。例の動画のタイトルと同じDVDが複数上位に食い込んでいたのである。空の境界は七章構成だが、当時の自分はそんなこと知る由もなく、ただただ異様な光景がそこにあった。
あの蠱惑的なものが、動画を飛び越えて自分に襲いかかってきたのを今でもよく憶えている。
原作の一章、俯瞰風景の台詞にはこうある。
「高所から見下ろす景色は壮観だ。なんでもない景色でさえ素晴らしい物と感じる。だがね、自分の住んでいる世界を一望した時に感じるのはそんな衝動じゃない。俯瞰の視界から得る衝動はただ一つ――」
衝動、と口にして、橙子さんは少しの間だけ言葉を切った。
衝動は理性や知性からくる感情じゃない。
衝動とは、感想のように自分の内側からやってくるものではなく、外側から襲いかかってくるものだと思う。
たとえ本人がそれを拒んでいようとも、不意に襲いかかってくる暴力のような認識。それを僕らは衝動と呼ぶ。では、俯瞰の視界がもたらす暴力とはなんなのか―――「それは遠い、だよ。」
私は「TYPE-MOON教」の外から、”そこ”への遠さを感じたのだと思う。
原作を読むことは、それを地図として、遠い”そこ”にたどり着くことに似ていた
先に一章劇場版を見ていなければ、とても理解できなかったであろう小説一章。
最初が語られる二章
そして、あの三章、痛覚残留。
物語は加速度的に面白くなっていった。”そこ”を目指して。
この体験は、きっと得難いものだったと思う。あの一章を乗り越えられたのは、劇場版による映像があってこそだったからだ。少なくとも、自分にとっては。
また、極めて個人的な理由がもうひとつある。
わたしには、姉か兄がいたのだ。流産で死んだ。
また彼、もしくは彼女がこの世に生を受けていたら、自分は生まれていない。
自分が母に宿ったのは、本来まだ居るべき人がいるはずの時期だったからだ。
死に対する恐怖を感じていた。自分のせいじゃないのに罪悪感を感じていた。
原作七章、殺人考察(後)の台詞にはこうある。
”人は、一生にかならず一度は人を殺す”
そう、なの?
”そうだよ。自分自身を最後に死なせるために、私たちには一度だけ、その権利が
あるんだ”
じぶんの、ため?
”そうとも。人はね、一人分しか人生の価値を受け持てないんだ。だからみんな、
最後まで辿り着けなかった人生を許してあげられるように、死を尊ぶんだ。
命はみんな等価値だからね。自分の命だからって、自分の物ではないんだよ”
彼もしくは彼女は、自分の死を受け持ったのだ。
この硬質の哲学は、私の一生の宝物だと思う。