ここから本文です。

「銀」のレビュー

銀

遙か凍土のカナン

パッケージ詐欺に泣いたことのある男子諸君へ。

レビュアー:オペラに吠えろ。 Lord

 パッケージ詐欺、という言葉をご存じだろうか。
 いやいや、知らないふりをする必要はない。紳士諸君ならば一度は騙されたことがあるはずだ。多数のエッチな雑誌やビデオという砂漠を前にしたとき、目の前にある広大なそれから、一本の針にも等しい『俺好みのアレ』を見つけるには表紙やらパッケージが唯一の参考資料となる。しかし、それがフォトショで加工されたものだったとしたら? もしくは、その被写体が最高級にかわいく見えるアングルを計算し尽くされたものだとしたら?
 そうだ、そのガッカリ感をもたらすものこそ、パッケージ詐欺だ。

 では、本を探すときはどうだろう? 著者名やタイトル、あらすじ、そして表紙を参考にする人がほとんどだろう。わたしもそうだった。本書『遙か凍土のカナン』の著者は『マージナル・オペレーション』の芝村裕吏であり、表紙にはかわいい女の子が描かれている。いいじゃないか。しかも裏表紙にあらすじを読むと、どうやらこの女の子のために軍人ががんばる話らしい。おうおう、ますますいいじゃないか……。

 おそらく、そんな表面的な情報からこの本を手に取った人は、がっかりするに違いない。なぜなら、表紙の美少女は130ページを過ぎるまで登場しない。しかもそのうち100ページは日露戦争屈指の激戦といわれている黒溝台の戦いの描写に割かれている。そこで描かれるのは美少女どころかむっさい男の軍人である。しかもそいつらが死ぬ。結構簡単に死ぬ。『プライベート・ライアン』かよ……と思うくらいには人が死ぬ、と言ったら、わかる人にはわかるだろうか。

 しかし、戦士たちよ。そうした描写にこらえ、きみ、死にたもうことなかれ。

 それを乗り越えた先には可憐なコサック少女のヒロインたるオレーナが待っている。紳士ならばわかるだろう。パッケージ詐欺に騙されつづけた後、たどりついた美少女がいかに輝いて見えるかを。本書のヒロインのオレーナはかわいい。ちょっと世間知らずでワガママなところもGoodである。わたしにはなぜ、主人公の良造が頑ななまでにオレーナを拒むのかがわからない。だが、そういうふうにじらされるのもいい。実にいい。

 本書はおそらく、これから続くシリーズの序章にあたるのだろう。パッケージ詐欺に思えた冒頭の戦争描写も全ては、良造とオレーナの出会いが起こるべくして起こったのであるということを説明するためのものだ。そう、物語は始まったばかりであり、本書の表紙をパッケージ詐欺だと断ずるにはまだ早い……そんなふうにわたしが思ってしまうのも、オレーナの魅力のなせるわざだろうか。オレーナかわいいよオレーナ。もうお前はオレノナ、なんちって。

「 パッケージ詐欺に泣いたことのある男子諸君へ。」の続きを読む

2014.03.27

銀

2WEEKS 人形使いのペトルーシュカ

未分化の生きものを見るような

レビュアー:鳩羽 Warrior

なんとも不思議な小説だ。たびたび出てくるネクタールという単語からの連想のせいだろうか、液体のような固体のような、ねっとりと止まっている中に何かが蠢いているような不穏さを感じる。
驚異的な治癒力のせいで不死身になった少年と、同じく驚異的な身体能力を持った無敵の少女が出会った、その後の続きの話だ。墜落した宇宙船の一部であるネクタールというモノに、この特異能力は由来している。
主人公・上代は、死んだはずの存在を生き返らせたことに罪の意識を持ちながらも、とりあえずは平穏に暮らしていた。そこへホルマリン漬けにされた子供を生き返らせてほしいという女が現れ、仲間の命をたてに上代に能力を使うように脅迫する。

同級生や家族は、上代の視点から見るとまるで影絵のような存在感しかない。ガラス越しに見ているかのような、どうしようもなく隔てられた感覚があり、他の人間とは違うということは、こんなにも同じ空間を共有できないものなのかと薄ら寒い心持ちにすらなった。
死ぬはずだった存在を生き返らせたことは、上代にとって大きな十字架となってのしかかるが、不死身の上代にとっての贖罪とは果たして生きることなのか死ぬことなのか。そもそも死ぬことがない人間は、生きていると言えるのだろうか?
上代の思考は、不死身の肉体のなかをただどろりと巡っているだけだ。

積極的に解決すべき問題、倒すべき敵が見当たらないうちは、上代という存在はだらだらと心地よく揺蕩っているだけなのだろう。それはホルマリン漬けの子供とよく似ている。
瓶の中の子供を生き返らせるのか死なせるのか、決めてしまえばすっきりとすることに間違いはない。けれどこのまま、じわじわとした変化の成り行き任せに、閉じこもっていてはいけないだろうか。
健康的とは言えないが、その揺らぎに共振するとなんだかとても気持ちがいい。もうしばらく、このままとろとろと目を閉じて籠っていたい。そんな気分にさせられるのだ。
そしてその選択の方が、危険が少ない場合もある。
満ちてくる不穏の気配と、それに対する準備に、目が離せない2巻目だった。

「 未分化の生きものを見るような」の続きを読む

2014.03.27

銀

オカルト「超」入門

手品の種明かしにがっかりしたことがある人へ

レビュアー:オペラに吠えろ。 Lord

 義兄は、手品が趣味だった。幼いわたしはよくそのパフォーマンスを見せてもらったのだが、そのときに痛感したのは、たいていの種明かしはあっけないということだった。たとえば、手のひらにあったコインが次に手を開いた瞬間には消えているマジック。目の前で展開されていたときにはあれほどまでに魔法めいていたというのに、そのタネはといえばがっかり大賞ものだった。

 本書「オカルト『超』入門」は、そんな種明かしを集めた一冊ということができるだろう。ただし、種明かしされるのは手品ではなく、「UFO目撃」や「心霊現象」といったオカルトの類いだ。著者は関係者の証言にある矛盾を指摘したり、証言の信憑性を疑ったり、時には歴史学や物理化学の知識を持ち出し、不思議に思えて仕方のなかった出来事が、実は不思議でも何でもなかったということを暴いてみせる。

 手品の種明かしに多くの人ががっかりするのは、手品というものが基本的には観ている側の錯覚や思い込みを利用したものだからだ。だから手品の種明かしというのは、オカルトを例に言ってみれば、UFOについて「ただの見間違えだよ」と言うのに等しい。それではおもしろくないはずだ。だが本書では「ただの見間違えだ」というのを発端に、その裏にある人間の心理をえぐりだす。たとえば、UFOの目撃例が多かったのは、第二次世界大戦の終了直後や米ソ冷戦のさなかであり、当時の人々は「空から攻めてくる誰か」に恐怖を覚えていた、だから正体不明の飛行物体を宇宙からの侵略者の乗り物であると信じる人が多かった……というふうに。

 もちろん世の中には「本当のオカルト」とでもいうべき、人知を超えた不可思議な事象もあるのかもしれないが、本書の中に出てくるのは、基本的にはオカルトではないものをオカルトに見せかけた「オカルト的なもの」である。つまり、人がどのようにして「オカルト的なもの」を作り出してしまうかというメカニズムの一端が説明されている。それを読み、騙された人々を「愚かだなあ」と笑うのはたやすい。だが、それは手品の種明かしを知って「何だ、そんなことか」とがっかりすることに等しいだろう。大事なのは「なぜ」そんなことに騙される人がいたかということなのである。本書に書かれた「騙される側」の心理を知ることは、自分が騙されない側に立つためにも必要なはずだ。

「 手品の種明かしにがっかりしたことがある人へ」の続きを読む

2014.03.27

銀

壜詰病院

音楽のように読む小説

レビュアー:zonby Adept

目を使って小説を読むということは、もう長い間続けてきたのだけれど、耳を使って小説を読むというのは初めてで、例えるならそれは、耳の中にとろとろと水のような、しかし水ではない何かもっと濃密で複雑な液体を少しずつ流し込んでゆくような感覚だった。
佐藤友哉が紡ぐ「壜詰病院」という源液を、朗読者である古木のぞみの透明感があり、どこかイノセントな印象を持つ声で希釈する。そこにピアノの旋律と赤ん坊の鳴き声を加えて、その液体は出来上がっている。
イヤフォンから流れ出したそれは、何の抵抗もなく鼓膜をすり抜け脳内に侵入し、拡散する。
物語は頭の中で活字に姿を変え、映像に姿を変え、驚くほど鮮やかなイメージを炸裂させながら駆け抜けていった。それはとても足が早い。
夢から醒めたような心地でイヤフォンを外し、たった今聞いたばかりの物語を反復しようと試みるのだけれど、浮かんでくるのは断片的なイメージや台詞。ぼんやりとした全体的な雰囲気などだけで、一本のまとまりのあるストーリーを思い描くことはどうしてもできなかった。

それに気づいた時、実はちょっとショックだった。

本を読む時、読み終わってから思い出せないような読み方をしたことはない。読んだからにはストーリーを覚えていたいと思うし、人物の感情の機微や仕掛けを把握しておきたいと思う。
「壜詰病院」だって同じだ。「耳で読む」という方法が違うだけで、自分なりに真剣に「読んだ」つもりだったからだ。
耳から物語や世界観が入ってくるという読み方に慣れていないせいだからだろうか?と考えた。
ならば、慣れるように流したままにしてみよう。とループに設定し、再生をクリック。

…。
ループした具体的な回数など覚えていない。
最初は集中し、文章の一言一句を覚えようとするかのようにじっと座って聞いていたのだが、段々それにも耐えられなくなり、違う作業をしながら聞き出していたからだ。
相変わらず、ストーリーはうまく覚えられないままだったが、しかし明確に変化した点はあった。
一言で言うと、馴染んだのだ。
馴染んだ。
染み込んだ。
スポンジに水を垂らす様を思い浮かべて欲しい。乾いたスポンジに水を垂らしても、最初の一滴は染み込むばかりか弾かれてしまうだろう。だが、一度表面に染み込み、道筋ができると面白いように水を吸い込むようになる。私の頭に起こったことも、それと似ている。
一度よりも二度。二度よりも三度。三度よりも四度と聞いていく内に、私の頭の中には道筋ができ、「壜詰病院」が流れる度に、その道筋は太く広くなり、流れる情報を量も増えてゆく。
やがて頭の中が物語の雰囲気や空気で飽和し、最初とは比べ物にならないくらいの愛着が生まれているのを確認するのだ。
そうやって作品を自分の中に取り込む、馴染んでゆく様は過程は音楽を聞くことに似ているかもしれない、と感じた。
好きなアーティストの新曲が出た時、一回聞いただけでは勿論、覚えられない。しかし何度も繰り返し聞く内に、いつの間にか曲に合わせて口ずさめるようになっている自分に気付くだろう。
寄り添うように、ごく自然に、外側からきたはずのそれが、いつしか内側のものになっているという感覚。
物語を頭で理解するというよりも、身体で理解すると表現できるような感覚は、私にとって初めてのものだった。

私が今までしてきた読書とは随分方法が違うけれど、これが「壜詰病院」という耳で読む小説の一つの読み方なのかもしれない。
何度も繰り返す、というのが大きなポイントだ。
一度に全部を理解しようなんて身構えなくても良い。
物語に、朗読の声に身を委ね、受け入れて揺蕩うだけで良いのだ。
音楽を聞くように、読めば良いのだ。
そうすればいつの間にか、遠そうに見えた距離は縮まり
きっと貴方は

「壜詰病院」の中に流れ着く。

「 音楽のように読む小説」の続きを読む

2014.03.27


本文はここまでです。