オカルト「超」入門
手品の種明かしにがっかりしたことがある人へ
レビュアー:オペラに吠えろ。
義兄は、手品が趣味だった。幼いわたしはよくそのパフォーマンスを見せてもらったのだが、そのときに痛感したのは、たいていの種明かしはあっけないということだった。たとえば、手のひらにあったコインが次に手を開いた瞬間には消えているマジック。目の前で展開されていたときにはあれほどまでに魔法めいていたというのに、そのタネはといえばがっかり大賞ものだった。
本書「オカルト『超』入門」は、そんな種明かしを集めた一冊ということができるだろう。ただし、種明かしされるのは手品ではなく、「UFO目撃」や「心霊現象」といったオカルトの類いだ。著者は関係者の証言にある矛盾を指摘したり、証言の信憑性を疑ったり、時には歴史学や物理化学の知識を持ち出し、不思議に思えて仕方のなかった出来事が、実は不思議でも何でもなかったということを暴いてみせる。
手品の種明かしに多くの人ががっかりするのは、手品というものが基本的には観ている側の錯覚や思い込みを利用したものだからだ。だから手品の種明かしというのは、オカルトを例に言ってみれば、UFOについて「ただの見間違えだよ」と言うのに等しい。それではおもしろくないはずだ。だが本書では「ただの見間違えだ」というのを発端に、その裏にある人間の心理をえぐりだす。たとえば、UFOの目撃例が多かったのは、第二次世界大戦の終了直後や米ソ冷戦のさなかであり、当時の人々は「空から攻めてくる誰か」に恐怖を覚えていた、だから正体不明の飛行物体を宇宙からの侵略者の乗り物であると信じる人が多かった……というふうに。
もちろん世の中には「本当のオカルト」とでもいうべき、人知を超えた不可思議な事象もあるのかもしれないが、本書の中に出てくるのは、基本的にはオカルトではないものをオカルトに見せかけた「オカルト的なもの」である。つまり、人がどのようにして「オカルト的なもの」を作り出してしまうかというメカニズムの一端が説明されている。それを読み、騙された人々を「愚かだなあ」と笑うのはたやすい。だが、それは手品の種明かしを知って「何だ、そんなことか」とがっかりすることに等しいだろう。大事なのは「なぜ」そんなことに騙される人がいたかということなのである。本書に書かれた「騙される側」の心理を知ることは、自分が騙されない側に立つためにも必要なはずだ。
本書「オカルト『超』入門」は、そんな種明かしを集めた一冊ということができるだろう。ただし、種明かしされるのは手品ではなく、「UFO目撃」や「心霊現象」といったオカルトの類いだ。著者は関係者の証言にある矛盾を指摘したり、証言の信憑性を疑ったり、時には歴史学や物理化学の知識を持ち出し、不思議に思えて仕方のなかった出来事が、実は不思議でも何でもなかったということを暴いてみせる。
手品の種明かしに多くの人ががっかりするのは、手品というものが基本的には観ている側の錯覚や思い込みを利用したものだからだ。だから手品の種明かしというのは、オカルトを例に言ってみれば、UFOについて「ただの見間違えだよ」と言うのに等しい。それではおもしろくないはずだ。だが本書では「ただの見間違えだ」というのを発端に、その裏にある人間の心理をえぐりだす。たとえば、UFOの目撃例が多かったのは、第二次世界大戦の終了直後や米ソ冷戦のさなかであり、当時の人々は「空から攻めてくる誰か」に恐怖を覚えていた、だから正体不明の飛行物体を宇宙からの侵略者の乗り物であると信じる人が多かった……というふうに。
もちろん世の中には「本当のオカルト」とでもいうべき、人知を超えた不可思議な事象もあるのかもしれないが、本書の中に出てくるのは、基本的にはオカルトではないものをオカルトに見せかけた「オカルト的なもの」である。つまり、人がどのようにして「オカルト的なもの」を作り出してしまうかというメカニズムの一端が説明されている。それを読み、騙された人々を「愚かだなあ」と笑うのはたやすい。だが、それは手品の種明かしを知って「何だ、そんなことか」とがっかりすることに等しいだろう。大事なのは「なぜ」そんなことに騙される人がいたかということなのである。本書に書かれた「騙される側」の心理を知ることは、自分が騙されない側に立つためにも必要なはずだ。