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「銀」のレビュー

銀

「画展 空の境界」

「画展 空の境界」で大きな絵を鑑賞したときのこと

レビュアー:USB農民 Adept

 大きい絵を鑑賞することの快感は確かにある。
 昔はよくわからなかった。二十代半ばくらいまでは、ディスプレイ一杯に表示される美少女こそが至高だと思っていた。

 三月。私は「画展 空の境界」に行った。
 そこで大きな絵を観た。
 小説の表紙や、映画版パンフレットのイラストといった、これまで何度も見てきた絵だ。でも、それらとは大きさが違う。
 大きさが違うだけで、こんな風に絵の印象が変わるとは思わなかった
 ため息とか出た。

 絵が大きくなると何が違う?
 違いはすごく物理的で単純なことだ。
 顔が大きく描かれるから、キャラクターの表情が読みとりやすい。あと、偶に式と目が合う。
 光の描写が大きく描かれるから、暗い部分との対比が際だつ。暗い場所で、鋭く強い光を受ける式と、その周囲にある暗い場所の対比が印象的だった。
 絵の中で流れる空気なんかも、風で揺れる着物の動きが大きいから実感しやすい。特に会場で最大のサイズを誇っていた「春の悠」と題された式の絵は、何も描かれていない余白にも風の流れが見えるかのようなリアリティだった。
 あと、なにより絵が大きいと、観るのに時間がかかる。これが一番重要かもしれない。画展という場所は、鑑賞者に時間と空間の消費を求める。絵を鑑賞している間の、人によって数秒だったり、数分だったり、それ以上だったりするその時間は、他のことができないし、その場所から移動できない。小さい絵だったら、そんなことは普通起こらない。大きい絵は、小さい絵よりも鑑賞するのにエネルギーが必要で、その分、観る側の感情も大きく動かされる。

 武内さんの大きな絵を鑑賞することは、とても楽しかった。心地よかった。
 画展のパンフレットが、A3サイズに作られていることの意味も、会場を出た頃には自分なりに飲み込めていた。
 帰宅して、パンフレットを広げると、そこには武内さんの描く大きな式の絵が現れた。
 ため息が出た。

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2014.05.20

銀

「自分でやった方が早い病」

とある罹患患者の告白

レビュアー:オペラに吠えろ。 Lord

「他人に任せるより、自分でやった方が早い」と思う人は決して少なくないと思う。実を言うと、私もその一人。だから、本書で書かれている「自分でやった方が早い病」患者の思考回路はよくわかる。わかりすぎるほどよくわかる。

 でも、今はいいかもしれないけれど、そのままじゃダメなんだと教えてくれるのが本書。そこで重要なのは、タイトルにもなっている「自分でやった方が早い」というよりは、タイトルには含まれていない「他人に任せるより」という部分。要するに、そういう人は他の人を信用していないわけ。他人に任せられると思っていないわけ。どうせ自分が後でチェックしたときにやり直さなきゃいけないんだから、最初から自分でやった方がいいと思っているわけ。

 はい、その思考回路、全てアウトです。

 どうしてアウトなのかは、第3章を読めばわかると思う。例えば、第3章の「病の根本にある『自分さえよければ』という考え方」というタイトル。身に覚えのある人は、ここでグサリとやられよね。でもね、まだまだそんなもんじゃない。この章の小見出しはどれも結構きつい。「『人のため』と言いながら自分の利益しか考えていない」(グサ)、「まわりの人と一緒に成長しようとしていない」(グサッ)、「『自分でやった方が早い病』になるのは『自分大好き人間』」(グサグサッ)……あー、そうです。全部に身に覚えがあります。そして、個人的にトドメを指されたのがこれね、「エースピッチャーの快感に浸り、マネージャーの喜びを知らない」。もうね、完全に見抜かれていると思った。

 こういうふうに改めて文章にされると、客観視できるというか、自分がいかにわがままな人間かと痛感させられるのね。うん、要するに「わがまま」っていうのが「自分でやった方が早い病」患者の性質なんだよね。すごく、思い当たるところがあるもの。

 え、どうしてそれがだめなのかって? 「自分でやった方が早い病」でも、ちゃんと仕事をできているならいいじゃないか、って?

 まあ、それはそうなんだけど、それって「今は」っていう条件付きだよね。10年後に自分がどうなっているかなんて絶対にわからないけどさ、この本では一応、このまま病気が進行しちゃった人にも触れている。結構ヒサンで、それが絶対的に正しいとはいわないけど(たぶん、ちょっと極端な言い方をしていると思う)、でも少なくとも私はああはなりたくないかな。そして著者は、それに気付けたのならまだ遅くはないって教えてくれているんだよね。どうやったら病気から抜け出すことができるかも含めて、さ。

 もちろん、この本を読んだだけで根本から「わがままな自分」を変えられるなんて思っちゃいないよ。でも、読むことで、いかに自分がわがままで、自分本位な人間かっていうのはわかったから、それが最初の一歩だとは思ってる。この本にも出てくるんだけどさ、「無知の知」っていうの? 自分が今まで知らなかったっていうことを知るのって、すごく大事だと思うんだよね。まあ、だから、私は明日から頑張ってみようと思うわけ。他人を信頼するとかそういうのはハードルが高いから、自分が「わがまま」だっていうことを自覚して生きてみようと思ったのね。そうすることで何が変わるかわかんないけどさ、何か変わるきっかけを与えてくれたってだけで、この本を読んでよかったって思えたよ。

あんたがどう思うかはわかんないけど、とりあえず、読んでみたらいいんじゃないかな。

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2014.05.20

銀

「仕事をしたつもり」

「つもり」がつもりつもってツモになる。

レビュアー:オペラに吠えろ。 Lord

 「つもり」には、2種類の「つもり」があると思う。一つはうっかりミスの類いで、頼まれていたことをすっかり忘れていた時なんかに「ごめん、ごめん。すっかりやっていたつもりだった」と言い訳するような「つもり」。やられた方はたまったものじゃないけれど、これはやった方も自分が悪いことを知っているからまだいい。

 もう一つの「つもり」はもっとずっと厄介で、本人はやったつもりなのに、周りから見ると実は全然できていない、というもの。例えば、誰かに「そこにゴミがあるから、部屋の掃除をしておいてくれる?」と頼んだとして、その誰かは散らかっている紙くずをゴミ箱に捨てたとする。その人は「紙くずをゴミ箱に入れた」から「掃除をした」と思っている。でも、机の上には埃が積もっているし、掃除機をかけていないから髪の毛が落ちていたりしている……。

 想像してみてほしい。そうしたときに「全然掃除できていないじゃない!」と言ったとしたら、相手はどういう反応をするだろう? 「ごめん、ごめん。すっかりやっていたつもりだった」と謝ってくる? うーん、その可能性は低いと思う。多くの人は「ちゃんと言われた通り『ゴミを捨てて』掃除をしたのに、何でそういうふうに言うの?」と不機嫌な顔をするんじゃないだろうか。

 本書「仕事をしたつもり」で苦言を呈されているのは、この後者の「つもり」だ。言ってしまえば、本人は「仕事をしたつもり」でいることを疑ってもいないけれど、実が伴っていないという類いのもの。一部の隙もなく作られた会議の時の配付資料、ただ数だけを課せられた営業ノルマetcが「仕事をしたつもり」の典型例として提示すると、著者は「つもり」を看破し、その中身の無さを糾弾してみせる。

 ただし、本書はそうした「つもり」を切り捨てるだけではない。それがどうして「つもり」になってしまったのかを分析することで、「仕事をしたつもり」を「仕事をした」にするテクニックも紹介してみせる。とりわけ、「営業ノルマ」がなぜ「つもり」になってしまうのかを解説するくだりは秀逸だ。1日200件の営業電話はただ数だけをこなそうとしても意味がない。200件の電話をすれば、10件は次につながりそうな芽が見つかる。だから、その10件を見つけるために電話をする……という、言われてみれば当たり前のことだけれど、忘れがちなそのことに読者の目を向けさせる。

 結局のところ、著者が言いたいのは「自分の目で見て、自分の頭で考えろ」ということなのだと思う。先に挙げた掃除の例を再び使うのならば、部屋のゴミを拾おうとしたとき、床に埃がたまっていることに気が付くだろう。そうしたら「掃除をする」というのが「ゴミを拾う」だけではないことに思い至るはずだ。そのように、ただ相手の言うことを鵜呑みにするのではなく、相手の言うことに、どんな意味があるのかを自分で考える。その「考える」ことの大切さを本書は教えてくれる。

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2014.05.20

銀

「武器としての決断思考」

僕の後ろに道は出来る

レビュアー:オペラに吠えろ。 Lord

 タイトルにもなっている「決断思考」とは、「自分で考え、自分で決めていくための方法論」のことです。これまではレールの上を歩くような人生を送ることができました。いい高校に行けば、いい大学に行けて、いい仕事に就ける……そんなレールが確かに敷かれていた時代があったのです。

 ですが、それはもう昔のこと。現代を生きる若者たちは、予め敷かれたレールではなく、自分たちでレールを敷いていく生き方を求められるようになりました。そのとき、どの方向に、どのようにレールを敷いていくのか? どこを目的地に設定すればいいのか? そうした「決断」が必要されるのです。

 この本では、ディベートにおける思考プロセスを解説することで、そんな「決断」するための思考のエッセンスを説明しています。あまり知られていませんが、ディベートというのは“特定のルールに則った”議論であり、個々人の意見・嗜好は重要視されていません。必要なのは、客観的な事実であり、正解ではなく最善解を求めようとする姿勢なのです。

 著者はそうしたことを触れながら、「決断」に至るまでの道のりを具体例を挟みながら説明していきます。それはさながら、レールを敷く作業のような印象を受けます。信憑性を見極めた情報を丁寧に積み上げていき、やがて「決断」という目的地にたどり着く。どうしてその「決断」を下すことになったのかは、振り返ればすぐにわかる。これは牽強付会が過ぎるかもしれませんが、そうした考え方ーーこの本で言うところの「決断思考」というのは、その人だけの地図を作る作業のことを指すのではないでしょうか。

 「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」とは、高村光太郎の詩「道程」の冒頭です。光太郎は「流れた時間」を「道」になぞらえ、自分は自分で作るもの、自分の道は自分で切り開くものだと訴えました。では、そのときに何が必要なのか? 何が「武器」になるのか? その答えが「決断思考」だとわたしは思うのです。

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2014.05.20


本文はここまでです。