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レビュアー「USB農民」のレビュー

銀

大日本サムライガール

起業家片桐杏奈

レビュアー:USB農民 Adept

 おそらくおっぱいを揉ませたら彼女の右に出る者はアイドル界にいないのではないだろうか。そう思わせる魔性の技を、片桐杏奈はもっている。
 というのが、杏奈というキャラクターに対する私の所感だったが、そのイメージは五巻の物語において覆された。
 トップアイドルとしての現状を維持するのではなく、自分の目標のために起業の道に進む選択をした杏奈。おっぱい賑やかし要員として、ヒロインのかわいさアピールに貢献していた彼女は、実は自分の人生について芯の通った考えを持った人格者だった。物語における役割の変化が、彼女のイメージにギャップを生んでいる。
 杏奈は、彼女自身も口にしているが、日毬の大目標に邁進する意志の強さに影響されたのだろう。日毬というメインヒロインが、他のキャラクターに影響を与えて変化させていくのがこの作品の構図となっているが、私としては、杏奈もまた、誰かに影響を与えるような存在になるのではないかと思った。杏奈の行動と決断からは、日毬のようにいつか必ず目標を叶えようという強固な意志が感じられたからだ。フィクションのキャラクターだとわかっていても、なんというか、素直にすごいと思えた。

 この作品に登場するヒロインは他にも多数いるし、これから新キャラクターが増える可能性もある。彼女たちもまた、日毬や杏奈のように、不退転の決意を見せるのか、それとも別の形で意志の強さを見せるのか。今後の物語でどう描かれていくのか非常に楽しみだ。

 しかし杏奈には、起業後も引き続き、おっぱい賑やかし要員として活躍してほしい。それはそれで、キャラクターの魅力を引き立てる大事な要素なのだから。

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2013.07.08

銀

『レッドドラゴン』

呼気を感じる3枚のイラスト

レビュアー:USB農民 Adept

 久しぶりに実家に帰ると、本棚に子供の頃読んだ絵本が何冊か残っていて、『タンタンの冒険』などを数年ぶりに手にとって読んでみたところ、とても懐かしい気分になるとともに、どこかでこれに似たような感じの絵を見たような感覚を覚えた。
 しばらくして、それが「レッドドラゴン」の挿し絵だったと気づいて、「ははん!」と短く呟いた。
『レッドドラゴン』3巻の終盤、忌ブキが自らの迷いをスアローに相談し、自分なりの答えを得て、エィハに言葉を告げに行くシーン。ここでの挿し絵は、冒険に立ち向かうタンタンのように、躍動感に溢れている。

 挿し絵は2ページに渡って続いているが、それは文章と並列して置かれている。
 まず、部屋を飛び出した忌ブキに、スアローが後ろから声をかけている様子が、文章とイラストで同時に描かれる。そして項をめくると、ページ右上部に部屋から部屋へと駆けていく忌ブキの姿、ページ中央にはシーンを描写する文章が流れ、そしてページ左下部に、忌ブキの突然の訪問にキョトンとした様子で座っているエィハの姿が描かれている。
 文章と並列されたこの3つのイラストの躍動感は、マンガの絵のように活き活きとした動きが見えてくるようで実に見事だった。
 たぶん、文章を読みながらイラストを目で追っていくことで、自然と右から左へと視線が誘導されたのだと思う。その視線の動きが、キャラクターの動きとあいまって、躍動感につながっている。ページ左方向へ呼びかけるスアロー、同様に左方向へ駆けていく忌ブキ、そして忌ブキの来訪に驚いて右方向を見ているエィハ。動きの始まりと終わりが、言葉にされなくても伝わってくる。
 女の子座りをするエィハのキョトンとした表情からは、忌ブキが勢いよくドアを開けて入ってきた様子がよくわかる。忌ブキの方は、プレイヤーであるしまどりるさんのこの場面での熱の入りようが絵からも伝わってきて、まるで駆けている間の呼気までを感じ取れそうなほどに活き活きとした動きが描かれている。

『レッドドラゴン』には、名場面を文字通り彩る秀逸なイラストが何枚もあるけど、個人的ベストは、今のところ、この場面の三枚の絵だ。

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2013.07.08

銀

山内宏泰『上野に行って2時間で学びなおす西洋絵画史』

国立西洋美術館に行ってみた

レビュアー:USB農民 Adept

 この本を読んでから、実際に国立西洋美術館へ足を運んでみた。

 美術はまったくわからないけれど、大きな絵を見るのは面白い。これまで美術館の感想というのは、そのくらいの言葉でしか表現できなかった。けれどこの本で西洋美術史の流れをざっと知ることができたこともあって、これならもう少し美術館という場所から得られるものも増えたのではないか、という期待があり、それが正しいかどうかを実際に確かめたかった。

 本を片手に美術館に入って、まずは本にあった通りのルートを探すことから始めた。本の記述と、パンフレットの地図を交互に見ながら、彫刻の室に入った。彫刻と同じ構えで写真を取るなどの遊びをしつつ、階段を登って先へ進む。地図を読むのはいつも苦手で、どこで順路から外れればいいのか迷いつつも、本にあった通り、20世紀絵画の展示室へとたどり着いた。そこには、ピカソの絵や、本でも触れていたジョアン・ミロの《絵画》という作品などが並べられた明るい場所だ。自由闊達で、技巧的で、正直なところわけのわからない作品が多いが、じっと見ていると「この絵はこんな感じ。こっちはこういう感じ」となんとなく自分なりに租借することもできた。
 続いてナビ派の絵画が展示された広い通路のような室にやってきた。ここでは、絵画について非常にラジカルな定義を提唱したと本に書いてあった、モーリス・ドニの作品が並んでいる。しかし、私が今回一番楽しみにしていた《踊る女たち》は、残念ながら展示されていなかった。美術館の常設展示では、時折展示する絵画を掛け替えているらしい。案内のお姉さんに訊いて、初めてそんなことを知った。

 こんな感じに、自分が見たもの感じたことを細かく書いていこうとすると、延々と長くなりそうだ……。美術館は広い。そして、展示の数が多い。改めてそれを実感した。
『上野に行って2時間で学びなおす西洋絵画史』は、国立西洋美術館に展示されている多くの絵画について説明している良い本だけど、それでも常設展示の半分ほどでしかないのではないかと思えた。本のなかでも、そのことについて触れ、あくまで西洋美術史を簡単に追っていくツアーなのだと断りが入っていた。実際、国立西洋美術館には、本で語られていた表現技法の流れからは少し距離があると思われる、宗教画や物語画も、同じくらい多くの枚数が展示されていた。それを語るとすれば、おそらくもう一冊同じ分量の本が必要になったのではないか。宗教画と一口に言っても、キリストの伝説を描いたもの、神話を描いたもの、聖人の人物画を描いたものなど、非常にバリエーションが豊かであることに実際に足を運んでみてわかった。あまりに情報量が多くて、めまいがしそうなほどだった。

 本を読んでから美術館に足を運んだことで、明確によかったと言えることが一つある。美術史にあまり詳しくない人なら、私と同様のメリットをこの本に感じるだろうと思う。
 美術館は、あまりに展示数が多いために、予備知識なしに行くと非常に疲れる場所なのだ。それは、絵を楽しもうとする姿勢があればあるほどそうだと思う。初めて見る絵を楽しむことは、けっこう疲れる。隅から隅まで見て、それから全体を見て、どの部分が自分は好きか、あるいはどこに自分は引っかかりを覚えるか、一枚一枚考えていくのは骨の折れる作業だ。だから、ある程度の概略を予備知識として持って行くことは、美術館を楽しむ上で割と重要なことなのだと知った。
 あと、本では午前中のみのツアーであれだけ知ることができたのだから、午後も美術館まわれば二倍知ることができるんじゃないの? と無邪気に思っていたのだが、半日も美術館を歩いたら、くたくたになって絵を見るどころではなくなりそうだった。

 本を読んで、その本を片手に美術館に実際に行ってみて、色々なことを感じたし考えた。ここではあまりに書ききれない。あと、常設展ではほとんどの展示が写真撮影OKのため、気に入った作品、気になった作品は撮影して家で見返すこともできた。そこでもまた、いろいろ思うことなどもあり、楽しみののりしろが美術館はとても広い。

 いや本当に、書ききることのできないことばかりで、このまま中途半端にレビューは終えるのだけど、この広い楽しみの入り口となってくれた本書にはとても感謝している。
 この本がシリーズ化して、他の美術館も丁寧に案内してくれると、ますます美術館へ足を運びやすくなると思う。続編が出れば、私はきっと、また本を片手に美術館へ遊びに行くと思う。

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2013.07.08

銅

上遠野浩平『あなたは虚空に夜を視る』

人類が宇宙に進出することについて

レビュアー:USB農民 Adept

「時間」と「空間」を表す文字を繋げて、宇宙と書く。それを知った当時高校生だった私は、「宇宙すげーよ、すごすぎるよ!」と友達にその話を広めて回った思い出がある。けれど、「何がすごいの?」と聞き返されることも多くて、その時は「時間と、空間が、その、ひとつの言葉で表されていて……だから、すごい!」などと愚にもつかない説明をしていたのだから、結局のところ、私は字面のかっこうよさに中てられて、「時間と空間が交差する場所……心おどるぜ!」とかなんとか、自分でも意味のわかっていない空っぽな言葉で、あたかもそこにロマンがあるかのように振る舞っていただけなのだろう。
 でも、「そこ」にはロマンが転がっていることは、少なくとも今の私にとっても確かな実感を持っている。アポロ計画。月の石。クドリャフカ。はやぶさ。それらの言葉には、距離や時間を越えて今に伝わる人々の情念があると感じる。
 そして、数々のフィクションで描かれた宇宙にまつわる物語たち。そこに描かれる宇宙は、ただ無機質で空虚なだけの冷たい空間ではなかった。

 でもこの小説は違う。
 この物語で描かれている宇宙は、本当に空っぽで、ぞっとするほど冷たくて、多くの現実やフィクションが指し示す宇宙へのロマンが、どこにもない。

 現代より遙かな未来での宇宙。主人公が戦闘機ナイトウォッチで守るカプセル船は、地球を飛び立って数千年が経過しているが、未だに新天地の星へとたどり着かない。まるで宇宙空間には、ロマンも希望も欠片も存在していないといわんばかりの虚しい長旅だ。
 そしてその長旅において、つまり宇宙空間に進出して数千年が経過した時代において、人類のやっていることは、基本的に現代と何も変わっていない。
 虚しさにつぶされないように、夢の中で日常を作り、学校へ行き、友達を作る。恋愛をすることもあれば、行きつけのラーメン屋に立ち寄ることもある。そして現実の宇宙空間でも、人を疑い、足を引っ張り、人間同士で争いもするし、人間以外とも争いを行う。
 そこには「人間なんて、どれだけ時間が経って、遠い場所へ行ったとしても、根本的なところは何も変わらないんじゃないの?」という人間観があるように思える。

 本書のそうした人間観、宇宙観は、私のこれまでの宇宙に対するイメージを少しだけ更新した。
 人類が宇宙に進出した時、そこに新たなロマンや希望があるのかどうか、正直なところ何とも言えない。あってほしいとは思う。
 でも確かなことは、絶対真空の冷たい宇宙で人類が活動を始めた時、それはつまり、そこに人間がいるということだ。
 人間が人間らしい営みを続けていくことは、おそらく、宇宙に進出したくらいでは変わらないだろう。

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2013.07.08


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