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レビュアー「USB農民」のレビュー

銀

レッドドラゴンの油絵

5人のキャラクターと2つのダイスを、見て楽しむ

レビュアー:USB農民 Adept

「たまに、絵の見方のコツを教えて下さい、と訊いてくる人がいるんですけど、そんなのは私だって知らないですよ」
 その話を聞いたのは、日本美術史の授業だったか、あるいは西洋美術史だったか、または東洋美術史だったか。授業名も授業内容も、もはや記憶が曖昧だけれど、少し授業の話から脱線したその話だけはよく覚えている。
 教授は苦笑を浮かべながら、その話をした。
「絵に見方があるとするなら、まず絵の全体を隅から隅まで見ることです。私でも、初めて見る絵ではそうします。それしかないです」
 シンプルな言葉だったので、記憶に残っているのだと思う。

 今から丁度一年前の2012年6月。立川市のオリオン書房で、しまどりるさんの描いたレッドドラゴンの油絵が飾られていると聞き、仕事帰りに立ち寄ってみた。エスカレータを上って書店に到着し、右手に曲がると、すぐ正面にその絵が見えてきた。
 F50号という、縦1メートルにもなる大きなサイズに描かれた絵は、離れていてもキャラクターの存在感をありありと感じさせる。描かれているのは、右上に禍グラバ、左上にエィハ、中央右に忌ブキ、中央左に婁、そして下段中央にスアローが描かれていた。
 私は絵のことがよくわからない。それでも、大学時代に聞いた教授の話通り、絵の隅から隅まで視線を向けると、わからないなりに、楽しめる部分が見つかっていく。

 エィハと婁が描かれる画面左は、赤と黒の色が大胆に使われていて、生命の暗い部分を示しているようで、キャラの背景としてしっくりくる色合いに思えた。右上で空を飛ぶように両手を広げた禍グラバの背後には、うっすらと緑がかった灰色の空が広がっていて、素性不明の怪人のような雰囲気が演出されていた。忌ブキは画面中央のあたりへ視線を向けつつ、口元には柔らかい笑みを浮かべ、身をひねるような胴の動きを示している。笑みも動きも、5人のなかでもっとも大きく描かれていて、革命という物語を背負うキャラクターらしい活力が満ちている。(あと個人的には、レッドドラゴン関連のすべてのイラストのなかで、あの忌ブキが一番可愛い表情であると思う)そして中央のスアローは、他の4人よりも大きく描かれ、片手剣を構えてまっすぐに前を見据えて立っている。何かを守っているようにも見えるし、何かに立ち向かうところにも見える。スアローの横、画面の左下には、キャラクターと物語の運命を左右する2つの赤いダイスが、目立つように配置されている。

 5人のキャラクターと2つのダイス。

『レッドドラゴン』という作品の重要な構成要素が、そこには描かれていた。私はそれをじっと見つめているうちに、とりとめもなく、いろんなことを考えたり、この絵の楽しみをいくらでも思いつくことができた。
 婁の背後にある黒いものは、山の巨人の影なのではないか。絵の下部の背景が、羊皮紙のような色合いなのは、TRPGのゲームテーブルをイメージしている気がする。禍グラバの緑がかった灰色のイメージは、ブリキの玩具のような触感が伝わってくる。などなど……。挙げていけばキリがない。

 絵の隅から隅までを見て、それからその絵について考える。それを実践してみると、自分なりの絵の楽しみ方のようなものが見えてくる。
 しまどりるさんの絵は、キャラクターや世界観の感触がとてもよく描かれていて、いくらでも楽しみ方を見つけられた。

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2013.06.22

銀

菅付 雅信『中身化する社会』

現代社会を楽しむ一つの視座

レビュアー:USB農民 Adept

 コンフォート。評価経済社会。動物化。分人。可視化。オーバーシェア。ソーシャル・キャピタル。中身化する社会。
 この本では色々な用語が頻出しているが、つまるところは現代社会での「人と人の接し方」について語られている。
 情報技術が格段に進化した二十世紀末から、二十一世紀初頭の今に至るまで、人々は高度情報化社会の恩恵を受け止めきれずにいる。情報の氾濫によって、人は自分にとって本当に意味のある情報を取捨選択することが難しくなっている、という指摘はずっと以前からされていたことだが、この本の問題認識は「人ー情報」の対立だけにとどまらず、より広範な事象について、現在進行形で変化する状況を踏まえながら語っている。
「人ー人」のコミュニケーションは、「外面(ファッション)」から「ソーシャルメディア」へと比重が移り、「消費者ー企業」の関係では、ソーシャルメディアによって人格化されつつある企業を、消費者が好ましいと思うかどうか、という新しいステージが生まれつつある。また、「個人ー不特定多数者」の関係において生じる問題として、オランダの16歳の少女が、フェイスブックの操作を誤って、自分の誕生日パーティーに4000人もの人々を集めてしまい、警官隊が出動する程の事件となったことなどが挙げられている。本の中では触れられていないけれど、例えば日本のネットの炎上にも、「個人ー不特定多数者」とのやりとりから騒動が大きくなっていくパターンは多い。
 
 この本で語られている現代社会とは、20世紀までのものとは全く質の異なるコミュニケーションが色々な形で生まれつつある世界のことだ。
 著者は言う。「人々は、たとえば排気ガスや渋滞の問題に頭を痛めつつも、自動車のない生活に戻れないだろうし、インターネットのさまざまな弊害を意識しても、ネットのない生活に戻れない」と。この社会全体の変化は、不可逆なのだと
語っている。

 この本で一番面白いのは、この部分だ。

 不可逆な変化が社会全体で起こっている。それも急速に。だから現代は、その変化に対応できつつある人々と、それができていない人々と、様々に試行錯誤を重ねて行動し、あるいは提言している人々がいる。

 坂口恭平。岡田斗司夫。津田大介。平野啓一郎アンナ・デロ・ルッソ。アイ・ウェイウェイ。クリス・アンダーソン。アンドリュー・ターロウとケイト・フリング。

 この本には様々な人々が、多様な「現代社会の生き方」を提示している。幾つもの魅力的な価値観があり、なんとも自分にはしっくりこない考え方もある。だからこそ、面白い。自分一人からは決してこれだけ豊かなスタイルは生み出されない。
 この多様性に触れることの楽しさは、きっと、現代社会の急速な変化の、一つの恩恵なのだと私は思う。

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2013.06.22

銅

さやわか『僕たちのゲーム史』

僕たちの知っている小さなものと、僕たちの知らないもっと小さなもの

レビュアー:USB農民 Adept

 この本には数多くのゲームが登場していて、その多くは僕もよく知っているものが多いです。
「スーパーマリオブラザーズ」「スペランカー」「ドラゴンクエスト」「ゼビウス」「ファイアーエンブレム」「シムシティ」「ストリートファイター」「弟切草」「月姫」「ポケットモンスター」「beatmania」「ひぐらしのなく頃に」「メタルギアソリッド」「ラグナロクオンライン」「モンスターハンター」他にも数多くの「知っているゲーム」が頻出します。
 でも、扱っているゲームの知識があっても、僕はこの本で語られている「ゲーム史」のようなものを考えたことは今まで全くありませんでした。この本では、ゲームの歴史を、<ボタンを押すと反応する>、<物語をどのように扱うか>という2つの要点を主軸に語っていきます。今挙げた僕の「知っているゲーム」もすべて、その2つの要点から語られていきます。
 僕にはそれが新鮮でした。僕は今まで、「シムシティ」について考えるとき、そのような視点で考えたことは皆無であったし、他のゲームについても同様です。

 では、この本の面白さとは、新しい「ゲーム史」によって、これまでのゲームを再定義していくことなのか?
 それは半分だけ正解だと僕は考えます。
 この本にはもう半分の面白さが語られています。僕はそれこそが、この本の本質であるとさえ思います。
 その面白さとは、これまでに積み重ねられてきた、ゲームに関する多様な視点や情報から、「ゲーム史」そのものを再定義することにあるのです。

 今僕が書いた「ゲームに関する多様な視点や情報」とは、冒頭で挙げたゲームのタイトル名といった記憶や記録に残りやすい情報ではなく、過去のゲーム雑誌の記事や、ゲーム開発者の宣伝文句や開発秘話など、時間とともに忘れ去られることの多い情報のことです。
「ゲーム史」という大きなものに対して、冒頭に挙げた「タイトル名」は小さなものと言えると思いますが、「雑誌記事や宣伝文句や開発秘話」などは、それよりもさらに小さなものです。(小さなものほど、記憶や記録から漏れやすく、また検索することも難しくなります)

 どのような歴史も、小さなものの集積で形作られていきます。けれど、その小さなものは、記憶や記録に残りやすく、検索も容易なものばかりが採用されやすい。そのこと自体が、悪いことではありません。ただし、それだけでは、より小さなものが歴史から自然に消えていきます。そして歴史から少しずつ多様性が失われていき、硬直化していきます。極端に言えば、ただ一つの正史のみが正解とされ、それ以外は歴史的に間違っていると切り捨てられてしまう。
 例えば、この本では少なくない項数を、『「スーパーマリオブラザーズ」はアドベンチャーゲームである』、という発売当時の情報を説明するために割いていますが、それは再定義された「ゲーム史」とその情報を接続するために必要な説明なのです。その説明なしに、知人に『「スーパーマリオブラザーズ」はアドベンチャーゲームである』と話したとしても、『いや、あれはアクションゲームだろ』という(現在の)一般的な解釈を返されるだけでしょう。その時、発売当時の情報という、より小さなものは、忘却され、多様な解釈の幅も狭くなっているのです。

 記憶や記録に残りにくく、検索することも困難な、小さなものよりもさらに小さなものを地道に積み上げ、歴史を再定義する仕事は、その忘却に抵抗しながら、解釈の幅を広げる働きをしています。その仕事は、古い情報を扱っているにもかかわらず、見たことのない新しい何かを見る人や読む人に与えます。

 この本の面白さとは、そこにあるのだと僕は感じました。

 僕たちの知っている小さなものより、もっと小さなもの。
 その集積によって、僕たちの知らない大きなもの=新しい歴史の再定義を行うことこそが、この本の本質だと僕は思います。

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2013.06.22

銀

「2013年のゲームキッズ」第30回「自殺」

「紙には、電子書籍の質感がない」

レビュアー:USB農民 Adept

 電子書籍と紙の本には様々な違いがあって、そのうちの一つとしてよく挙げられるものに、「紙の質感の有無」というのがある。
 本を手に持ったときの重さや表紙の手触り、ページをめくる際の触感といった、物理的な感覚のことで、当然のことながら、電子書籍にそれはない。だから、紙の本を好む人には、その部分を電子書籍の欠点と言う人もいる。
 けれど、私はこう思う。「電子書籍に紙の質感がないなんて、そりゃそうだよ」と。
 ないものねだりなのだ。電子書籍に紙の質感を求めるのは筋違いだ。だって、電子書籍って、紙でできてないんだから。
 
 ただし、電子書籍に「紙の質感」に対する代替価値がないことも事実で、その点についての指摘はまっとうだとも思う。電子書籍に足りないのは、「紙の質感」ではなく、「電子書籍にしかない質感」なのだ。
「ゲームキッズ」を読んで、そんなことを考えたのは、この作品には、「電子書籍にしかない質感」があったからだ。

「自殺」と題されたこのショートショートは、自殺志願者の主人公が、自殺支援組織を運営する山奥の村を訪ねる話だ。
 小説を読み進めながらページをスクロールしていくと、少しずつ何かがページ上部から落ちていく。それが蛆虫であることに気づくころ、文字の上を蛆虫が這い始める。この蛆虫は、実際に画面上をくにくにと這って動いている。それがまっっっことに気持ち悪い。小説の最後までたどり着くと、文章の半分くらいは大量の蛆虫で埋まっていて、まともに文字が読めない状況になる。読もうとする文字の上に、常に蛆虫が這っているという光景は、頭の中で浮かべる思考の言葉にも蛆虫が張り付いているような、曰く言い難い不快感がある。物語の最後も、主人公が大量の気味の悪い虫に体を覆い尽くされる場面となっている。文字を読む読者と、作中の主人公が体感する不快感が上手くリンクする技巧なのだ。
 読了後は、ショートショートとしてのオチよりも、文字の上を這う大量の蛆虫の不快さばかりが印象に残る作品だった。

 これが「電子書籍の質感」なのだと私は思う。紙の本では、この感覚は普通味わえない。(読んでいる本の上に、生きた芋虫を何十匹も落とすという仕組みを、紙の本で製品化するのはたぶん不可能だと思う)

 電子書籍は、わざわざないものねだりで「紙の質感」を追い求める必要はない。そうではなく、電子書籍にしかない「電子書籍の質感」を表現する事の方が重要だ。

 いつか電子書籍が普及したら、こんな風に言われるかもしれない。
「紙には、電子書籍の質感がない」と。

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2013.06.22


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