さやわか『僕たちのゲーム史』
僕たちの知っている小さなものと、僕たちの知らないもっと小さなもの
レビュアー:USB農民
この本には数多くのゲームが登場していて、その多くは僕もよく知っているものが多いです。
「スーパーマリオブラザーズ」「スペランカー」「ドラゴンクエスト」「ゼビウス」「ファイアーエンブレム」「シムシティ」「ストリートファイター」「弟切草」「月姫」「ポケットモンスター」「beatmania」「ひぐらしのなく頃に」「メタルギアソリッド」「ラグナロクオンライン」「モンスターハンター」他にも数多くの「知っているゲーム」が頻出します。
でも、扱っているゲームの知識があっても、僕はこの本で語られている「ゲーム史」のようなものを考えたことは今まで全くありませんでした。この本では、ゲームの歴史を、<ボタンを押すと反応する>、<物語をどのように扱うか>という2つの要点を主軸に語っていきます。今挙げた僕の「知っているゲーム」もすべて、その2つの要点から語られていきます。
僕にはそれが新鮮でした。僕は今まで、「シムシティ」について考えるとき、そのような視点で考えたことは皆無であったし、他のゲームについても同様です。
では、この本の面白さとは、新しい「ゲーム史」によって、これまでのゲームを再定義していくことなのか?
それは半分だけ正解だと僕は考えます。
この本にはもう半分の面白さが語られています。僕はそれこそが、この本の本質であるとさえ思います。
その面白さとは、これまでに積み重ねられてきた、ゲームに関する多様な視点や情報から、「ゲーム史」そのものを再定義することにあるのです。
今僕が書いた「ゲームに関する多様な視点や情報」とは、冒頭で挙げたゲームのタイトル名といった記憶や記録に残りやすい情報ではなく、過去のゲーム雑誌の記事や、ゲーム開発者の宣伝文句や開発秘話など、時間とともに忘れ去られることの多い情報のことです。
「ゲーム史」という大きなものに対して、冒頭に挙げた「タイトル名」は小さなものと言えると思いますが、「雑誌記事や宣伝文句や開発秘話」などは、それよりもさらに小さなものです。(小さなものほど、記憶や記録から漏れやすく、また検索することも難しくなります)
どのような歴史も、小さなものの集積で形作られていきます。けれど、その小さなものは、記憶や記録に残りやすく、検索も容易なものばかりが採用されやすい。そのこと自体が、悪いことではありません。ただし、それだけでは、より小さなものが歴史から自然に消えていきます。そして歴史から少しずつ多様性が失われていき、硬直化していきます。極端に言えば、ただ一つの正史のみが正解とされ、それ以外は歴史的に間違っていると切り捨てられてしまう。
例えば、この本では少なくない項数を、『「スーパーマリオブラザーズ」はアドベンチャーゲームである』、という発売当時の情報を説明するために割いていますが、それは再定義された「ゲーム史」とその情報を接続するために必要な説明なのです。その説明なしに、知人に『「スーパーマリオブラザーズ」はアドベンチャーゲームである』と話したとしても、『いや、あれはアクションゲームだろ』という(現在の)一般的な解釈を返されるだけでしょう。その時、発売当時の情報という、より小さなものは、忘却され、多様な解釈の幅も狭くなっているのです。
記憶や記録に残りにくく、検索することも困難な、小さなものよりもさらに小さなものを地道に積み上げ、歴史を再定義する仕事は、その忘却に抵抗しながら、解釈の幅を広げる働きをしています。その仕事は、古い情報を扱っているにもかかわらず、見たことのない新しい何かを見る人や読む人に与えます。
この本の面白さとは、そこにあるのだと僕は感じました。
僕たちの知っている小さなものより、もっと小さなもの。
その集積によって、僕たちの知らない大きなもの=新しい歴史の再定義を行うことこそが、この本の本質だと僕は思います。
「スーパーマリオブラザーズ」「スペランカー」「ドラゴンクエスト」「ゼビウス」「ファイアーエンブレム」「シムシティ」「ストリートファイター」「弟切草」「月姫」「ポケットモンスター」「beatmania」「ひぐらしのなく頃に」「メタルギアソリッド」「ラグナロクオンライン」「モンスターハンター」他にも数多くの「知っているゲーム」が頻出します。
でも、扱っているゲームの知識があっても、僕はこの本で語られている「ゲーム史」のようなものを考えたことは今まで全くありませんでした。この本では、ゲームの歴史を、<ボタンを押すと反応する>、<物語をどのように扱うか>という2つの要点を主軸に語っていきます。今挙げた僕の「知っているゲーム」もすべて、その2つの要点から語られていきます。
僕にはそれが新鮮でした。僕は今まで、「シムシティ」について考えるとき、そのような視点で考えたことは皆無であったし、他のゲームについても同様です。
では、この本の面白さとは、新しい「ゲーム史」によって、これまでのゲームを再定義していくことなのか?
それは半分だけ正解だと僕は考えます。
この本にはもう半分の面白さが語られています。僕はそれこそが、この本の本質であるとさえ思います。
その面白さとは、これまでに積み重ねられてきた、ゲームに関する多様な視点や情報から、「ゲーム史」そのものを再定義することにあるのです。
今僕が書いた「ゲームに関する多様な視点や情報」とは、冒頭で挙げたゲームのタイトル名といった記憶や記録に残りやすい情報ではなく、過去のゲーム雑誌の記事や、ゲーム開発者の宣伝文句や開発秘話など、時間とともに忘れ去られることの多い情報のことです。
「ゲーム史」という大きなものに対して、冒頭に挙げた「タイトル名」は小さなものと言えると思いますが、「雑誌記事や宣伝文句や開発秘話」などは、それよりもさらに小さなものです。(小さなものほど、記憶や記録から漏れやすく、また検索することも難しくなります)
どのような歴史も、小さなものの集積で形作られていきます。けれど、その小さなものは、記憶や記録に残りやすく、検索も容易なものばかりが採用されやすい。そのこと自体が、悪いことではありません。ただし、それだけでは、より小さなものが歴史から自然に消えていきます。そして歴史から少しずつ多様性が失われていき、硬直化していきます。極端に言えば、ただ一つの正史のみが正解とされ、それ以外は歴史的に間違っていると切り捨てられてしまう。
例えば、この本では少なくない項数を、『「スーパーマリオブラザーズ」はアドベンチャーゲームである』、という発売当時の情報を説明するために割いていますが、それは再定義された「ゲーム史」とその情報を接続するために必要な説明なのです。その説明なしに、知人に『「スーパーマリオブラザーズ」はアドベンチャーゲームである』と話したとしても、『いや、あれはアクションゲームだろ』という(現在の)一般的な解釈を返されるだけでしょう。その時、発売当時の情報という、より小さなものは、忘却され、多様な解釈の幅も狭くなっているのです。
記憶や記録に残りにくく、検索することも困難な、小さなものよりもさらに小さなものを地道に積み上げ、歴史を再定義する仕事は、その忘却に抵抗しながら、解釈の幅を広げる働きをしています。その仕事は、古い情報を扱っているにもかかわらず、見たことのない新しい何かを見る人や読む人に与えます。
この本の面白さとは、そこにあるのだと僕は感じました。
僕たちの知っている小さなものより、もっと小さなもの。
その集積によって、僕たちの知らない大きなもの=新しい歴史の再定義を行うことこそが、この本の本質だと僕は思います。