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レビュアー「USB農民」のレビュー

銅

海法紀光「此処より彼方へ、彼方より此処へ」(『イーストリビュート』)

史実からフィクションへ、フィクションから史実へ

レビュアー:USB農民 Adept

 書き出しから恐縮だが、私は「イース」のファンではない。
 プレイした記憶はある。高校時代に友人に借りたゲームの一つがPC版「イース」だった。いや、「イースII」だったかもしれない。どこかの塔に登っていくゲームだったように記憶しているが、それはファミコンの「カイの冒険」とごっちゃになっている疑惑が今頭をよぎった。私の「イース」に対するイメージはそのくらい曖昧である。

 なので必然的に、本書はあまり楽しめなかった。(まあ、そりゃそうだ……トリビュートの元ネタをよく知らないのだから)
 けれど、それでも読んでいて面白いと思えた作品があった。海法紀光さんの「此処より彼方へ、彼方より此処へ」だ。
 このお話、やや特殊な作られ方をしていて、「冒険者アドルの冒険記」の周辺文献(という設定)を集めた本書の中でも、一際異質さを放っている。
 まず冒頭には、これはラテン語の文章を訳した学術論文であることが書かれている。(題は「極東の一地方における小規模の剣神信仰および伝承に関する控えめな覚え書き」)
 その内容は、冒険者アドルが、ヨーロッパ大陸から、東洋日本へと流れ着いていた事実の検証である。しかし、そこ書かれる日本の歴史は、現実のそれとは異なっている。(武田真玄と思われる人物が王朝を築いていた、というような描写がある)
 そこから、この論文は現実世界とは別の世界で書かれたものではないか、と論文の訳者は仮定している。しかし、この本が刊行された(という設定の)「イース」のゲームの世界では、この訳者の存在もまた、別の世界の人物ではないかと仮定されていることが示唆されている。
 
 大変複雑になってきたので、整理すると、次のようになる。

A)論文(「極東の~~」)が書かれた、赤髪の異人がいた世界(日本史は史実と異なる)

B)論文が日本語に訳された、アドルのいない世界(ほぼ現実と同様の世界と思われる)

C)本書が刊行された(という設定の)、アドルがいた世界(日本史はAともBとも異なることが示唆されている)

D)現実(『イーストリビュート』が刊行された世界。つまり、これを読んでいるあなたがいる世界)

 この作品は、Aで書かれた論文が、Bの世界で翻訳され、Cの世界で刊行されて、Dの世界(=現実)の我々が読者として読んでいる。
 面白いのは、Aの歴史がBでは否定され、さらにCではAの歴史もBの歴史も史実と違うとされている点だ。そしてもちろん、Dの世界に生きる我々は、Cの歴史もフィクションであることを知っている。しかし、Dの歴史とBの歴史は同一と思われるので、我々の知る史実は、Cがすでに「史実ではない」と判断されている。

 フィクションの歴史に、現実の歴史の正当性が疑われている。

 このメタフィクション的構造は、「イース」という作品を知っていなくても楽しめる。海法紀光は、ゲーム中のフィクションの歴史と、現実の歴史を同程度の重さで書き記している。どちらも絶対の歴史ではない。であれば、自分の知る歴史とは別のそれについて想像を膨らませることは、それほど突飛なことではないかもしれない。
 作中で訳者が「別の世界の赤い髪の冒険者」に思いを馳せているように、海法紀光が本作で試みた技巧は、読者である我々にも「別の世界の赤い髪の冒険者」への思いを刺激している。

「イーストリビュート」という本の中にあって、一際異質な物語が、「イース」について知識の薄い私にとっては一番面白かった。
 別の世界を旅する「赤い髪の冒険者」の存在を、私は確かに感じ取ることができたから。

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2013.06.22

金

小泉陽一郎『ワニ』

たとえみっともなく無様でも

レビュアー:USB農民 Adept

 デビュー作から小泉陽一郎の作品を読んできて、彼の作品に一貫したテーマのようなものを感じるようになってきた。
 それは「言葉が出てこない状況での表現」だ。
 自分のこれまでの人生経験だけでは対処できない程の、圧倒的な現実に直面した時、人は言葉を失ってしまう。私個人の経験で言えば、恋愛の最中にそういう状態になった時があるし、あるいは3・11の直後でもそうだった。自分が直面している現実を、どう表現すればいいのかがわからなくなる。
 何も感じていないわけじゃないし、何も考えていないわけじゃない。でも、自分が感じ、考えていることを言葉に落とし込むことができない。もっと言えば、表現できない。言葉にでなくても、身振りや手振りでもいいから、表現できれば楽なのだろうに、それがどうしてもできなくなる。

 小泉陽一郎の作品は、その瞬間を切り出している。
『夜跳ぶジャンクガール』では、目の前で女の子が自殺しようとしているのに、それを止める言葉が出てこない。
『ならないリプライ』では、かつて自分に告白してくれた女の子が、無惨に殺されてしまい、その事件に対して誰にどういう感情を向ければいいのかわからなくなる。
『ワニ』では、自分以外の男に処女を奪われ、両足まで欠損した恋人に対して生理的嫌悪感を抱いてしまい、恋人とまともにコミュニケーションできなくなる主人公を描く。

 これらの作品は一貫して、「言葉が出てこなくなる状況」を描き続けている。

 それは、具体的な状況は違えど、誰の人生にも起こりうることだ。そのとき、言葉を出せないことはとても苦しい。人が恋愛をしたとき、まず最初に苦しむのは、自分の気持ちがうまく表現できないやるせなさだろう。まずは自分の感じていること、考えていることを、言葉にしなくてはいけない。言葉にできなければ、それ以外の手段で表現しなくてはいけない。それができないと、人はずっとその苦しみに囚われてしまう。

『ワニ』の物語は、幾つかの事件が平行して描かれていて、そのどれもが主人公である高橋アユムにとって直視したくないような現実をもたらしている。なんというか、高橋アユムを悲惨な目に合わせるためだけに用意されたような事件ばかりだ。
 それはある意味で、正しいのではないかと思う。
『ワニ』は、高橋アユムが、悲惨な現実に対して、自分の感じたこと考えたことを表現する物語だ。

 最終場面。高橋アユムの口からでるのは、もはや言葉ではなく吐瀉物だけで、彼は吐き続けながら、恋人に向かって歩いていく。
 吐瀉物を吐き続けること。
 恋人に向かって歩き続けること。
 それらはきっと、みっともなく無様でも、高橋アユムの感じたこと考えたことの表現なのだと思う。

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2013.06.22

銀

レッドドラゴン

その熱こそが、……

レビュアー:USB農民 Adept

『Fate』の奈須きのこ。
『魔法少女まどかマギカ』の虚淵玄。
『バッカーノ!』の成田良悟。
『ミミズクと夜の王』の紅玉いづき。
 この中に貴方が好きな作家が一人でもいるなら、私は自信をもってこの本を貴方に薦めることができる。
 なぜなら、「レッドドラゴン」という物語には、この4人の作家の創作表現を支える、資質や世界観が色濃く映し出されていて、互いの世界観の強度を試すかのように、激しくぶつかり合っているからだ。

 4人の作家の世界観を、私の言葉で簡潔に説明してみよう。

【奈須きのこ】特殊な力をもった主人公が登場するが、その力の使い方と、自身の在り方は、徹底して「他者」の存在を前提に描かれる。主人公が自分のために力を使うことはほぼない。

【虚淵玄】主人公は圧倒的な力を持っていることが多いが、その力の使い方と、自身の在り方は、「自分の持つ力は、どのように扱われるのが最も相応しいか?」という問いと、その答えに支えられている。

【成田良悟】視点の置き方に特徴がある。長年生きた不死者の視点や、複雑な事件を鳥瞰する観測者のような存在を描く。ある種の超越的な視点を設定することで、様々な価値観を錯綜させ転倒させる。

【紅玉いづき】命を賭けてでも手に入れたいものについての寓話が多い。その対象は愛であったり、記憶であったり、信頼であったりする。それは、「自分の命の使い道」について深く模索するような物語の形をとる。

 どうだろうか。一読してわかることは、奈須きのこと虚淵玄の世界観の対立、などがあると思う。実際に、「レッドドラゴン」では2人は互いのキャラクターを通して、その世界観を激しくぶつけあっている。
 3巻で描かれた、野営地でのスアロー(奈須きのこ)と婁(虚淵玄)の会話が特に顕著で、ここではお互いに、「力の使い方と、その目的」について言葉を戦わせている。
 世界観の対立は、奈須きのこと虚淵玄だけの問題ではない。エィハ(紅玉いづき)や禍グラバ(成田良悟)についても同じだ。戦争を回避したいと願う者がいる傍らで、戦争によって富を築いた者がいる。はかない命を嘆き守りたいと強く思う者の傍に、他者のために自分の命を捨てることに躊躇しないような者がいる。
 固有の世界観を持ち、それを言葉で十全に表現できる者同士がいて、彼らが一つの物語に入り込んだとしたら、異なる世界観同士が摩擦を生むのは明らかだ。
 その摩擦によって生まれる熱こそが、この作品の魅力だ。

 そして実際に、4巻でこの物語は、それぞれの作家たちの世界観を背負ったキャラクターたちの様々な行動と決断によって、大きな熱を呼ぶこととなる。

 赤の竜の襲来だ。

 物語の中で、赤の竜は大きな破壊をもたらすのだが、それはキャラクターの行動次第では止めることもできたはずだった。
 だが、キャラクターたちがその身に背負う世界観に忠実に動いた結果、赤の竜は誰に阻まれることなく破壊の限りを尽くすこととなった。
 物語を読みながら、私には、まるで4人の作家たちの世界観が起こした摩擦熱が、赤の竜を呼び寄せたように思えて仕方なかった。
 4巻の物語で、赤の竜は討伐されなかった。
 物語の中で、熱はまだうねっている。

 そして、ここまで敢えて触れなかったが、この物語にはもう一人のプレイヤーがいる。商業出版作品を持たない漫画家である、しまどりるが残っている。私は彼(彼女?)についてはよく知らない。先ほど挙げた4人の作家に比べ、その世界観がどのようなものであるのか、判断する材料は非常に少ない。
 しかし、「レッドドラゴン」における役割は、これは私なりに考えているものがある。
 しまどりる演じるキャラクター、「忌ブキ」が背負う物語が「革命」であるように、しまどりるが「レッドドラゴン」で担う役割は「革命」だ。
 すでに確固たる世界観を持った4人の作家たちに対して、新たな価値観をもって切り込み、対峙する革命者。
 忌ブキは、作中である人物に「この島の人々は、『生きている』って言えるのかな?」と問いかけている。この問いは、忌ブキに対峙するほかの4人のキャラクターに対しても、同じように向けられているように、私は感じる。
「自身の世界観を守るだけのキャラクターは、『生きている』って言えるのかな?」
 忌ブキは、そんなメッセージをほかの4人のキャラクターへ問いかけている。

 4つの確固たる世界観と、1つの革命。
 5つの要素がぶつかり合い絡み合い、摩擦が起こって熱が生まれる。
 その熱は、形をもって読者の前に現れる。

 その熱こそが、赤の竜であり、「レッドドラゴン」そのものである。

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2013.06.11

銅

星海社 ラジオ騎士団

幸福の声優ラジオスパイラル現象

レビュアー:USB農民 Adept

 声優ラジオの何より面白いところは、番組トークの中で、少しずつ声優さんのパーソナルな部分が見えてくるところだと私は思う。
 どんなネタに反応するのか、どんな展開だと勢いがつくのか、誰とのかけあいが生き生きとするのか、など。
 対象をより知ることで身近に感じるようになる、というのとは少し違うと思う。より知ることで、より好きになるというのが、実際に近いのではないだろうか。
 声優さんの声を聴けば聴くほど、その声優さんに対する好意が増していく。もっと聴きたいと思うようになるし、もっと応援したいとも思うようになる。
 そういうリスナーの思いと、レビュアー騎士団の姫決定戦の組み合わせは非常に良いと感じている。

 ラジオを聴いて、応援したくなり、レビューを書いて、その結果ラジオでの出番が多くなる(アシスタントになれば、毎回ラジオにでるはず!)。
 幸福の声優ラジオスパイラル現象とでも呼ぶべきか。
 そのスパイラルに巻き込まれてしまえば、楽しくないわけがない。

 現在は、まだ第二場の投稿総数はわからないけれど、きっと、レビュー募集期間が短期間だったにもかかわらず、その数は前場よりも増えているのではないだろうか?
 増えていれば、この企画の楽しさが証明されたも同然だ。

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2013.06.11


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