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レビュアー「鳩羽」のレビュー

銅

僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか

そしてコンビニのおにぎりと見つめ合う

レビュアー:鳩羽 Warrior

 最初に断言しておくと、この本を読んだからといって楽に働けるようになるわけではない。しんどくて嫌な仕事は明日も待ち受けているだろうし、相も変わらずに給料は雀の涙のままだろう。
 本書ではまず我々の給料がどのように決定されているかについて、日本の多くの企業では必要経費方式であるということが説明される。これは衣食住といった生活費、ストレス解消のための多少の娯楽費、つまり明日も元気に仕事に来て働ける分だけの経費にすぎないということが明かされる。個人成績で多少のプラスアルファはあるかもしれないが、それは僅かな上がり下がりにすぎず、給料の大部分はこの必要経費だと聞くと、ちょっと肩すかしをくったような気持ちになる。なんだか、会社による生活保護みたいだ。
 そして、マルクスの『資本論』から、我々が普段使っている「価値」という言葉を「使用価値」と「価値」に分解する。「使用価値」はその品物にどれほど有用性があるかということであり、「価値」とはその品物をつくるのにどれだけ労力を費やしたか、ということである。
 この辺りまで読み進めてくると、自然と「あれ?」という気持ちになってくる。給料の決定のされかたと、品物が「使用価値」と「価値」で値段が決定されていくところが、相似形であることに嫌でも気づかされるからだ。
 このあとの話は簡単だ。
 高い給料をもらうため、毎日毎日限界までがんばってもそれは積み上げの価値にはならず、がんばるのを止めてしまえば給料はすぐに下がる。そのことで得られるやりがいや達成感も、人間とは幸福には慣れるものですぐに不感症になってしまう。そして生活レベルを下げることには慣れることはできない。
 このような自らの「使用価値」に左右される人に待っているのは、給料に満足できず、気持ちに余裕もないしんどい日々だ。
 この悪循環、無意味なラットレースから逃れるためにどうすべきかは、これも品物を市場に持っていくことを考えてみればそう難しいことではない。自分の労力という商品でできるだけ自己内利益を生み出すには、必要経費を下げるか、昇給や昇進満足感を上げるかしかない。
 だが、これ以上の説明はやめておこう。
 せっかくの「うまいやり方」や「ノウハウ」、知っていても実行できない人がほとんどはいえ、あまり知られないにこしたことはないのだから。

 就職活動をさあ始めようという人には、あまりおすすめできない。勢いに水を差してしまいそうだ。
 就職してから、できれば空しく年月を費やす前に一読しておくと、もしかすると十年後に結果が出てくるかもしれない。そう思わせてくれる本である。

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2014.03.27

銅

大日本サムライガール1

その目的をどこまで夢想できるか

レビュアー:鳩羽 Warrior

 二点間の最短距離は、素直に考えるとその二点を結ぶ直線だ。けれど道がなかったり障害物があったり、そもそも平面じゃなかったりと、素直にまっすぐ行くことが困難な場合の方が多い。
 その複雑さが世間のおもしろさであり、魅力であり、多様性の現れでもあるのだろうが、その煩わしさにうんざりした経験は誰にでもあるのではないだろうか。
 被選挙権どころか選挙権すら持たない女子高生神楽日鞠は、日本の救済のために自らの身をなげうってでも、独裁者になろうとする極右思想の持ち主だ。
 常識的に考えるならば、年齢を重ねることで知識や経験を蓄え、そこから政治家への道を歩み出すのが普通のルートだろう。しかし、日鞠はそれでは遅いと考えた。一刻も早く、日本国民を救わねば、と。
 また、女性であることは、政治家への門戸は広く開かれているとはいいがたい現状がある。日鞠の年齢、性別、などの本人にとってどうしようもない要因は、目的地までの最短距離を邪魔する障害物として、日鞠にまとわりつく。
 それを一変させたのが、織葉颯斗との出会いと、アイドル活動を政治の手段にするというアイデアだった。
 美貌とプロポーションに恵まれながら、そのことに無自覚な日鞠が、地道にアイドル活動を行って、一気に日の当たる場所まで躍り出る。
 この小説の気持ちよいところは、政治とアイドルという二重の成功物語を読む愉しみだけではなく、世間をさながらボードゲームのような平面にしてしまったところだ。
 お金持ちのぼんで新保守な傾向のある颯斗が持つ父親への反発や、メディアのような形のないものよりもモノを作ることに価値を見いだす颯斗の父親、いかにも芸能プロダクションの裏の顔といったプロダクションの社長など、立ちふさがる存在が分かりやすい主義や思想の擬人化されたもののように配置される。
 続刊でどうなっていくのかは分からないが、彼らが日鞠に影響されて、考え方や立ち位置を変えて右翼になることはないだろう。もっと言うならば、彼らは日鞠が最短距離を行く上での障害ではあっても敵ではなく、倒されて「存在しなくなる」ということはないのだ。日鞠の若さや性別が、政治家という目的には不利になっても、アイドルという手段にこのうえなくマッチしたように、必要なものを使い、不要なものは切り捨て、身軽にまっすぐに突き進んでゆく。目的のために最短距離を行こうとする日鞠のこの清々しさ、迷いのなさが、様々な障害物に手こずらされている私からするととても爽快なのだ。
 このボードを見ていると、どんな主義も立場も疎外されず、一方的に負けたりせず、みんなそれぞれの収めどころを見つけられるのではないかという夢物語のような現実を空想したくなる。
 だが、夢すら持てなくなってしまえば、理想を思い描くこともできないだろう。日鞠の描く理想の日本とはどういう国なのか、それが描かれてくのが楽しみだ。

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2014.03.27

銅

spica 泉和良

純粋に恋愛小説

レビュアー:鳩羽 Warrior

 宇宙の果てはどこにあるのだろう。宇宙は膨張し続けているというから、宇宙の果てもずっと遠ざかり続けているのかもしれない。ならば、宇宙人のような彼女との、フォーリンラブ的な恋の終わりはどこにあるのか。
 この小説は、恋をきちんと終わらせようとして終わらせることができない主人公・水井君の心情を描いたものだ。元カノの遙香に浮気され、未練たらたら離れて暮らすようになり幾星霜、今更!というタイミングで、遙香から突然電話がかかってくる。そして恋がまだ終わっていないということに気づかされる。
 ピンクの髪の遙香は、情緒不安定で空虚を抱えていて虚言壁を持っていて適当な言葉を作って喋る。オンラインゲームにはまっていて、ろくに家から出ない。水井の方も、趣味の作曲で小遣い稼ぎをする程度、出歩くのはコンビニに行くくらいで、ふらふらと何を考えているのかいまいち分からない感じで生活している。
 互いに互いのどこに惹かれているのか、どの辺りに魅力があるのか、正直さっぱり分からない。相手の欠点をも含めて、そのすべてが好きだというのは確かにすばらしい。けれど、その気持ちが一人だけに向けられると、自分たち以外分かりあえる人間はいないのだという、この世界に二人だけ状態を創り出す。この二人の恋は二人のフィクションのなかに閉じこもり、だからこそ純粋なままで、美しく完結している。
 虚構と現実の価値観が入り交じるかのような報道を嫌悪する水井は、遙香のなかにある純粋さこそをかけがえの無いものとして、愛する。面倒な性格だと知っていながら、それでも遙香でなくてはならない。遙香に裏切られると、ひどく鬱状態になって生きていくことすらできなくなってしまう。
 誰だってその渦中にいるとき、恋の果ては想像してみることしかできないのだろう。そこにこそ、恋の恐ろしさと幸せが同居している。
 恋に果てなどない。恋を終わらせることなどできるはずもない。
 実際には数多の恋は終わって死んでいくのだが、そういう感想を持ち込むのも野暮かもしれない。彼らはそういう現実をよく知った上で、星屑のような恋の切実さに気づいたのだから。
 そんなキラキラした部分だけをすくい取ったかのような、純粋な、混じりものが丁寧に取り除かれた恋愛小説だった。

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2014.02.25

銅

上野に行って2時間で学びなおす西洋絵画史

2時間の使い方

レビュアー:鳩羽 Warrior

 思いがけず取れた休日、ぽっかりあいた時間に美術館に行ってみることにした「わたし」は、コンシェルジュに案内されて国立西洋美術館の常設展をまわることにする。それも順路どおりではなく、現代に一番近い時代から時間をさかのぼるようにして。
 芸術やアートは、ただそれだけの独立孤高の存在だと思うと、難しそうでとっつきにくい。けれど、画家の生まれ育ちや人となり、歴史的にどんな時代だったのかの背景を知るだけで、親しみを覚える。さらに心地よい声のコンシェルジュが、そっと筆で一撫でするように理解を補ってくれる。すると、その絵はただ綺麗なだけの絵ではなく、生み出されるために傾けられた情熱をたっぷりと湛えていることに気づく。
 描こうとした物語があり、形にしようとした感情があった。とどめたい一瞬があり、表現せずにはいられない個性があった。行ったり来たりの蛇腹のようにして、時代を進めてきた。
 コンシェルジュは言う。
 「人がはっきりと強い意志を抱いて何かを為し、その結果によって生じたものは、すべからく芸術であり表現だといっていいのだと思います。絵画は、その個人の意志が、画面に集中して浴びせられたものでしょう」、と。
 その意志を感じ取ることで、きっとひとは勇気をもらったり慰撫されたりしてきたのだろう。芸術作品は見るひとびとの現実の時間を止めて、その作品の時間のなかに連れていく。
 現実のその先を、伸ばした手の先をなんとか形にしようとする試み、「いま、ここ」をただ有るままに現した慈しみ。この行ったり来たりを、現在も私たちは続けている。

 「わたし」とコンシェルジュの会話をこっそり後ろで聞きつつ、その小さなツアーに紛れ込ませてもらっているような気分で、私も楽しませてもらった。一体このコンシェルジュは何者なのだろう、「わたし」とコンシェルジュのやりとりを聞いていると、誰と誰が会話しているのかあやふやに感じられてきて、ちょっとしたミステリーなのだ。
 上野に行って2時間、行けない人は代わりにこの本を読んで2時間、西洋絵画史を学びなおせる一冊。

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2014.02.25


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