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レビュアー「鳩羽」のレビュー

銅

ボカロ界のヒミツの事件譜1

名探偵エレGYちゃん様登場

レビュアー:鳩羽 Warrior

ボカロPでもあり、作家でもあり、ゲームクリエイターでもある主人公がボカロ界隈のちょっとした事件に遭遇し、それを彼女であるエレGYが意外な探偵能力を発揮して解決するという連作短編集。
動画につけられた中傷コメントの犯人を見つけ出そうとしたり、初心者らしいボカロPと訳の分からないやりとりをしたりと、どうでもいいと見過ごしてしまえばそれで終わりになるようなことを、エレGYがハイテンションに事件にして、解決してしまうといってもいい。
しかしこの、ボカロPとしてはジェバンニP、作家としては泉和良、ゲームクリエイターとしてはジスカルド、である主人公のなんとも言えない覇気のなさが一貫しているせいだろうか、オンライン上の事件をオフラインで追うというある種の面倒さや、複数の名前が飛び交うややこしさはない。
ペンネームやハンドルネーム、複数のアカウントを使い分けることも昨今では珍しくないけれど、すべてを把握しなくてもいいという、なんとも言えない心地よいかったるさが続く小説なのだ。
メールをしてもなかなか捕まらない人と連絡を取るのに、オンラインゲームだと確実だとか。混雑する人混みの中で見失った知人を捕まえるのに、ブログの書き込みが有効だったとか。
そんな馬鹿なと思いながらも、あるある~と思ってしまう展開が面白い。
そういえば、ミステリの愉しみの一つに、意外なミッシング・リンクを見つけだすことがある。連続殺人事件のように見えるのに、被害者同士に共通点や繋がりがない。あるいは犯人と被害者の関係が無いように見えるから、通り魔的な犯行としか思えない。けれど実はそこに両者を結ぶ糸が隠されていた! というような。
この小説には、ミッシング・リンクがありすぎる。ゲームの数、アカウントの数だけ交遊関係があり、そのフィールドが変わってしまうと途端に誰が誰やら分からなくなってしまうところまで含めて、ミッシング・リンクだらけだ。視点をオフラインだけに置く限り。
それは逆にいうと、もはや現代日本を舞台にした小説でミッシング・リンク探しが成立しないということかもしれない。
隠された事実、謎なんて本当にあるの?
気づいていなかったり、単に無視しているだけなのではなくて?
探偵役を務めるエレGY自らが、全然興味のなかったボカロを知っていくように、未知の部分に踏み込んでいく明るい好奇心は、そう言っているかのようだ。
何が未知の部分に当たるのかは、人それぞれ。ヒミツは多いほど、きっと人はチャーミングになれる。

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2014.01.29

銅

サエズリ図書館のワルツさん 2

手から手へ、あなたへ

レビュアー:鳩羽 Warrior

 滅多に怒ることのなかった祖母に、珍しく注意されたことがある。それは置きっぱなしにしていた本を、ひょいと跨いだときだった。なんと言って叱られたかは覚えていないが、本を片づけておかなかったことではなく、跨いだことを怒られたのが子供心にずしんと堪えた。
 どんなものであれ、物を粗末に扱うのはいけないことだろう。しかし、それとはまた別の想いから、祖母にとって「本」は跨いではいけないものだったのだ。
 『サエズリ図書館のワルツさん』の2巻は、前巻から引き続き、「三十六時間の戦争」、事実上の第三次大戦といわれた戦争後の世界を描く。この時代では情報を得るのも文章を読むのも端末で行い、「紙の本」は美術的な価値を求めて高値で取り引きされる骨董品のようなものになりさがっている。そんななか、貴重な紙の本を閲覧・貸出している稀有な施設がサエズリ図書館だ。2巻では内定が得られない就活生の千鳥が、このサエズリ図書館を訪れるところから話が始まる。
 千鳥がなりたいと思うのは、終わりつつある紙の本を直すという、図書修復家である。老いた図書修復家が、みずからの人生と仕事とを共に終わらせていこうとするのに出会い、後を継ぎたいと願うのだが、その図書修復家には断固として拒まれてしまう。
 就職が決まらないことへの逃避なのか、体調不良はその言い訳にすぎないのか。思い悩む千鳥は、もがくようにしてサエズリ図書館で「本」の価値を見つけだそうとしていく。

 この物語で語られるのは、「紙の本」への愛着、執着である。しかしそれは、安易な「紙の本」対「電書」の構図をとらない。いや、とれないのだ。この世界では、物資の不足、合理、効率、経費削減といったあらゆる理由で「紙の本」が存在する余剰はなく、それでもなお「紙の本」を読みたいというのは酔狂か、贅沢なわがままということになってしまう。
 サエズリ図書館に集うひとびとが「紙の本」で心の傷みを癒されたように、寄る辺ない不安に確かに「本は効く」のだろう。けれど、どうしてそれが「紙の本」でなくてはならないのか。端末やデータだけではだめなのか。そこはなかなか明確にはならない。おそらくそれは些末なことで、手触りだとか匂いだとか厚みだとか、そういう要件を電書が兼ね備えることができたとしても、それは「紙の本」とは違うから、ただ「紙の本」とは違うといい続けることしかできない類の問題なのだ。
 物語の終盤で千鳥が辿りついた答えは、「端末は、データは結局、繋がるためのツールであり、本は、断絶のためのツール」ということだった。
 繋がるということは、その便利さはいうまでもなく、心理的にも何でも知ることができるような高揚した万能感を感じさせる。その即時性も、今ではツールとして必要不可欠なものだ。
 しかし、一人になりたいとき、自分がいる場所をじっくり確認したいとき、周囲から隠れたいとき、プライベートが守られていないと感じるとき。
 人は本を開く。ほっと息をつく。
 その光景は場を作る。話しかけてはいけないと思わせるような、疎隔された場を。
 それは合図でもある。集中と空白、緊張と弛緩の。
 網の目のような情報の間で動き回っている自分を捕まえ、自分で自分を抱きしめてやって、そうして初めて、どこが傷んでいるのか、調子が悪いのか、確認することができる。情報や誰かの助けを求めて繋がりたいと思うのは、おそらくその後の段階なのだ。

 生きることは働くこと。
 「仕事」を見つけだし、どんなに価値がなさそうな仕事でも選び選ばれ、それに人生を捧げることをむしろ喜んで千鳥は泣いた。そんな千鳥の手が支えていくのは、終わりゆく「紙の本」の時代の延命である。
 本とはやわなものだ。破れたり頁が取れたり、濡れたり黴びたり虫に喰われたりする。手垢がつき、開き癖がつき、日に焼けて色が変わる。
 だが、同時に、本とは案外と丈夫なものだ。適切に管理し修復すれば、思いの外、保つ。手になじみ、傷んだ風合いも持ち主にとっては愛着となる。そのタフさ、痕跡を残していくことから、人は本に対して同じ時間を生きている同志に近い感情を持つのだろう。
 本の著者が、小説なら登場人物が、勇気をもってその人間性や知性を曝けだそうとするなら、読者もまた居住まいを正して向き合うのが礼儀なのかもしれない。
 間違ったことが書いてあるかもしれない。古かったり、とても賛成できないような主張がされているのかもしれない。けれど、一冊の本の章と章、頁と頁、あるいは文と文のあいだの襞に折り畳まれたそこには、やはり「誰か」がいる。「誰か」が生きて為してきた「仕事」が、膨大すぎて見渡すことのできない世界から断絶され、切り取られてきて、ありのままの姿で今手のひらの上に乗っているのではないか。
 本を跨いではいけないというのは、つまりはそういうことなのだと思う。
 紅玉いづきは、ずっと「大事なもの」を書いてきた作家だ。それもどちらかというと、誰もが大事だからと保護するような、当たり前の「大事なもの」ではない。小さかったり目に見えなかったり、壊れやすかったり歪んでいたりして、どこか途方に暮れたみなしごのような、そんな存在に執拗に激励といたわりのまなざしを向けてきた作家である。
 インタビュー等によると、彼女は手書きの作家でもあるらしい。大学ノートを必死に埋めたエピソードなどを読むと、微笑ましいのと鬼気迫るのと、まるで正反対の印象を受けるが、その一番最初にできあがる原稿が「紙の本」であることはきっと偶然ではない。
 作家とこの小説の題材も、出会うべくして出会った天命、幸福なマリアージュだったのだ。

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2014.01.29

銀

20歳の自分に受けさせたい文章講義

身体でおぼえろ

レビュアー:鳩羽 Warrior

 文章とは、頭を使って書くものだという思い込みがある。確かに、書くことを決めるのも、順番や構成、結論として何を主張するかを決めるのも、頭だ。だが、ブラックボックスのように仕組みが見えない頭だけで書こうとするから、文章を書くことが特に不可解で難しく思えるのではないだろうか。この本はそんな蒙昧な思い込みをすっきりと整理整頓してくれる、いわば文章の技芸の本だ。

 例えば、文章のリズムについて書いてある文章指南の本は多い。しかし、じゃあそのリズムとは具体的になんだというと、あえて言わなくても分かるだろうとでも言うように、読みやすさだとか音読のしやすさ、というところにとどまってしまう。
 しかし、この本では、文体のリズムを論理展開の簡明さ、正しい文章であること、接続詞をしっかり使うことというふうに、まるで国語の授業のようにひとつひとつ教えてくれる。国語の授業と違うのは、授業を受ける私たちがまさにその知識を欲していて、手を差し出しているというところなのだ。その手のひらにぴったりと欲しい知識が収まると、なんとも言えない快感である。
 他にも、眼で構成を考えること、書くときの自分は一体どこに座るべきなのか、編集はどうするのか、など、どの項目も五感になぞらえるような説明が多い。文章のことを文章で説明しようとすると抽象的になりがちだが、この身体を使った例は分かりやすく、分からなくてもとりあえず真似てみることくらいはできる。習いながら、倣うことができるのだ。

 書くことがないわけでもない。まして、言葉を知らないわけでもない。それでも書けなくて詰まってしまうとき、一体自分はなにをインプットして生きてきたのか、考えたことすべてが無駄なような気がして、途方にくれてしまう。
 だが、文章を書くことは、もともと溢れんばかりにある情報や感情を翻訳し、加工し、取り出して、編集することにすぎない。それは作業であり、工程であり、技術だ。
 才能だと思えば、書くことから逃げたくなってしまう。けれど、技術だと思えば、練習して上手くなることもあるだろう。
 それに、文章を書く機会は増えこそすれ、減ることはない。若いときに、文字通り身体全体を使って染み付かせた文章を書く力は、一生ものの技となってくれるだろう。
 たとえ三色しか絵の具を持っていなくても、やり方さえ知っていれば虹を描くこともできる。
 これは、芸術的な名画を描けるようになるための本ではない。虹を書けるようになるためのハウツー本なのだ。

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2013.07.08

銀

僕は写真の楽しさを全力で伝えたい! 青山裕企

写真はイメージです

レビュアー:鳩羽 Warrior

 シェフの今日のおすすめピッツァ、なんだか不満げな猫、ひんやりと青い紫陽花、コンビニの新商品、日本語が変な看板、作りかけのアクセサリー、羽織るものが欲しいというひとの撮った夕暮れ、スイカ模様のブックカバー、ホームの電車、ぴたりと静止した蝶、色調を加工したショッキングピンクの夜景、酒のラベル。
 これが、私が今日見た写真だ。写真といってもプリントアウトされたものは一枚もなく、いくつかのSNSでさらさらと眺めていっただけである。知人の撮った写真もあれば、まったく知らない人の写真もある。最近の私にとって一番身近な写真というと、スナップ写真でもプリクラでもなく、よく知らないひとが誰かに見せようと切り取ってくれた光景であり、情報であり、演出された美しい景色だったりするところの「写真」であるらしい。

 筆者は、自分には何もないと悩んでいた学生時代に写真の楽しさを見つけだした。その大好きな写真を仕事、生業にしていいものかどうかを悩み、決断し、写真家として歩き始めることになるまでの半生は、文章にするとあまりに簡単に見える。けれどこの本の目的は写真の楽しさを伝えることであって、写真の難しさや写真家の苦労を語ることではない。それらの現実的な内容は、静かに暗黙の背景に納められている。
 筆者の半生を語るのとは別に、もう一つのパートがある。それは「ぱち」という簡単に作ることができるお手製の写真集、それを作ることを目標に、写真の撮り方の心構えを教えてくれるような授業形式になっているパートだ。自分の撮った写真を並べて、対象の癖、距離の癖といった「眼の癖」なるものを見つけていくという課程は、やさしい内容ながらも意外な発見があったりして結構スリリングである。
 筆者の、いわば自分史のような写真と自分への取り組みの部分と、読者に対して実際に「ぱち」を作ってみようとする部分とが交互に織り込まれているのがこの本であり、焦点を意図的にずらされるかのようにこの二つのパートを読んでいると、写真の二面性のようなものがおぼろげに立ち上がってくるのが分かる。

 写真はありのままの現実を記録として伝えるものという性質、それと、なんらかの複雑で総合的なイメージを伝える性質、この二つの性質が分かち難く結びついている。写真に加工を施さないにしても、出来上がりのイメージを頭においてポーズをさせるならば、あるいはキャプションの付け方によって、特定のイメージを抱かせようとするなら、それは完璧にありのままの記録とはいえないだろう。
 だが、ありのままの記録では、おもしろくないのだ。
 ほんのちょっとの工夫で日常からたやすく抜け出せるというのは、筆者によると、ものの見方を変えてみることだ。「ものの見方を変える」というとなかなか難しいが、写真と撮るという行為になぞらえて、構成や距離や、明暗をはかりながら対象に向き合うこと、というとできそうな気がしてくるから不思議だ。何枚も撮ることができることは、何回でもチャレンジできることでもある。同時に、何百枚何千枚と撮ってやっと良い一枚が撮れるかどうかという、結果的なことを想起させられもする。
 著者の写真でいうならば、人をジャンプさせて写真を撮ることで、被写体の取り繕った自然から、不自然な状態のなかで見せる一瞬の自然な表情を見ることが可能となっている。また、自分の目で自分の全身を見ることは不可能だが、カメラの眼を通して見ることはできる。それが筆者にとって、写真のおもしろさと自分への愛着の発見だったことは、とてもよく分かるエピソードだ。
 シャッターを押すということは、一度自分の目を閉じて、別の眼で見るということなのかもしれない。それは多分、自分の目よりも、純粋なイメージを送受信するのに適している。
 
 おもしろい写真を撮ろう、美しい風景を記録しよう、それをアートとしてあるいは情報として、誰かに見せたい、喜んでもらいたい。日常とは簡単に脱せられるものだが、といったところで、価値を生み出すフィールドはやはり日常と地続きのところにしかない。写真の難しさや奥深さ、芸術作品としての写真に憧れ、引きつけられながらも、気軽に撮ることができる写真で何かを表現してみたいという欲求は身近なところに向けられる。息を吸って吐いて、を繰り返すかのように、写真の魅力を吸い込んでしまうと、今度は自分でも撮って誰かに見せたくなる。
 誰も私の日常に、私の視点などに興味はないだろうけど、と写真を撮る。
 でも、それでいいとも思う。
 写真はイメージです、というトートロジーにある微妙なずれの間を、撮りたい、知りたい、これいいね、という気持ちが無数の星となって行き来している。それはチャーミングな人間らしさに溢れている光景だ。
 今日見た写真のうち、何枚かにコメントをつけ何枚かをお気に入りにした。私の人生も、写真によって確かにカラフルになっているのだ。

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2013.07.08


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