本を持たずに電車に乗ることはない。お弁当を食べるときは、大抵傍らに本を開いている。座って読み、寝転がっては読み、待ち時間に読み、いそいそとお茶とお菓子を用意しては読む。あまり誉められた読書の仕方ではないかもしれないが、何冊かの本をひょいひょい渡り歩くように読み、つまらなかったら放り投げて、いつ読めるか分からないのに、積ん読、飾っ読、並べ読。
一冊の本にじっくりと集中して読めたなら、それが一番の至福だろうがなかなかそうもいかない。空き時間やそのときの気分によって、細切れに読む機会が多分私には一番多い。
星海社FICTIONSで私が好きなところ、それはスピンでも天のアンカットでもない。カラー見開きの挿し絵には毎回どきんとするが、それも一番ではない。すでにレビューされているかと思ったら、まだ触れられていないようなので、ひっそりと主張させてもらおう。
私が好きなのは、この、開きやすさだ。
他のどのソフトカバーの単行本と比べても、ノベルスや文庫本と比べても、もちろんハードカバーの本と比べても、断然星海社FICTIONSは開きやすい。折りグセをつけなくても、新品のときから軽くページを開ける。
開いた状態のまま片手で持つことも簡単にできるし、机に置けば箸を使いながら読むのにもあちこち押さえる必要がない。楽に開けるので、真ん中の文字列を読むときに力を込めて広げなくてもいい。逆に、思い切って広げても、ハードカバーの本のように背表紙から頁が離れてしまうということもない。
造本の仕組みに明るくないので、この開きやすさが何に由来するのか分からないが、初めて星海社FICTIONSを手にしたとき一番驚いたのは、このまといつくようなしなやかさ、軽さだった。
この開きやすさに似ているものを、二つ思い浮かべることができる。一つは週刊誌。そしてもう一つは絵本だ。
この二つに共通点を探そうとするなら、それは読んでもらおうとするアピールが、内容だけではなく、モノ自体にまで溢れている品物だということができるだろう。
読者がどういうふうに本を開くか、どんな形態なら不自由なく生活に寄り添えるか。本棚に大事に収めておくのもいい。だが、通勤通学のお供のためには軽い方がいいし、どんな状況でもぱっと出せて軽く開くことができたら、読書は特別なイベントではなく日常のなかにすっととけ込む。それを考えた結果が、この造本なのだと思う。
星海社FICTIONSは、少なくとも本の形態では、読者を拒まないシリーズだ。
内容では、まあ、割と個性が強いときもあったりするが、それでもこの開きやすさを手の上で味わってみると、すぐに物体としての本の存在を忘れること、間違いなしである。
一冊の本にじっくりと集中して読めたなら、それが一番の至福だろうがなかなかそうもいかない。空き時間やそのときの気分によって、細切れに読む機会が多分私には一番多い。
星海社FICTIONSで私が好きなところ、それはスピンでも天のアンカットでもない。カラー見開きの挿し絵には毎回どきんとするが、それも一番ではない。すでにレビューされているかと思ったら、まだ触れられていないようなので、ひっそりと主張させてもらおう。
私が好きなのは、この、開きやすさだ。
他のどのソフトカバーの単行本と比べても、ノベルスや文庫本と比べても、もちろんハードカバーの本と比べても、断然星海社FICTIONSは開きやすい。折りグセをつけなくても、新品のときから軽くページを開ける。
開いた状態のまま片手で持つことも簡単にできるし、机に置けば箸を使いながら読むのにもあちこち押さえる必要がない。楽に開けるので、真ん中の文字列を読むときに力を込めて広げなくてもいい。逆に、思い切って広げても、ハードカバーの本のように背表紙から頁が離れてしまうということもない。
造本の仕組みに明るくないので、この開きやすさが何に由来するのか分からないが、初めて星海社FICTIONSを手にしたとき一番驚いたのは、このまといつくようなしなやかさ、軽さだった。
この開きやすさに似ているものを、二つ思い浮かべることができる。一つは週刊誌。そしてもう一つは絵本だ。
この二つに共通点を探そうとするなら、それは読んでもらおうとするアピールが、内容だけではなく、モノ自体にまで溢れている品物だということができるだろう。
読者がどういうふうに本を開くか、どんな形態なら不自由なく生活に寄り添えるか。本棚に大事に収めておくのもいい。だが、通勤通学のお供のためには軽い方がいいし、どんな状況でもぱっと出せて軽く開くことができたら、読書は特別なイベントではなく日常のなかにすっととけ込む。それを考えた結果が、この造本なのだと思う。
星海社FICTIONSは、少なくとも本の形態では、読者を拒まないシリーズだ。
内容では、まあ、割と個性が強いときもあったりするが、それでもこの開きやすさを手の上で味わってみると、すぐに物体としての本の存在を忘れること、間違いなしである。