なんという清々しさだろう。
不安も、怖れもなく、高いところから辺りを見渡しているような。自らの熱を完全にコントロールしている若い獣をみるような、そんな読後感だった。
主人公の八尋は、事故で記憶をなくし、目覚めるとすぐに兵士としての戦いの日々をスタートさせることになる高校生の少年だ。ファタルという謎の生物が人類を襲撃してきて、仲間も八尋自身も、いつ死んでもおかしくないギリギリの状況で戦い続けている。
記憶がない、つまりは過去の思い出もない八尋にとって、仲間としてそばにいるクラスメイトたちとの関係はどこか希薄で遠慮がちだ。もちろん、八尋に人間らしい感情がない訳ではない。けれど、うまく戦闘をこなすことができなくて苦悶し、効率的にファタルを倒すことができるようになれば達成感を感じ、慰めてくれたり誉めてくれたりする一人の少女を好きになり、という反応は、素直すぎて危うく思える。
同じように、どんどん戦闘そのものもルーチンとなっていき、なんのために戦うのか、目的も、意義も、疑問もないまま、虚しい薄い色をした空だけが八尋の意識を収束していく。
この度々描写される薄い空の色。
諦めに似たこの色は、何かを想像することを拒むかのように頭上にかぶさっている。
誰かを気遣い思いやるための想像力、なにか良い方向に変えていくための想像力、そんなことはささやかなことに過ぎないと嘲笑するかのように、日常の大きな疲労は小さなきっかけを濁流に飲み込んでいく。
青とは、若さや未熟さを表すときによく使われ、日本語の語源からすると曖昧で茫洋とした色のことであったらしい。
八尋たちには、その曖昧で定まらないなかを開拓していく自由がない。未熟さを糧に、己で判断を下していくことも許されない状況にある。無謀が許されず、すでにどこかで決められた白黒、突きつけられる生死を受け入れるだけの日々からは、彼らにとっての価値そのものが生まれないのかもしれない。
けれど、八尋は、つまらなく思えるものを、薄い空を、丹念に重ねていったように思う。
猜疑心ややりきれなさに放り出したくなっても、自分の心から目を逸らさず、好きな子のことを好きなままでいた。近くにいる仲間を見放すこともなく、数少ない繋がりを維持しつづげた。彼の場合、できることとは戦闘しかなかったのかもしれない。だが、その一見特別でもなんでもないものを重ねて、重ねて、重ねて、青い空にした。私にはそんなふうに見えた。
どこにそのドラマの起点があったのかは、分からない。だが、雛が卵の殻を抜け出るようにして、八尋は一瞬と永遠を等価値にしたのだ。
そのとき、世界の美しさに、確かに時間は止まったのだろう。
この物語は、始まりの場面と終わりの場面が一致している。けれど、悪夢のようにループするのではないかという懸念は不思議と感じられない。
解説では、ファタルシスという言葉はファタルとカタルシスを足した言葉ではないかという説が述べられているが、そこにエクスタシスも付け加えたい。これは同じことの不気味なくり返しではなく、外に勢いよく飛び出ていく原始的な快楽の話のように思える。そうでなければ、こんなに清々しいはずがない。
世界だけが美しくて、それが一体なんになるだろう。脱皮するように、少年は何度でも世界を脱ぎ捨てていけばいいのだ。
八尋と同じ年頃の読者は、この小説をどんなふうに読むのだろう。そんなことを想像するのもまた、楽しかった。
不安も、怖れもなく、高いところから辺りを見渡しているような。自らの熱を完全にコントロールしている若い獣をみるような、そんな読後感だった。
主人公の八尋は、事故で記憶をなくし、目覚めるとすぐに兵士としての戦いの日々をスタートさせることになる高校生の少年だ。ファタルという謎の生物が人類を襲撃してきて、仲間も八尋自身も、いつ死んでもおかしくないギリギリの状況で戦い続けている。
記憶がない、つまりは過去の思い出もない八尋にとって、仲間としてそばにいるクラスメイトたちとの関係はどこか希薄で遠慮がちだ。もちろん、八尋に人間らしい感情がない訳ではない。けれど、うまく戦闘をこなすことができなくて苦悶し、効率的にファタルを倒すことができるようになれば達成感を感じ、慰めてくれたり誉めてくれたりする一人の少女を好きになり、という反応は、素直すぎて危うく思える。
同じように、どんどん戦闘そのものもルーチンとなっていき、なんのために戦うのか、目的も、意義も、疑問もないまま、虚しい薄い色をした空だけが八尋の意識を収束していく。
この度々描写される薄い空の色。
諦めに似たこの色は、何かを想像することを拒むかのように頭上にかぶさっている。
誰かを気遣い思いやるための想像力、なにか良い方向に変えていくための想像力、そんなことはささやかなことに過ぎないと嘲笑するかのように、日常の大きな疲労は小さなきっかけを濁流に飲み込んでいく。
青とは、若さや未熟さを表すときによく使われ、日本語の語源からすると曖昧で茫洋とした色のことであったらしい。
八尋たちには、その曖昧で定まらないなかを開拓していく自由がない。未熟さを糧に、己で判断を下していくことも許されない状況にある。無謀が許されず、すでにどこかで決められた白黒、突きつけられる生死を受け入れるだけの日々からは、彼らにとっての価値そのものが生まれないのかもしれない。
けれど、八尋は、つまらなく思えるものを、薄い空を、丹念に重ねていったように思う。
猜疑心ややりきれなさに放り出したくなっても、自分の心から目を逸らさず、好きな子のことを好きなままでいた。近くにいる仲間を見放すこともなく、数少ない繋がりを維持しつづげた。彼の場合、できることとは戦闘しかなかったのかもしれない。だが、その一見特別でもなんでもないものを重ねて、重ねて、重ねて、青い空にした。私にはそんなふうに見えた。
どこにそのドラマの起点があったのかは、分からない。だが、雛が卵の殻を抜け出るようにして、八尋は一瞬と永遠を等価値にしたのだ。
そのとき、世界の美しさに、確かに時間は止まったのだろう。
この物語は、始まりの場面と終わりの場面が一致している。けれど、悪夢のようにループするのではないかという懸念は不思議と感じられない。
解説では、ファタルシスという言葉はファタルとカタルシスを足した言葉ではないかという説が述べられているが、そこにエクスタシスも付け加えたい。これは同じことの不気味なくり返しではなく、外に勢いよく飛び出ていく原始的な快楽の話のように思える。そうでなければ、こんなに清々しいはずがない。
世界だけが美しくて、それが一体なんになるだろう。脱皮するように、少年は何度でも世界を脱ぎ捨てていけばいいのだ。
八尋と同じ年頃の読者は、この小説をどんなふうに読むのだろう。そんなことを想像するのもまた、楽しかった。