おやすみ、ムートン
ムートンが生まれてくれたこと
レビュアー:鳩羽
風船に手紙をつけて飛ばすという、ロマンチックな遊びをしたことがある。本で読んだのだったか友だちに聞いたのだったか忘れてしまったが、どこかの店で風船を手に入れてすぐ、風船がしぼんでしまう前にと大慌てで手紙を書いた。海辺に住んでいたのなら、小瓶に手紙を入れて流していたかもしれない。どこかの誰かが手紙を拾ってくれ、メッセージに気づいてくれるかもしれない。そう空想するだけで、とても幸せだったのを覚えている。
小説家だったsさんを慕って集まったメンバーは、帰るべき故郷をなくし、宇宙船で放浪するしかない未来に絶望しきっていた。そんななか、周りの空気を読まずにsさんが作ったのが、羊のぬいぐるみに宇宙船の人工知能を利用したムートン。
この白くてかわいいムートンが言葉を覚え、生まれたばかりの子どものように少しずついろんなことを学習していく。「おやすみ、ムートン」は簡単にいうならばそんな話だ。
ムートンが、悲しみと苦しみとでどうにもならなくなった人間たちに教えてくれるのは、いや、その小さな身体でせいいっぱい体現するのは、何かを伝えようとする必死さだ。少ない語彙でムートンは懸命に話し、自分の名前と「おはよう」の一言だけでも、たくさんの人と心を通わせていく。
泉和良の小説でよく目にする、そしてこの「おやすみ、ムートン」でも、浮かび上がってくるのはあるコミュニティの強さともろさだ。
特別な才能を持った人の周りには、その才能を愛する仲間が集う。同じものを愛するメンバーがそ揃えば、楽しくて、わくわくして、無敵の集団であるかのようにそれぞれが特別で個性的な一員としてうまく機能する。
それがある日、壊れる。そうすると、この一人のために集まった集団は、あまりにも密接に理解しあえていたために、些細な意見の違いでさえ、刃となって互いを切り刻むようになってしまう。
楽園はどこに消えてしまったのだと、メンバーの行き場のない他罰性はなかば必然的に、中心となった人物に向かう。
けれど、コミュニティを作るきっかけとなった「彼ら」に、どんな罪があるのだろう。優れた才能があった罪なのか、人を集めた孤独さが罪なのか。その果てに「彼ら」がひっそりと選ぶ自己犠牲はいつも、コミュニティのメンバーと、中心人物となった「彼ら」との静かな絶縁を感じさせてきた。
誰だって本当は、ムートンが目覚める前にいたという、ざわめきの大地にひとりきりで立っているのだ。遠い空の星をつなげて誰かの面影を思い描き、私たちはその面影に向かって話をしているにすぎない。どんなに近しい人でもその人の心の荒野はその人だけのもので、共有することはできない。たとえ肩を組んで歌っていたって、皆、自分の星に、ただ一人きりで立っている。
親しければ親しいほど、好きな人であればあるほど、それは認めたくないくらい辛いことだ。私には、sさんをはじめ泉和良の描く才能のある「彼ら」が、その事実に直面することを避けようと、さらに自分の周りに高い壁を張り巡らせ閉じこもっているように思える。そうして、所詮才能の提供と消費という関係にすぎないのだと言いたげに、「彼ら」があっさりと関係を絶とうとすることに私は傷ついてきた。
生まれたばかりのムートンでさえ、知っていたではないか。本当は離れていても、一緒にいるように感じること。それが信じることだったり、心をひとつにすることなんだと。
そのためには、たとえ星座に向かってしゃべっているように思えてでも、伝えようとすることをやめてはいけないのだと。
だからどうしても、考え抜いた結果なのだと分かってはいても、最終的なぎりぎりのラインで、私はsさんのしたことを許すことができないでいる。
私が飛ばした風船の手紙には、隣市の親切なひとが返事を書いてくれた。名前と挨拶だけで、こんにちは、私はここにいるよ、と伝えあうことができた。
sさんを許すことはできなくても、この物語には、ムートンが残された。ムートンを残してくれた。
彼の存在が希望となって、傷を癒し、虚しさをなだめてくれるだろう。
その奇跡だけでも、充分だ。
小説家だったsさんを慕って集まったメンバーは、帰るべき故郷をなくし、宇宙船で放浪するしかない未来に絶望しきっていた。そんななか、周りの空気を読まずにsさんが作ったのが、羊のぬいぐるみに宇宙船の人工知能を利用したムートン。
この白くてかわいいムートンが言葉を覚え、生まれたばかりの子どものように少しずついろんなことを学習していく。「おやすみ、ムートン」は簡単にいうならばそんな話だ。
ムートンが、悲しみと苦しみとでどうにもならなくなった人間たちに教えてくれるのは、いや、その小さな身体でせいいっぱい体現するのは、何かを伝えようとする必死さだ。少ない語彙でムートンは懸命に話し、自分の名前と「おはよう」の一言だけでも、たくさんの人と心を通わせていく。
泉和良の小説でよく目にする、そしてこの「おやすみ、ムートン」でも、浮かび上がってくるのはあるコミュニティの強さともろさだ。
特別な才能を持った人の周りには、その才能を愛する仲間が集う。同じものを愛するメンバーがそ揃えば、楽しくて、わくわくして、無敵の集団であるかのようにそれぞれが特別で個性的な一員としてうまく機能する。
それがある日、壊れる。そうすると、この一人のために集まった集団は、あまりにも密接に理解しあえていたために、些細な意見の違いでさえ、刃となって互いを切り刻むようになってしまう。
楽園はどこに消えてしまったのだと、メンバーの行き場のない他罰性はなかば必然的に、中心となった人物に向かう。
けれど、コミュニティを作るきっかけとなった「彼ら」に、どんな罪があるのだろう。優れた才能があった罪なのか、人を集めた孤独さが罪なのか。その果てに「彼ら」がひっそりと選ぶ自己犠牲はいつも、コミュニティのメンバーと、中心人物となった「彼ら」との静かな絶縁を感じさせてきた。
誰だって本当は、ムートンが目覚める前にいたという、ざわめきの大地にひとりきりで立っているのだ。遠い空の星をつなげて誰かの面影を思い描き、私たちはその面影に向かって話をしているにすぎない。どんなに近しい人でもその人の心の荒野はその人だけのもので、共有することはできない。たとえ肩を組んで歌っていたって、皆、自分の星に、ただ一人きりで立っている。
親しければ親しいほど、好きな人であればあるほど、それは認めたくないくらい辛いことだ。私には、sさんをはじめ泉和良の描く才能のある「彼ら」が、その事実に直面することを避けようと、さらに自分の周りに高い壁を張り巡らせ閉じこもっているように思える。そうして、所詮才能の提供と消費という関係にすぎないのだと言いたげに、「彼ら」があっさりと関係を絶とうとすることに私は傷ついてきた。
生まれたばかりのムートンでさえ、知っていたではないか。本当は離れていても、一緒にいるように感じること。それが信じることだったり、心をひとつにすることなんだと。
そのためには、たとえ星座に向かってしゃべっているように思えてでも、伝えようとすることをやめてはいけないのだと。
だからどうしても、考え抜いた結果なのだと分かってはいても、最終的なぎりぎりのラインで、私はsさんのしたことを許すことができないでいる。
私が飛ばした風船の手紙には、隣市の親切なひとが返事を書いてくれた。名前と挨拶だけで、こんにちは、私はここにいるよ、と伝えあうことができた。
sさんを許すことはできなくても、この物語には、ムートンが残された。ムートンを残してくれた。
彼の存在が希望となって、傷を癒し、虚しさをなだめてくれるだろう。
その奇跡だけでも、充分だ。