レッドドラゴン
幕が降りるまで
レビュアー:鳩羽
こんな物語、早く終わってしまえばいい。
いいところでストーリーを切られ、欲求不満にさせられる。次週持ち越しというのが我慢できない性質だから、テレビドラマの類も連載ものの漫画も小説も、見ようとすることはほとんどない。それでもこのレッドドラゴンの単行本一巻目を手に取ったのは、今をときめく錚々たる参加者達、TRPGをテキストにしてそれを参加者じゃない私が楽しめるのかという興味、そしていささか食傷気味になった「物語」「物語」「物語」……という言葉の澱みを吹き飛ばしてくれるような何か。そう、強くて新しい風に当たってみたかったからである。
参加者達のすべての活動を私は知らないが、一つのジャンルを軽々と飛び越えるような活動をしているクリエイターばかりのようだ。文章、絵、音。それらはかつて、単独で鑑賞されることしかなかった。だが、昨今ではこれらを同時に体験する鑑賞の仕方が、しかも個人ではなく大勢で同時に体験し、その感動を同期的にやりとりすることすら珍しくない。音がつけられることが前提の絵、動画となることが前提のシナリオ、リアルタイムで感動を引きずり出すことができる創作物、そういった純粋さと強靱さの両方を求められる創作のいわば猛者たちが、全力で虚構の中に潜り込み、それを遊ぶ。
ゲームのプレイヤー達は、最初は紅玉いづき、しまどりる、というふうにこちら側、現実の名前で表記されている。それがキャラクター紹介の後から、それぞれのキャラクター名の表記となるが、完全にキャラクターになりきっているというわけでもない。プレイヤー同士の他愛ないやりとり、フィクションマスターへの質問、ゲームへの感想といった素の発言も結構ある。文脈から注意深く読まないと、ああこれはキャラクターの発言なのだなと分からないところすらある。キャラクターは知らないキャラクター同士の情報をプレイヤー同士が知っていることもあれば、秘密にしたいことを他のプレイヤーにも伏せることもある。
ゲームの舞台ニル・カムイという島、プレイヤー達が集うどことも知れない部屋、そしてそれを観戦する我々、幾層にも折り畳まれた存在と存在の狭間で、ゲームの仕組みを最大に生かし裏をかこうとする虚淵玄の操るキャラクター・婁が笑えば、それは果たして虚淵玄が笑ったのやら、婁が笑ったのやら、判別がつかずに戦慄する。しまどりるが操るのは策を巡らせるタイプではないキャラクター・忌ブキ。率直な感情で予想もつかない展開を引き起こしては、物語の土台を大きく揺さぶる。奈須きのこ本人も、操るキャラクター・スアローも、飄々としていて人なつっこいが誰よりも固い殻で何かをひっそりと隠したまま打ち解けない。そして紅玉いづき操るエィハは、世界の成り立ちを理解する前の開始早々に自分が死ぬか守るべき存在を見殺しにするかの選択を迫られ、疑似的に一度死ぬ。
そしていくつものキャラクターを使い分け、遊技盤を整えるフィクションマスターの一番の鉄仮面っぷり。彼は一体どんな棋譜を思い描き、どこに辿り着こうとしているのだろう。
理性と感情。正義と情念。その均衡と綱渡りは、サイコロの出目のようにその時その時に決定される。この物語は、選択されなかった選択肢の先の物語を殺しながら、幾層にも重なった息づかいを一身に受けて、ただ一本の道を選択してつき進んでいく。誰かを助けて誰かを見殺しにし、誰かの声を聞いては誰かの声を無視する。動かされるキャラクター、複数のプレイヤー、リアルタイムで追いかける観戦者、混乱したポリフォニーから、やがて一つの主題が自然に出来上がってくるのか、それともプレイヤー達が創作者の意地をかけて作り上げるのかも、不確定だ。
終わってしまえば過去のものとなり、語られなかったことは知るすべもない。だが私は意味なく死んでいく悲鳴を聞いた。プレイヤー達の動揺と、躊躇う姿を見る。生き生きとした魅力と、限りない期待と興奮、大きな手のひらで受け止めてもらえるような安心感を、もう一度物語りに見つけるだろう。
だからこそ、早く終わってほしい。
完結してから、読み終わりたくない! とじりじりしながら読むのが好きなのだ。
いいところでストーリーを切られ、欲求不満にさせられる。次週持ち越しというのが我慢できない性質だから、テレビドラマの類も連載ものの漫画も小説も、見ようとすることはほとんどない。それでもこのレッドドラゴンの単行本一巻目を手に取ったのは、今をときめく錚々たる参加者達、TRPGをテキストにしてそれを参加者じゃない私が楽しめるのかという興味、そしていささか食傷気味になった「物語」「物語」「物語」……という言葉の澱みを吹き飛ばしてくれるような何か。そう、強くて新しい風に当たってみたかったからである。
参加者達のすべての活動を私は知らないが、一つのジャンルを軽々と飛び越えるような活動をしているクリエイターばかりのようだ。文章、絵、音。それらはかつて、単独で鑑賞されることしかなかった。だが、昨今ではこれらを同時に体験する鑑賞の仕方が、しかも個人ではなく大勢で同時に体験し、その感動を同期的にやりとりすることすら珍しくない。音がつけられることが前提の絵、動画となることが前提のシナリオ、リアルタイムで感動を引きずり出すことができる創作物、そういった純粋さと強靱さの両方を求められる創作のいわば猛者たちが、全力で虚構の中に潜り込み、それを遊ぶ。
ゲームのプレイヤー達は、最初は紅玉いづき、しまどりる、というふうにこちら側、現実の名前で表記されている。それがキャラクター紹介の後から、それぞれのキャラクター名の表記となるが、完全にキャラクターになりきっているというわけでもない。プレイヤー同士の他愛ないやりとり、フィクションマスターへの質問、ゲームへの感想といった素の発言も結構ある。文脈から注意深く読まないと、ああこれはキャラクターの発言なのだなと分からないところすらある。キャラクターは知らないキャラクター同士の情報をプレイヤー同士が知っていることもあれば、秘密にしたいことを他のプレイヤーにも伏せることもある。
ゲームの舞台ニル・カムイという島、プレイヤー達が集うどことも知れない部屋、そしてそれを観戦する我々、幾層にも折り畳まれた存在と存在の狭間で、ゲームの仕組みを最大に生かし裏をかこうとする虚淵玄の操るキャラクター・婁が笑えば、それは果たして虚淵玄が笑ったのやら、婁が笑ったのやら、判別がつかずに戦慄する。しまどりるが操るのは策を巡らせるタイプではないキャラクター・忌ブキ。率直な感情で予想もつかない展開を引き起こしては、物語の土台を大きく揺さぶる。奈須きのこ本人も、操るキャラクター・スアローも、飄々としていて人なつっこいが誰よりも固い殻で何かをひっそりと隠したまま打ち解けない。そして紅玉いづき操るエィハは、世界の成り立ちを理解する前の開始早々に自分が死ぬか守るべき存在を見殺しにするかの選択を迫られ、疑似的に一度死ぬ。
そしていくつものキャラクターを使い分け、遊技盤を整えるフィクションマスターの一番の鉄仮面っぷり。彼は一体どんな棋譜を思い描き、どこに辿り着こうとしているのだろう。
理性と感情。正義と情念。その均衡と綱渡りは、サイコロの出目のようにその時その時に決定される。この物語は、選択されなかった選択肢の先の物語を殺しながら、幾層にも重なった息づかいを一身に受けて、ただ一本の道を選択してつき進んでいく。誰かを助けて誰かを見殺しにし、誰かの声を聞いては誰かの声を無視する。動かされるキャラクター、複数のプレイヤー、リアルタイムで追いかける観戦者、混乱したポリフォニーから、やがて一つの主題が自然に出来上がってくるのか、それともプレイヤー達が創作者の意地をかけて作り上げるのかも、不確定だ。
終わってしまえば過去のものとなり、語られなかったことは知るすべもない。だが私は意味なく死んでいく悲鳴を聞いた。プレイヤー達の動揺と、躊躇う姿を見る。生き生きとした魅力と、限りない期待と興奮、大きな手のひらで受け止めてもらえるような安心感を、もう一度物語りに見つけるだろう。
だからこそ、早く終わってほしい。
完結してから、読み終わりたくない! とじりじりしながら読むのが好きなのだ。