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読者レビュー

銅

上野に行って2時間で学びなおす西洋絵画史

2時間の使い方

レビュアー:鳩羽 Warrior

 思いがけず取れた休日、ぽっかりあいた時間に美術館に行ってみることにした「わたし」は、コンシェルジュに案内されて国立西洋美術館の常設展をまわることにする。それも順路どおりではなく、現代に一番近い時代から時間をさかのぼるようにして。
 芸術やアートは、ただそれだけの独立孤高の存在だと思うと、難しそうでとっつきにくい。けれど、画家の生まれ育ちや人となり、歴史的にどんな時代だったのかの背景を知るだけで、親しみを覚える。さらに心地よい声のコンシェルジュが、そっと筆で一撫でするように理解を補ってくれる。すると、その絵はただ綺麗なだけの絵ではなく、生み出されるために傾けられた情熱をたっぷりと湛えていることに気づく。
 描こうとした物語があり、形にしようとした感情があった。とどめたい一瞬があり、表現せずにはいられない個性があった。行ったり来たりの蛇腹のようにして、時代を進めてきた。
 コンシェルジュは言う。
 「人がはっきりと強い意志を抱いて何かを為し、その結果によって生じたものは、すべからく芸術であり表現だといっていいのだと思います。絵画は、その個人の意志が、画面に集中して浴びせられたものでしょう」、と。
 その意志を感じ取ることで、きっとひとは勇気をもらったり慰撫されたりしてきたのだろう。芸術作品は見るひとびとの現実の時間を止めて、その作品の時間のなかに連れていく。
 現実のその先を、伸ばした手の先をなんとか形にしようとする試み、「いま、ここ」をただ有るままに現した慈しみ。この行ったり来たりを、現在も私たちは続けている。

 「わたし」とコンシェルジュの会話をこっそり後ろで聞きつつ、その小さなツアーに紛れ込ませてもらっているような気分で、私も楽しませてもらった。一体このコンシェルジュは何者なのだろう、「わたし」とコンシェルジュのやりとりを聞いていると、誰と誰が会話しているのかあやふやに感じられてきて、ちょっとしたミステリーなのだ。
 上野に行って2時間、行けない人は代わりにこの本を読んで2時間、西洋絵画史を学びなおせる一冊。

2014.02.25

さくら
絵画を見て人が感じる事って人それぞれで、それを確かめあう手段って見た後になってしまうと思うの。この本は絵画を見ていないのに、見ているその瞬間を作者を通す事で共有できる本なのかなーとワクワクしましたわ。
さやわか
姫のコメント、鋭さが冴え渡っているな……。この本はタイトル通り「上野に行って」絵画を楽しむ本ではあるのですが、そうでなくとも作者の筆致を通してツアーを体験してしまえるわけですね。同時にそれは「わたし」を一人称とした物語のようでもある。このレビューはそこを的確に指摘したものになっていると言えるでしょう。ほんの少し疑問に思えるのは最後の「上野に行って2時間、行けない人は代わりにこの本を読んで2時間」というところです。この書き方だと、この本を読んで上野に行く人と、この本を読まずに行く人の間に差を作っていないように見えますよね。この本を読んだからこその「上野での2時間」が強調されていると、この本に対する読者の興味をさらにひけるかもしれないと思います。というわけでここでは「銅」とさせていただきました!

本文はここまでです。