あれがキャバクラだったのかどうか、定かではないが、フィリピン人女性が隣に座ってくれる店に知り合いと行ったことがあって、私が「キャバ嬢」と聞いて思い浮かべるのは、店の怪しげな薄暗さ、カタコトの日本語とタガログ語である。
「男女交際」と「援助交際」に差異を見つけられず、苦悶した著者は「カラダとカネの交換システム」を解き明かす為「キャバ嬢」になり社会学を武器にフィールドワークに取り組む。
キャバ嬢となって彼女が体験する事柄を読んでいくと、まるで、TVのドキュメンタリーでも見ているような気持になる。
あまり知らない世界の裏側を覗いているような感覚。
ハデに盛られた頭に、時間をかけたメイク、短いスカートで、男性客を相手にするキャバ嬢たちの様子を「女のコスプレ」と揶揄しつつも、彼女もまた「指名を取る」というゲームと女性としての魅力を認められているという事実に、ハマりそうになる。
キャバ嬢たちは仕事柄「病む」ことが多いという。
「私はキャバ嬢だけど、いたって普通の女の子です」
という矛盾したメッセージを客に伝え続けなくてはならないからだ。
プロだけどプロじゃない「普通の女の子」を演じなくてはならない。男性客からは、常に見下されるリスクも背負っている。
著者は自分の中にあった男性客と同質の「女性蔑視」と向き合い、ずっと目をそらしてきた「カオとカネの交換システム」に巻き込まれずに生きることは難しいと悟る。
本書からは、資本主義社会で「若い普通の女の子と話す」という行為は、現状において、通常のアルバイトよりも効率よく稼げてしまう事への諦観が伝わってくる。
ただ、最後まで読んで、どうしても気になった個所があった。
著者は、高校時代に彼氏ができて高価なプレゼントを貰うが、代わりに何を差し出したら良いか分からず別れたというエピソードがあり「カラダとカネの交換システム」に戸惑う様子が描かれる。
だがその後、付き合った男性に対して、著者はどのように自分に言い聞かせていたのだろうか?
キャバ嬢をやる際には、彼氏がいたようなので、そのときすでに「カラダとカネ・カオとカネの交換システム」になんらかの答えがあったはずである。
その答えがこの本の中で語られなくてはいけない理由はないが、普通に誰かと付き合うまでの懊悩も描いたほうがよかったんじゃないのか? と思ってしまった。
その辺のことは、これからの著者の活動から読み取っていきたい。
「男女交際」と「援助交際」に差異を見つけられず、苦悶した著者は「カラダとカネの交換システム」を解き明かす為「キャバ嬢」になり社会学を武器にフィールドワークに取り組む。
キャバ嬢となって彼女が体験する事柄を読んでいくと、まるで、TVのドキュメンタリーでも見ているような気持になる。
あまり知らない世界の裏側を覗いているような感覚。
ハデに盛られた頭に、時間をかけたメイク、短いスカートで、男性客を相手にするキャバ嬢たちの様子を「女のコスプレ」と揶揄しつつも、彼女もまた「指名を取る」というゲームと女性としての魅力を認められているという事実に、ハマりそうになる。
キャバ嬢たちは仕事柄「病む」ことが多いという。
「私はキャバ嬢だけど、いたって普通の女の子です」
という矛盾したメッセージを客に伝え続けなくてはならないからだ。
プロだけどプロじゃない「普通の女の子」を演じなくてはならない。男性客からは、常に見下されるリスクも背負っている。
著者は自分の中にあった男性客と同質の「女性蔑視」と向き合い、ずっと目をそらしてきた「カオとカネの交換システム」に巻き込まれずに生きることは難しいと悟る。
本書からは、資本主義社会で「若い普通の女の子と話す」という行為は、現状において、通常のアルバイトよりも効率よく稼げてしまう事への諦観が伝わってくる。
ただ、最後まで読んで、どうしても気になった個所があった。
著者は、高校時代に彼氏ができて高価なプレゼントを貰うが、代わりに何を差し出したら良いか分からず別れたというエピソードがあり「カラダとカネの交換システム」に戸惑う様子が描かれる。
だがその後、付き合った男性に対して、著者はどのように自分に言い聞かせていたのだろうか?
キャバ嬢をやる際には、彼氏がいたようなので、そのときすでに「カラダとカネ・カオとカネの交換システム」になんらかの答えがあったはずである。
その答えがこの本の中で語られなくてはいけない理由はないが、普通に誰かと付き合うまでの懊悩も描いたほうがよかったんじゃないのか? と思ってしまった。
その辺のことは、これからの著者の活動から読み取っていきたい。