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レビュアー「オペラに吠えろ。」のレビュー

銅

「本を読む人のための書体入門」

書体を読むから「読書」なんです。

レビュアー:オペラに吠えろ。 Lord

 「読書」というのは「本を読む」ことなのに、なぜ「読本」ではなく「読書」なのかと不思議に思っていた。でも、本書「本を読む人のための書体入門」を読み、「読書」というのは「書体を読む」から「読書」なのかと納得した。

 わたしたちが本を読むとき、まず目に入るのは「文字」だ。書体というのは、その「文字」の様式のことだ。だから、本を読むということは、書体を読むということでもある。だから「読書」なのだと。

 もっとも、そんなことを言えば、物を知る人からは「中国では『書』というのは『本』という意味で、だから『読書』で『本を読む』なんだよ」と反論されてしまうだろう。だけど、そういう人にこそ、わたしは「本を読む人のための書体入門」を読むことをすすめたい。

 著者は、普通の読者が見過ごしてしまいがちな書体の存在を指摘し、それがいかに読み心地に関わっているかを説いてみせる。たとえば、まるで血文字のような「淡古印」という書体。これはホラー漫画などに使われていて、恐怖をあおるのに効果的だとされている。そういう意味では、確かに「書体を読む」ことも「読書」なのではないかと納得させられてしまうのだ。

 「デザインのノウハウを学ぶための入門書」ではないので、専門用語などは出てこない。ただし、先の「淡古印」をはじめ、「ドラゴンボール」「水曜どうでしょう」などで書体の具体例を示しているので、専門用語がなくともすんなり内容が入ってくる一冊。本を読むことが好きな人にはぜひとも読んでほしい。

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2014.05.20

銅

「サエズリ図書館のワルツさん2」

A Book is a Book is a Book.

レビュアー:オペラに吠えろ。 Lord

 つらいことがあったとき、本を読むといいらしい。

 誰もが経験では知っていることだろうけど、海外の大学の研究でも同様の結果が出たそうだ。わたしは専門家ではないので多くの文字数を割くことは避けるが、読書は大脳を活性化させ、それが結果的にストレス軽減につながり、孤独感を薄めてくれるのだという。

 本書「サエズリ図書館のワルツさん」は、そんな読書の効果を改めて教えてくれるシリーズだ。本書を読んでいる人が癒やされるのはもちろん、物語の中ではさまざまな立場の人が読書、ひいては本を通じて、心の傷や悩みを乗り越えていく姿が描かれる。

 シリーズ2作目となる本書では、本が壊れたり汚れたりしてしまったときに本を直す人=図書修復家の話がメインになっている。図書修復家というのは現実にもある職業だが、本書の舞台になっている「紙の本が希少なものとして扱われている」近未来では、さらにその重要性が増している。紙の本がもう出版されていないため、現存する本が破けてしまったからといって簡単に買い直すわけにはいかないのだ。だから、本を“直す”。

 人の心を癒やしてくれる存在である本は、人の手によって書かれ、また直される。それはつまり、本を介してではあるものの、人が人を癒やすということだろう。「サエズリ図書館のワルツさん」では、本によって人と人とがつながり、そのつながりによって人は安心感を得る。本書を読んだときに心が癒やされる気がするのは、作者が本に注ぐ、優しいまなざしを感じるからということもあるだろう。だがそれ以上に、まだ見ぬ誰かが、いつか自分とつながるかもしれない。そんな予感に満ちた物語だから、という気もする。

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2014.03.27

銀

「僕たちのゲーム史」

この道をずっとゆけば、あの街にたどり着く。

レビュアー:オペラに吠えろ。 Lord

 「スーパーマリオはアクションゲームではなかった」という帯の文句から想像されるような、さしずめ論理のアクロバットとでもいうべき新説を本書に求めて手に取った御仁は、少しばかり肩すかしを食らうかもしれない。著者ならではの新しい視点は一応、本書の中に含まれている。だが、それがメインではない。この本が語るのは、ゲームがーーそしてそのプレイヤーである「僕たち」がどのような歩みを経て、今、ここに立っているのかということだ。

 冒頭に引いた「スーパーマリオ」にまつわる言説を例にしてみよう。著者が「アクションゲーム」ではなかったと言い切れるのは、当時の説明書に「(スーパーマリオは)ファンタスティックアドベンチャーゲーム」だとはっきり書かれているからだ。この本にはそのように、説明書やインタビューからの引用が、作り手たちの言葉がたくさんある。のみならず、発売当時のゲーム雑誌の言葉ーーつまり、当時のプレイヤーの言葉もたっぷり盛り込まれている。著者は、それらを丁寧につなぎ合わせることで、「ゲーム史」という道を整備していくのだ。

 ここに、本書の大きな特徴がある。たとえそれが現代の視点から実質にそぐわないように思えても、著者は決して当時の人々の言葉を否定しない。もちろん、著者が拾い上げた言葉の中には現代のゲーム事情に照らし合わせれば、脱線しているようなものもある。だが著者はそうしたものも全て「ゲーム史」という道の材料に使う。そうすることによって、決して平坦ではなかった「ゲーム史」の実像を明らかにしている。

 道を歩くとき、僕たちは自分の足が踏みしめている地面のほかに、道ばたの草木や空模様、すれ違う人々に目を留めることだろう。そうしたものは、必ずしも全てが目的地にたどり着くために必要なものではない。けれども、歩いている道の空気を伝えてくれるものではある。「ゲーム史」でいうのならば、時代の息吹とでもいうべきものがそこからは確かに感じ取れる。僕たちは今、この本で描かれた「ゲーム史」の終着点たる「現在」に立っている。そんな僕たちがどこからやってきたのか。本書は、それを教えてくれる最良のガイドブックである。

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2014.03.27

銅

「大日本サムライガール」2巻

壮大なロードーノベル。

レビュアー:オペラに吠えろ。 Lord

 学生時代、職場でバイトリーダーを務めていた友人があるときに「すっごくワクワクする仕事なんだよね! ワクワクなワーク!」とか言っていたのをふと思い出した。書き出してみると大しておもしろくないのが残念だ。わたしは、言っている本人が大まじめだったのがおかしくておかしくて、腹を抱えて笑った。あれから数年。E君、あなたはまだバイトリーダーなのでしょうか。それとも社員に昇格したのかな。

 というわけで、本書のテーマはずばり「仕事」である。「労働」とか「勤労」とかいうアレだ。勘違いされがちだが、会社の机で難しそうな顔をしたり、会議をすることだけが「仕事」ではない。本書で描かれる「アイドル」だって立派な職業であり、仕事だ。そのアイドルをサポートする「マネージャー」だって仕事だし、アイドルたちが登場する雑誌のグラビアやテレビ番組だって、誰かの仕事の成果なのである。

 第2巻では、この「仕事」というテーマによりスポットが当てられている。理由は簡単。新キャラクターの朝霧千歳が、とにかく「仕事」がしたくてたまらないアイドルだからだ。ただし「仕事」が好きだから「仕事」をしたいのではなく、彼女が「仕事」をしたいのは「お金」のためである。そこにやりがいなどは一切求めず、労働の対価たる「お金」だけを一途に求める姿は清々しいといえよう。そういえば、このシリーズのヒロインたる神楽陽毬も、アイドルという「仕事」はあくまで政治活動のためだと割り切っていた。その意味で、このシリーズでは「仕事」はいつも何かを達成するための手段として描かれてきたといえるだろう。

 だが冷静に考えれば、本書で主に描かれる「アイドル」というのは、生きるために絶対に必要な仕事ではない。だからこそ、アイドルたちは「アイドル」でいる意味を自分たちで探さなくてはいけない。陽毬にとってはそれが政治活動であり、千歳にとってはお金だったのだろう。だが、「アイドルでいる」ために「アイドル」でいる人がいてもいいとわたしは思う。人はきっとそれを「やりがい」と呼ぶのだろうから。

 まだ陽毬たちは「アイドル」にやりがいを感じる境地にまでは至っていない。だからこそ、彼女たちが「アイドルでいる」ために「アイドル」をしている姿をわたしは見てみたいと思う。冒頭で言及した友人のE君は、まさにそんな人だった。働くことが何よりも好きなようにわたしからは見えた。E君のようになりたいわけでは決してないが、何かの「仕事」に打ち込める人はうらやましい。いや、正確には、何か打ち込めるような「仕事」を見つけられたことがうらやましいのかもしれない。

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2014.03.27


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