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レビュアー「オペラに吠えろ。」のレビュー

銅

「二代目姫決定戦」自己紹介文

物語を語る姫<シエラザード>たち

レビュアー:オペラに吠えろ。 Lord

敵を知り、己を知れば百戦危うからずーーそんな言葉もあるように、自己紹介文というのは読者へのアピールであると同時に、いかに「姫決定戦」における自分のキャラクターをわかっているかという指標になる。

その意味において、各姫候補の自己紹介文を読み返してみると、それぞれ趣向を凝らしているさまがうかがえる。

桑原候補が、これまで文芸部に所属していたことを売りにしている。そこから「文学少女」のキャラクターを前面に押し出しており、お薦めの本に挙げられている「銀河鉄道の夜」のロマンチストぶりも含め、彼女に古き良き「文学少女」の面影を見出す人は少なくないだろう。最後の「一生懸命頑張るので、どうぞよろしくお願い致します♪」という一文からも、「文学少女」としての彼女のけなげさが伝わってくる。

それとは対照的なのが、中村候補。徹頭徹尾「姫」というキャラクターに縛り付けられた紹介文は、そのキャラクターが「文学少女」の従来のイメージとは正反対であることもあり、いっそ潔ささえ感じさせる。反面、ミリタリー好きという彼女の趣味を感じさせないのも、「姫決定戦」というフィールドを考えた彼女の戦略か。だが、最後の一文が「大日本サムライガール」のパロディーになっていることは(どれほどの人が気づくかということはともかく)彼女のこの場に懸ける真摯さを教えてくれるといえるかもしれない。

そして、高井候補はほかの二人とは全く違う方向性を選択した。彼女の自己紹介文における「レビュー」への思いはいささか陳腐であるものの、読者にレビューを書くことの意義、意味を改めて考えさせる。「姫決定戦」は自分のキャラクターを伝えるための場ではなく、あくまでもレビュアーに自分を応援してもらうための場であるーーと、そのことを最も端的に自己紹介文で示しているのだ。

 もちろん、上記に書いたことは彼女たちの自己紹介文からこちらが勝手に感じたものに過ぎない。だが、文章を通して得るイメージが実際に会ったそれよりも劣るとは誰に言えよう? 読書というのは、かぎりなく無限に近い有限の中から選ばれた特定の文字列が読者を刺激し、それに対しての反応/イメージを引き出すことに他ならない。だから、わたしたちが彼女たちの文章から想像する「彼女たち」は、ある意味において最も「彼女たち」でもあり得る。限られた文字数の中で、いかに読者に「姫候補としての自分」のイメージを植え付けるのか。そう考えたとき、自己紹介文はこれ以上ないスリリングな「物語」として、わたしたちの前に現れるのだ。

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2013.06.22

銀

大日本サムライガール

「やりたいことがないといけない」という風潮が気にくわない

レビュアー:オペラに吠えろ。 Lord

「何か、自分の人生でどうしてもやりたいことがある人は手を挙げてー」
 そう尋ねられたとき、何の躊躇いも手を挙げられる人をわたしは尊敬する。社会の荒波を二十数年、ふにゃふにゃむにゃむにゃと生き長らえてきたわたしは常に「やりたいことをやる」のではなく、「やりたくないことをやらない」ようにしてきたからだ。もちろん、日々の暮らしの中での「やりたいこと」はある。今日はラーメンを食べたいとか早く寝たいとか女の子とデートしたいとかエトセトラ。けれども、自分の人生を賭してまでやりたいことがあるかといえば、うーん、残念なことに、ないのである。そんなわたしだからなのか、「大日本サムライガール」の語り手である織葉颯斗には似たものを感じずにはいられない。

 もちろん、颯斗自身はいいとこの坊ちゃんで大企業に就職してそれなのに訳のわからない理由でさっさと辞めて芸能プロダクションを立ち上げて日毬をサポートする上にちゃっかりデートもしてしまうという、まあ、夜道で後ろから襲われても「まあ、仕方ないよね」と思える人物なのだが、そんな彼にも一点だけ共感できることがある。大企業の御曹司である彼の行動の原動力は「父親の言う通りにしたくない」という反抗心なのである。だから、就職時に父親の威光が関係していた職場も辞めてしまうし、それをきっかけに父親の軽蔑する芸能界に足を踏み入れることにもなる。それらしい理由をつけて日毬とちゃっかりデートしやがったあたりは職権濫用といわれても言い返せないだろうが、「やりたいことをやっている」ように見える彼が、実は「父親に従うという『やりたくないこと』をやらないようにするためにはどうしたらいいのか」というのを第一に考えているというのは、本作のポイントにもなっている。

 なぜなら、主人公たる神楽日毬は、颯斗とは正反対に「やりたいこと」を最優先する人間だからだ。ここに颯斗が日毬を気に掛ける理由がある。もちろん彼女が16歳の現役美少女高校生ということも少しは関係しているだろうが、何よりも颯斗は「自分にない『やりたいこと』」を持っている日毬に惹かれるのである。そして、日毬に欠けていた「目標を達成するための手段」を示す。それが「アイドルになる」というのは少々現実離れしているように思えるが、「アイドル」の本来の意味である「偶像・崇拝されるもの」という観点からすれば、最初の段階から颯斗は自分にないものを持っていた日毬を崇拝していたのだから、日毬がトップアイドルになることは颯斗にとって当たり前のことなのである。

 第1巻の段階では日毬がアイドルになっていく過程ばかりがフィーチャーされているが、わたしとしては颯斗の「自分探しの物語」として読むこともオススメしたい。颯斗は日毬を中心とした騒動に巻き込まれてしまったことで、徐々に「自分のやりたいこと」を自覚していくことになる。物語の冒頭で、颯斗は26歳。30代という一つの節目が見えてきている中、自分の「やりたいこと」が見つからずに悩んでいる同世代も多いだろう。颯斗と同世代の人にこの物語をもっと読んでもらうことで「自分探しの物語」の一面にスポットが当たることを願いたい。

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2013.06.22

銅

「マージナル・オペレーション」01

あまりにも日常的な「長いお別れ」

レビュアー:オペラに吠えろ。 Lord

 フィクションで初めて「死」という概念に接したのは「ファイアーエムブレム」というゲームだった。いわゆる「シミュレーション・ロールプレイングゲーム」というジャンルの代表作で、簡単に言うと、戦地で部隊を指揮して勝利に導くというものだ。プレイヤーは言ってみれば指揮官、「マージナル・オペレーション」に登場する架空の役職「オペレーター・オペレーター」に相当するポジションを担当することになる。

 その「ファイヤーエムブレム」(以下、「FE」)で衝撃だったのは、戦闘中に死んだキャラクターは戦闘が終わっても生き返らないという「ロスト」の概念だった。それまでやっていたゲームでは、死んだキャラクターはいつのまにか生き返り、また死んで、また生き返った。だから、あるキャラクターを犠牲にして戦いを勝利に導くなんていう所業にも抵抗感はなかったのだけれど、「FE」では死んだ人は死んだままだ。その当たり前のことに驚いてしまった。でも本当は、それに驚く方が異常なのだ。「マージナル・オペレーション」を読んだときに思い出したのは、そういうわけで「FE」だった。

 思えば、映画にしろ小説にしろ漫画にしろ、登場人物の死には大抵、意味が与えられる。自分を犠牲にして大勢を救うためとか。だから「ガンダム」なんかでキャラクターが犬死にするとそれが逆に話題になったりするのだけど、現実では死に特別な意味が与えられることはそうそうない。いや、死に限ったことではないだろう。昨日まで会っていた人に明日からは二度と会えないなんてことはざらで、だからといってそのことに意味を見いだしたりはしない。別れはあまりにも日常的なことであり、それに慣れてしまっているのだ。

 「マージナル・オペレーション」では、そうした日常的な別れがたくさん出てくる。けれども語り手はその一つ一つに執着することはない。文章も至ってドライであり、読んでいる方はその淡泊さについつい読み飛ばしそうになる。それを「リアル」ということに躊躇いがあるのは、わたしが別れに何かしらの意味や象徴を見いだしがるロマンチストだからかもしれない。だが、そのことに気づかせてくれたというだけで本書を読むだけの価値はあったと思う。そうした発見をもたらしてくれたラスト数ページは、別れを惜しむようにゆっくり読ませてもらった。いやはや、わたしはやはり、いささか感傷的にすぎるのかもしれない。

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2013.06.22


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