敵を知り、己を知れば百戦危うからずーーそんな言葉もあるように、自己紹介文というのは読者へのアピールであると同時に、いかに「姫決定戦」における自分のキャラクターをわかっているかという指標になる。
その意味において、各姫候補の自己紹介文を読み返してみると、それぞれ趣向を凝らしているさまがうかがえる。
桑原候補が、これまで文芸部に所属していたことを売りにしている。そこから「文学少女」のキャラクターを前面に押し出しており、お薦めの本に挙げられている「銀河鉄道の夜」のロマンチストぶりも含め、彼女に古き良き「文学少女」の面影を見出す人は少なくないだろう。最後の「一生懸命頑張るので、どうぞよろしくお願い致します♪」という一文からも、「文学少女」としての彼女のけなげさが伝わってくる。
それとは対照的なのが、中村候補。徹頭徹尾「姫」というキャラクターに縛り付けられた紹介文は、そのキャラクターが「文学少女」の従来のイメージとは正反対であることもあり、いっそ潔ささえ感じさせる。反面、ミリタリー好きという彼女の趣味を感じさせないのも、「姫決定戦」というフィールドを考えた彼女の戦略か。だが、最後の一文が「大日本サムライガール」のパロディーになっていることは(どれほどの人が気づくかということはともかく)彼女のこの場に懸ける真摯さを教えてくれるといえるかもしれない。
そして、高井候補はほかの二人とは全く違う方向性を選択した。彼女の自己紹介文における「レビュー」への思いはいささか陳腐であるものの、読者にレビューを書くことの意義、意味を改めて考えさせる。「姫決定戦」は自分のキャラクターを伝えるための場ではなく、あくまでもレビュアーに自分を応援してもらうための場であるーーと、そのことを最も端的に自己紹介文で示しているのだ。
もちろん、上記に書いたことは彼女たちの自己紹介文からこちらが勝手に感じたものに過ぎない。だが、文章を通して得るイメージが実際に会ったそれよりも劣るとは誰に言えよう? 読書というのは、かぎりなく無限に近い有限の中から選ばれた特定の文字列が読者を刺激し、それに対しての反応/イメージを引き出すことに他ならない。だから、わたしたちが彼女たちの文章から想像する「彼女たち」は、ある意味において最も「彼女たち」でもあり得る。限られた文字数の中で、いかに読者に「姫候補としての自分」のイメージを植え付けるのか。そう考えたとき、自己紹介文はこれ以上ないスリリングな「物語」として、わたしたちの前に現れるのだ。
その意味において、各姫候補の自己紹介文を読み返してみると、それぞれ趣向を凝らしているさまがうかがえる。
桑原候補が、これまで文芸部に所属していたことを売りにしている。そこから「文学少女」のキャラクターを前面に押し出しており、お薦めの本に挙げられている「銀河鉄道の夜」のロマンチストぶりも含め、彼女に古き良き「文学少女」の面影を見出す人は少なくないだろう。最後の「一生懸命頑張るので、どうぞよろしくお願い致します♪」という一文からも、「文学少女」としての彼女のけなげさが伝わってくる。
それとは対照的なのが、中村候補。徹頭徹尾「姫」というキャラクターに縛り付けられた紹介文は、そのキャラクターが「文学少女」の従来のイメージとは正反対であることもあり、いっそ潔ささえ感じさせる。反面、ミリタリー好きという彼女の趣味を感じさせないのも、「姫決定戦」というフィールドを考えた彼女の戦略か。だが、最後の一文が「大日本サムライガール」のパロディーになっていることは(どれほどの人が気づくかということはともかく)彼女のこの場に懸ける真摯さを教えてくれるといえるかもしれない。
そして、高井候補はほかの二人とは全く違う方向性を選択した。彼女の自己紹介文における「レビュー」への思いはいささか陳腐であるものの、読者にレビューを書くことの意義、意味を改めて考えさせる。「姫決定戦」は自分のキャラクターを伝えるための場ではなく、あくまでもレビュアーに自分を応援してもらうための場であるーーと、そのことを最も端的に自己紹介文で示しているのだ。
もちろん、上記に書いたことは彼女たちの自己紹介文からこちらが勝手に感じたものに過ぎない。だが、文章を通して得るイメージが実際に会ったそれよりも劣るとは誰に言えよう? 読書というのは、かぎりなく無限に近い有限の中から選ばれた特定の文字列が読者を刺激し、それに対しての反応/イメージを引き出すことに他ならない。だから、わたしたちが彼女たちの文章から想像する「彼女たち」は、ある意味において最も「彼女たち」でもあり得る。限られた文字数の中で、いかに読者に「姫候補としての自分」のイメージを植え付けるのか。そう考えたとき、自己紹介文はこれ以上ないスリリングな「物語」として、わたしたちの前に現れるのだ。