「僕たちのゲーム史」
この道をずっとゆけば、あの街にたどり着く。
レビュアー:オペラに吠えろ。
「スーパーマリオはアクションゲームではなかった」という帯の文句から想像されるような、さしずめ論理のアクロバットとでもいうべき新説を本書に求めて手に取った御仁は、少しばかり肩すかしを食らうかもしれない。著者ならではの新しい視点は一応、本書の中に含まれている。だが、それがメインではない。この本が語るのは、ゲームがーーそしてそのプレイヤーである「僕たち」がどのような歩みを経て、今、ここに立っているのかということだ。
冒頭に引いた「スーパーマリオ」にまつわる言説を例にしてみよう。著者が「アクションゲーム」ではなかったと言い切れるのは、当時の説明書に「(スーパーマリオは)ファンタスティックアドベンチャーゲーム」だとはっきり書かれているからだ。この本にはそのように、説明書やインタビューからの引用が、作り手たちの言葉がたくさんある。のみならず、発売当時のゲーム雑誌の言葉ーーつまり、当時のプレイヤーの言葉もたっぷり盛り込まれている。著者は、それらを丁寧につなぎ合わせることで、「ゲーム史」という道を整備していくのだ。
ここに、本書の大きな特徴がある。たとえそれが現代の視点から実質にそぐわないように思えても、著者は決して当時の人々の言葉を否定しない。もちろん、著者が拾い上げた言葉の中には現代のゲーム事情に照らし合わせれば、脱線しているようなものもある。だが著者はそうしたものも全て「ゲーム史」という道の材料に使う。そうすることによって、決して平坦ではなかった「ゲーム史」の実像を明らかにしている。
道を歩くとき、僕たちは自分の足が踏みしめている地面のほかに、道ばたの草木や空模様、すれ違う人々に目を留めることだろう。そうしたものは、必ずしも全てが目的地にたどり着くために必要なものではない。けれども、歩いている道の空気を伝えてくれるものではある。「ゲーム史」でいうのならば、時代の息吹とでもいうべきものがそこからは確かに感じ取れる。僕たちは今、この本で描かれた「ゲーム史」の終着点たる「現在」に立っている。そんな僕たちがどこからやってきたのか。本書は、それを教えてくれる最良のガイドブックである。
冒頭に引いた「スーパーマリオ」にまつわる言説を例にしてみよう。著者が「アクションゲーム」ではなかったと言い切れるのは、当時の説明書に「(スーパーマリオは)ファンタスティックアドベンチャーゲーム」だとはっきり書かれているからだ。この本にはそのように、説明書やインタビューからの引用が、作り手たちの言葉がたくさんある。のみならず、発売当時のゲーム雑誌の言葉ーーつまり、当時のプレイヤーの言葉もたっぷり盛り込まれている。著者は、それらを丁寧につなぎ合わせることで、「ゲーム史」という道を整備していくのだ。
ここに、本書の大きな特徴がある。たとえそれが現代の視点から実質にそぐわないように思えても、著者は決して当時の人々の言葉を否定しない。もちろん、著者が拾い上げた言葉の中には現代のゲーム事情に照らし合わせれば、脱線しているようなものもある。だが著者はそうしたものも全て「ゲーム史」という道の材料に使う。そうすることによって、決して平坦ではなかった「ゲーム史」の実像を明らかにしている。
道を歩くとき、僕たちは自分の足が踏みしめている地面のほかに、道ばたの草木や空模様、すれ違う人々に目を留めることだろう。そうしたものは、必ずしも全てが目的地にたどり着くために必要なものではない。けれども、歩いている道の空気を伝えてくれるものではある。「ゲーム史」でいうのならば、時代の息吹とでもいうべきものがそこからは確かに感じ取れる。僕たちは今、この本で描かれた「ゲーム史」の終着点たる「現在」に立っている。そんな僕たちがどこからやってきたのか。本書は、それを教えてくれる最良のガイドブックである。