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「金」のレビュー

金

エレGY

僕にかかっていた魔法は解けてない

レビュアー: tyoro

最初に書いておくけど、このレビューに共感できる人は少ないかもしれない。


この小説は、悩める自称フリーウェアゲーム作家が出会ったファンの少女との恋愛を描いた私小説風の小説。
完全なノンフィクションではないようだけど、7割くらいは実話 とのこと。


さて、何故共感できないか、という点を説明する為にちょっとだけ自分の事を書く。

僕はアンディーメンテというフリーウェアを制作・配布してるサイト、そしてそのゲームの作者であるじすさんのファンだった。

10年以上前、まだ僕が高校生だった頃に『ミサ』というゲームをプレイしてからアンディーメンテの世界の虜になって、既作を全て遊び新作が出る度に楽しんでいた。
サイトで販売されてるCDも何度か購入した事もあって、今でもiPodにいれて持ち歩いてる。

そう僕も『ジスカルドの魔法』にかかったファンの一人だった。

もし「作者が天才だ」とファンに思わせる事ができれば、どんな未完成な物を発表しても、ファンにはそれが名作に見えるだろう。――(中略)―― これが「ジスカルドの魔法」だ。
(CHAPTER1 9『ジスカルドの魔法』から)



この小説を最初に目にしたのは、3年も前に発刊された『パンドラ Vol.1 SIDE-B』という人を殴り殺せそうなボリュームの雑誌だった。
けど、その時は魔法が解けるのが怖くて冒頭を読んだ所でページをめくる手を止めてしまった。
ファンでありながら読めない、読まないっていうのは「それはほんとうにファンなのか?」と言われてしまえば閉口するしかないのだけど、
でも、そういうファン心理が存在するって事は、多分この小説を読んでくれれば(主人公との立場は逆になるが)理解してもらえると思う。



作中で描かれるのはファンによって神格化された天才ジスカルドではなく、作りあげてしまったキャラクターとのギャップに悩む、しがない(失礼><)フリーゲーム作家の泉和良。
その実態は僕みたいなファンの目からじゃなくても、けっこう悲惨なものだと思う。

そんな主人公が出会った"ジスカルド"のファンである少女 エレGY。
光に満ちた彼女に惹かれながらも、彼女にかかった『ジスカルドの魔法』が解けるのを恐れる主人公。

でもエレGYは、彼女はジスカルドというキャラクターも全てをひっくるめて泉和良という人間に向きあっていた。


この名作を手元に置きながら、3年間読む事が出来なかった自分を情けなく思う……。
(文庫化してくれてありがとう!星海社!!!

とても切ない、心に響く恋愛小説なので、是非沢山の人に読んでほしい。
そしてアンディーメンテのゲームにも触れてほしいな、と思う。


読み終わった後、かつての思いが蘇えってきた。
じすさんに憧れフリーゲーム作家を目指していた頃。
いつしかアーケードのゲーム制作に携わって、最終的に別業界のエンジニアになってしまった今。
でも、この本を読んで失ってしまった情熱を取り戻し、そして何より『勇気』が貰えた。

やりたいと思えるなら今でも遅くない。

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2011.05.09

金

非実在推理少女あ~や

可能性が生みだす「多重性」、「多重性」が生みだす可能性

レビュアー:大和 Novice

 参った。『非実在推理少女あ~や』が面白い。だからレビューしたい。でもレビューするのが難しい。書く事が思いつかないから、ではない。色んな切り口で語れすぎるからだ。例えば抱腹絶倒のギャグ漫画だとも言えるし、真摯にミステリーというジャンルについて言及する漫画とも言えるし、ミステリーというジャンルを吹き飛ばす痛快な漫画だとも言えるし、パロディがふんだんに盛り込まれたアイロニカルな漫画だとも言えるし、物語の本質に迫る漫画だとも言えるし、倫理について問う漫画だとも言えるし、あるいは同タッグの小説『コンバージョン・ブルー』と比べることもできるだろうし……難しい。僕は今、事件と対峙して頭を抱える孫和人みたいに、『あ~や』という作品が持つ多重性の前で佇んでいる。そこで僕は、『あ~や』が持つその「多重性」自体を、作品の魅力として語ってみることにする。

 『あ~や』の内容を簡単に紹介しておこう。論理的説明のつかない状況=事件を作り出し世界の崩壊を目論む『崩壊者(ディザスタ)』と、事件に論理的説明がつくよう現実を改竄する『推理者(ディテクタ)』。主人公・孫和人は『推理者』の改竄に影響を受けない――改竄前の記憶を維持できる『観測者(ディレクタ)』であったがために、『推理者』あ~やと共に『崩壊者』と戦うことになる、という漫画だ。

 この作品が持つ面白さの一つは、あ~やが繰り出す無茶苦茶な推理にある。あ~やは『恣意的ミスト』という能力によって現実を自由に改竄することができる。しかしあ~やには倫理や常識が無く、その能力は自由すぎるが故に、しばしばキャラクター達は多大な迷惑を被る。例えば清楚可憐な少女が筋肉ムキムキの残虐殺人鬼にされてしまったり、コンダラが自我を持って人類滅亡を企てたり、メイド喫茶の人々が未来に漂流してしまったりする。それは名探偵の推理というより、ほとんどギャグやボケの類だ。だから主人公である孫和人は、あ~やの推理に対してツッコミを入れ、より良い推理を求め頭を捻る。

 あ~やの能力は圧倒的に自由だ。『崩壊者』が固定した事象に対して理が通っていれば、どんな形にでも現実を改竄することができる。理が通ってさえいれば何事も無かったようにもできるし、人類を滅亡させることもできる。そうやって事件解決の可能性が無数に重なり合ってるみたいに、この作品には多重性が与えられている。

 例えば、あ~やを見てみよう。『非実在推理少女あ~や』というタイトルには、少なくとも三つの意味が重ねられている。一つは文字通り、恣意的ミストによる「非実在推理」をする少女である、という作品内容の紹介。一つは『非実在青少年』をもじった皮肉。一つは名探偵という存在そのものが非実在=フィクション上でしか成立しえない存在である、という指摘だ。

 一つ目は割愛させていただこう。二つ目に関しては大雑把な説明に留まらせていただくが、『東京都青少年健全育成条例』に書かれていた条文が恣意的な解釈によっては表現規制や言論弾圧になりかねない危険なものだとしてネット上で話題になり、その中の『非実在青少年』という言葉が特に注目を集めた。あ~やという「美少女キャラ」はまさしく『非実在青少年』にあたる。『非実在推理少女』という特徴的なフレーズは明らかにこの問題に対する皮肉だ。(加えて言えば、都条例問題自体も『あ~や』という作品のように恣意的な解釈によってコロコロと姿を変える存在であるように思う)

 三つ目はどういうことか。探偵は本来ならば、究極的には事件の真相を真相だと知ることはできない。どれだけ確からしい証拠を見つけたとしても、それが「犯人の用意した偽の証拠」である可能性を完全にぬぐい去ることはできない。どれだけ真実らしい推理に辿りついたとしても、それが真実である保証は無い。しかしミステリー作品においてはしばしば、名探偵の語った推理が当然のごとく真実として扱われる。こういった時、「名探偵」にはフィクション特有のメタ的な特権が与えられている。例えば「作者からの挑戦状」という形で、これから名探偵が語る推理は真実ですよ、ということを作者が保証するわけだ。(ただし多くの作品はそれすらなく、暗黙の了解として名探偵の推理は真実として扱われる)そういった、メタ的な特権に依拠せざるをえない「名探偵」という存在は、フィクションでしか成立しえない存在なのだ。だから超常的な能力で無理やり事件に理を通してしまうあ~やの在り方は、名探偵として全く間違っていない。

 他のキャラクターにも目を向けてみよう。例えば主人公・孫和人は『観測者(ディレクタ)』という能力を持っているが、ここに一つの多重性がある。量子力学から来ているであろう「観測者」という言葉は、本来ならばobserverが正しい。だがここではディレクタ=directorというルビが振られている。すなわち、孫和人には『観測者』=視点人物、ワトソン役としての立ち位置と、ディレクタ=編集者、世界を恣意的に編集する存在という立ち位置が同時に与えられている。あ~やという名探偵=常軌を逸した存在に対し、孫和人はワトソン役=読者に近い視点を持った存在だが、あ~やは世界の常識をよく知らないが故に推理の妥当性を孫和人に判断させるほかなく、したがって世界を恣意的に編集する特権は孫和人に与えられているのだ。だから僕らは『観測者(ディレクタ)』という言葉から、ワトソン役としての孫和人をイメージできるし、世界を編集する孫和人もイメージできる。(あるいはここから、「観測」するというプロセスには不可避的に「恣意的な編集」が介入してしまうため両者は不可分なのだ、というメッセージにも読めるだろう)

 何故この作品は多重性を纏うのだろうか。それは作品のタイトルにあ~や=「言葉の綾」、多義性を意味する言葉を冠したことからも分かるように、この作品が「解釈すること」にスポットを当てているからだ。言い換えれば、無数にある可能性の中から一つの現実を「選び出す」ということを、この作品は語っている。

 ここにノベルゲーム的な想像力の影響を見出すことは難しくない。錦メガネ氏は美少女ゲーム≒ノベルゲームのシナリオライターだ。何かを選ぶことで何かを切り捨ててしまう、という問題意識は(特にマルチエンディングを持つ)ノベルゲームにおいて幾度となく題材にされてきた。例えば、ある一つのルートでは一人のヒロインが救われるが、他のルートで救われるはずだったヒロインは死んでしまう、といった具合だ。ここでは主人公≒プレイヤーの選択一つに生殺与奪が握られてしまう。中には主人公にプレイヤーと同等のメタ視点を与えることで、誰かの運命が自らの選択によって決まることを主人公に自覚させる≒ノベルゲームの形式に自己言及する作品も多く、孫和人にもそんな作品達と同様のメタ視点が与えられている。

 こうして孫和人のメタ視点に注目した時、『あ~や』という作品は孫和人の倫理性を問う方向に向かうだろう――と考えることは自然なのだけど、ここで僕はもう一つの方向性を提示したい。それは、この作品をミステリーとして見た時、倫理を問われるべきは「名探偵」であるあ~やではないか、ということだ。

 名探偵とは根本的に非倫理的な存在だ。何故なら名探偵が事件を解決するには、事件が起きなければならないからだ。言い換えれば、事件が起こらなければ名探偵は名探偵でいることができないのだ。ここで『推理者』と『崩壊者』の関係を見てみよう。『推理者』は一見、『崩壊者』の企みを阻止するヒーローのように描かれているが、しかし『推理者』は『崩壊者』の起こす事件そのものを未然に防ぐことはできない。これは従来のミステリーでも揶揄されてきたことだ。名探偵という存在は多くの場合、事件が起こることを防ぐことはできず、大量の被害者を発生させてから、出揃った証拠でもって推理を披露する。『推理者』もまた、『崩壊者』が起こす事件なくしては『推理者』たることができない。非倫理的な犯行に依拠せざるをえない「名探偵」という存在は、犯人同様に非倫理的な存在なのだ。

 しかし今のところ、あ~やは倫理的な責任から逃れている。それはあ~やが徹底的に条理から逸脱した存在として描かれているからだ。例えばあ~やの眼を見てみよう。他のキャラクターと比べ、あ~やの眼は明らかに異なる存在として描き分けられている。そもそもが別世界から来た存在だし、初登場シーンや『恣意的ミスト』による「推理」を見ても、あ~やはこの世の条理に全く縛られていない。

 だが、あ~やの推理によって引き起こされてしまう危機や問題の「責任そのもの」は消えていない。その責任は、推理の妥当性を判断する孫和人に転嫁されている。ここであ~やを、孫和人に特権を与える舞台装置的な存在であると見なすことは可能だけど、やはりあ~やは、非実在的な存在でありながらも、主体的な人格を持った美少女キャラクターなのだ。だから、あ~や自身が倫理性に目覚めていく未来も一つの可能性としてありうるのではないか。例えば第二話の冒頭では、やや的外れながらも、あ~やがこの世界の常識を学ぶため努力している様子が見られる。この世界において、孫和人と同等のメタ視点を持つ存在は(『崩壊者』を除けば)あ~やしかいない。新たな『観測者』が現れない限り、孫和人と「責任」を分かち合える存在はあ~やしかいないのだ。だから僕は、あ~やの成長や倫理性の自覚を、孫和人に与えられた暴力性を解除する一つの可能性として提示したい。

 そんな感じで色々と期待できる作品だっただけに、作者が失踪して作品が打ち切られてしまったのは残念でならない。まだ作者がいて漫画が続いていたらどんな作品になっていただろう? しかし『あ~や』という作品は、そんな風に僕らが想像して楽しむ無限の可能性を肯定してくれるはずだ! ありがとうあ~や! ありがとう孫和人!

         *         *         *

「……ってコラァーッ! 何も解決してねえじゃねえか!」
 孫和人はそれまで覗いていた巨大なレンズ――『懐疑的ステッキ』を地面から抜くと、全力で床に叩きつけた。
「どこか不満かね、少年?」
「不満かね、じゃねえ! 殺す気か!」
「まぁ落ちつきたまえよ。今のは軽いジョークのようなものさ」
 そう言って、あ~やは口にくわえていたパイプ――『恣意的ミスト』を手に取り、逆さにしてポンと叩いた。途端、周囲の空間が激しく揺らぎ、ひゅおおああっ、と煙のようなものが少女の足元に集められていくと――やがて黒い塊になり、塵となって消えた。
「ったく、勘弁してくれよ……」
「しかしなぁ、どうするつもりかね。『推理者』としては、ここにある不可能状況を放置するわけにはいかないのだが」
 あ~やはチラリと、横で広がっている惨状へと目を向けた。
「わかってんだよ、そんなこと」
 孫和人は、目を向けなかった。

 昼休みのことだ。森下あめりの姿を探して校内をぶらついていた孫和人は、不意にもよおして、三階の男子トイレへと立ち寄った。用を足していると、きい、と音を立てて、背後で一つの個室が開いた。何の気なしに振り向いて――体を硬直させた。
 そこには、首と胴が切り離された、血まみれの死体が倒れていた。
 あまりの事態に、孫和人は声すらあげることができなかった。
 ただ死体に驚いたからではない。
 床に転がっていた、苦痛に顔を歪めた首。
 それは間違いなく、孫和人の首であった。
 死体の手には『非実在推理少女あ~や』というロゴの書かれた漫画本が握られていた。
 あ~やの到着を待つまでもなく、それが『崩壊者』の攻撃であることを、孫和人は理解した。

 二人は推理によって変わった未来を『懐疑的ステッキ』で覗いていた。あ~やは手始めに「孫和人は未来で漫画家になりタイムスリップして現代に来たのだ!」と推理したが、これは採用されなかった。孫和人が殺害される未来を固定することになってしまうからだ。
 あ~やによれば、固定された事象は二つあった。「三回の男子トイレに孫和人の死体が転がっている」という事と、「『非実在推理少女あ~や』という漫画が存在する」という事だ。
 前者は無論、ここに生きた孫和人がいるのだから矛盾している。後者は無論、彼らは漫画のキャラクターではなく現実にそこにいるのだし、『観測者』以外は恣意的ミストによって記憶がアップデートされてしまうのだから、そんな漫画を書ける人物がいるはずがない。
 崩壊者やあ~やが起こす不条理にも、いい加減慣れてきた――そう思っていた孫和人だったが、さすがに自分の死体には参ったらしい。物憂げな表情で、一つ、大きな溜息をついた。
「どうした少年。いつもの調子が出ていないようだが」
「こんなモン見せられて調子なんぞ出るか。……なぁ、どうして崩壊者ってのは、わざわざ世界なんて崩壊させたがるんだ?」
「さてね、連中の考えることは分からんよ。確かなのは、それを望む奴らがいるってことさ。……まぁ、こんな悪趣味な攻撃をしてくるくらいだ。崩壊者は案外、近くで我々を見ているのかもしれんな」
「なんだそりゃ、もう勘弁してくれ……そうだ、思いついたぞ! 『死体は俺のクローンだった!』これなら助かるだろ!」
「ふむ。試してみる価値はあるが、恐らく現代の科学水準が飛躍的に向上するぞ。それでも構わないのであれば……」
「――いや、やめとこう。やっぱ気が乗らねえ」
 一度は目を輝かせ立ち上がった孫和人だったが、頭を抱えて再びしゃがみこむと、苛立たしげに頭を掻き毟った。推理を取り消したのは、世界を大きく変えてしまうから、という理由もあったが、それより犠牲になるクローンに対して気が引けたのだった。クローンだからって、勝手に生みだしといて、勝手に身代わりで殺してしまっていいのだろうか? 孫和人の中で、答えは出そうになかった。
「だが着眼点は悪くないぞ、少年」
 孫和人の肩に、あ~やはそっと触れた。
「つまりはこういうことだ。この死体はキミの死体だが、キミが死体になったものではない。そしてこの漫画は我々の事が描かれた漫画だが、我々を見て描かれた漫画ではない」
「……アイデアがあんのか?」
「うむ、任せてくれたまえ!」
 そう言うと、あ~やはコートの裾を翻し、『恣意的ミスト』を大きく吐き出して、世界を相手取るように力強く言い放った。

「――推理推参、理を推して参る!」

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2011.03.01


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