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「金」のレビュー

金

古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義』

「文体=文章のコード」を意識して、小説を読解するということ

レビュアー:USB農民 Adept

 文体とはなにか?
 この問いは難問だ。
 いくら文章を読んでも書いても、この問いの答えを、自分なりの言葉に落とし込むことはできなかった。
 その難問に、古賀さんは簡潔な答えを出していた。
 曰く、「文体とはリズムである」と。

 リズム。
 リズムとは一貫した論理性から作り出される。破綻した論理は、読みにくく伝わりにくいリズムとなって文書に表れる。それが本書の重要な主張だ。
 わかりやすいなあ、と思ったし、納得できる「答え」だった。
 文体とはリズムであり、論理である。
 この言葉に出会ってから、文章を書くときの意識が少し変わった。以前よりも自分の文章に自信もついた。
 が、それだけでない。

 ここからが本題。
 本書を読むことで、他人の文章を読むときの意識も変わった。
 特に、小説に対する意識は劇的に変化した。今まで、読んでいてわけのわからなかった作品が、先の言葉を意識することで、途端に読めるようになったのだ。
 たとえば、円城塔や高橋源一郎といった前衛的作風を持つ作家の作品が、以前よりもずっとクリアに読めるようになった。

「文章には、一定の知識や技術、ルールが求められる。音楽でいうところのリズムやメロディ、コード進行などに該当する部分である」

 これは本書でさらりと語られている部分だが、とても大事なことを語っている。普段、私たちが文章を読むとき、あまりこういったことは意識しない。意識する必要がないから、というよりも、文章の技術やルールは可視化が難しいからだろう。音楽の場合、リズムやメロディ、コードは楽譜などの形で表現できるが、文章では、せいぜいが動詞や助動詞といった文法レベルでしか表現できない。
 ここで言う「文章のコード」は、作品全体を支える「論理性」と言い換えていい。つまり「文章のコード=論理=リズム=文体」だ。
 文体を可視化して取り出すことは難しいから、私たちは、その存在を忘れたまま文章を読んでしまう。その結果、ありふれたコードを持たない小説作品(前衛的な作品など)に出会ったとき、どう読めばいいのかわからずに途方にくれてしまう。

 話が抽象的になりすぎないように、具体的な言葉を並べて言い換えてみると、次のようになる。

 日本の伝統的な自然主義文学(厳密な定義は置いておいて、ここでは、現実のリアリティをそのまま描写している作品、程度の意味とする)に慣れ親しんだ読者が、「文章のコード」を意識したことがないとすれば、「文学的作品とは、現実のリアリティに従って書かれるものだ」という価値観が自然に生まれるだろう。しかし、それは「現実のリアリティ」という「文章のコード」が使われているにすぎない。
 そのような読者は、「現実のリアリティ」以外のコードを用いて書かれた作品を読むのにとても苦労するだろう。
 たとえば、アニメやマンガの「お約束」というコードを知らない読者には、ライトノベルは単に現実と乖離したつまらない物語に見えるかもしれない。
 あるいは、円城塔のデビュー作『Self-Reference ENGINE』の「床下から大量のフロイトが出てきた」という一文は、どう頑張っても「現実のリアリティ」というコードでは読解できない。『Self-Reference ENGINE』は「時系列が意味を持たなくなった世界での論理」という特殊なコードで書かれていて、それを意識せずに読んでも、物語は読み解けないし、作品に対する正当な評価も出てこない。
 円城塔の作風は、「数学的論理」といった言葉で表現されることが多い。これは、自然主義的なコードから離れた作品を書き続ける円城塔の作風をよく表している。インタビューなどでは「(自分の作風のような)作品がもっとあってもいいと思う」と語っている通り、勿論、作者は自分の作品のコードが自然主義的でないことに対して自覚的だ。
 このような考え方が、上手く自分の中で整理できたのは、「文体とはリズムである」という言葉に出会ってからだ。漠然と、円城塔の作品は、他の小説と違うことはわかっていたけれど、果たして具体的に何が違うのか、以前は言葉にできていなかった。
 こういう考えを身につけてからは、以前よりも円城塔の作品が読みやすくなったし、より理解できるようにもなった。
 高橋源一郎の『恋する原発』という小説も、東日本大震災の記憶を「現実のリアリティ」ではなく、「ドキュメンタリーAVの制作」という、「この作家以外にはきっと誰も使わないだろうな……」と思わせる特殊なコードで書かれた前衛的な作品だ。高橋源一郎の意図は、現実をありのままに書くことでは掬い取れない情動や言葉を描くことにある。この読解もやはり、「文章のコード」という考え方なしには導き出せなかった。
 
 より丁寧に、より正確に文章を書く技術を知ることは、読む技術の向上にもつながっている。
 念のため付け加えておくけれど、「現実のリアリティ」で書かれた小説が、特殊なコードで書かれた小説に劣っていると言いたいわけではない。私が言いたいこと、実感したことは、「文章のコード=論理=リズム=文体」を意識することは、小説読解の可能性の幅を大いに広げてくれるということだ。

 今の私は、小説を読むときに「この小説はどういうコードで書かれているのか?」ということを意識するようにしている。この認識がずれていると、大抵の場合、何が書かれているのかよくわからなくなる。逆に、あえて作品の持つコードとは別のコードで読み返すことで、その作品の意図とは全く別の可能性を引き出すこともできる。
「文体とはリズムである」という言葉に出会ってから、以前よりも小説を読むのが楽しくなったのは、言うまでもない。

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2012.06.08

金

青春離婚

夫婦漫才

レビュアー:ヨシマル Novice

栄子:どうも~栄子で~す。
ヨシマル:ヨシマルです。今日もよろしくおねがいします。
栄子:ほんま今回も漫才頑張っていこかな思うてます。
ヨシマル:とうとう漫才言ってしまったよ!
栄子:いや、最近花粉症とか流行ってるやん。あたしはまだ大丈夫やねんけど、今年こそなってしまうんやないかって心配で心配で夜も寝れへんから、目は充血してるし。どうしたら防げるやろかっていろんな人に聞いて回ってるからかしらへんけど、噂になってしもうてるみたいで、くしゃみが止まらんねん。
ヨシマル:それもう花粉症かかってるから! ていうか漫才続けるの!? そろそろこのパターンも飽きてきたよ!
栄子:日本が誇る定形の美しさ。
ヨシマル:いいように解釈するな! まったく、そろそろ本題入ろうか?
栄子:はいはい。ということで今回は漫才漫画『青春離婚』でお送りします。
ヨシマル:漫才漫画?
栄子:ゴロだけで考えてみた。
ヨシマル:…………。
栄子:あらすじは内気な女子高生の郁美は同じクラスで同じ苗字の灯馬と出会う。二人は周りから「夫婦」と呼ばれるようになって――恋人未満の佐古野「夫婦」の青春物語。って感じやな。
ヨシマル:そうだね。登場人物は主に佐古野郁美と佐古野灯馬の二人。二人の会話を中心に進んでいくから漫才っていう例えもあながち見当はずれでもないのかな。
栄子:灯馬がボケでいくみんがツッコミやな。
ヨシマル:いくみんて……。
栄子:いくみんはいくみんやん。かわいいよいくみん。や、灯馬も捨てがたいんやけど。
ヨシマル:……もういくみんでいいや。まあ、でも漫才に例える理由として、形が決まってるっていうのはあるかもね。
栄子:形?
ヨシマル:うん。本作中で描かれている人物はいくみんと灯馬の二人の場合がほとんどなんだけど、二人が同時に描かれているコマでは必ずと言っていいほどいくみんが右側で灯馬が左側に描かれているんだ。
栄子:ほんまに?
ヨシマル:今のところはね。
栄子:…………。本当だ。
ヨシマル:立ち位置と言ってもいいかな。実際は座ってるときが多いけど。漫才でもボケとツッコミの位置は固定されていることが多いからね。
栄子:基本はボケが左で、ツッコミが右ってのが多いやんな。
ヨシマル:漫才でははツッコミの利き手の問題とかあるからなんだけど、本作でもいくみんが右側になっているのには理由があると思うんだ。
栄子:いくみんは根っからのツッコミやったんや!
ヨシマル:違っ――くもないんだよな。
栄子:え!?
ヨシマル:うーん、まあ、縦書きって右から読むよね。だから、一コマ中でも目線は自然と右から見ていくことになる。んで、やっぱり注目させたい人や喋ってる人を目につきやすい右側に描くことが多くなるんだ。
栄子:だから右側なんや。
ヨシマル:二人が主人公とは言っても語り部はいくみんの方だからね。二人が同時に登場してるときはいくみんのセリフが多くなるから自然と右側が定位置になる。
栄子:なるほどやなあ。…………あ、でもたまに灯馬の方が右側になってるとこもあるやん。
ヨシマル:そうなんだ。そのコマを見て何か気付くことはない?
栄子:んー。…………。あ!
ヨシマル:おっ。
栄子:いくみんがかわいい!
ヨシマル:おい! や、だから否定できないけど、そうじゃなくて。さっきも言ったけど――
栄子:あ! 灯馬が喋ってる!
ヨシマル:そ、そうなんだよ。もちろん灯馬が左側にいても喋ってることはあるんだけど。さっきも言ったけど右側って注目される位置なんだよね。だからいくみんが右側っていう定位置をあえて崩してまで灯馬を右にするってことは、それだけ灯馬に注目して欲しい、灯馬のセリフに注目して欲しいっていう現れなんだ。
栄子:確かに灯馬が右側にきてるときには「夫婦はデートしません」とか決めゼリフ多めやんな。
ヨシマル:うん。実はその後繰り返し使われる印象的なセリフも右側の人物が喋ってるんだよね。
栄子:天丼の場面ってことやな。確かにボケの被せは重要やし。
ヨシマル:天丼言うな! まあ、あとは冒頭の離婚シーンも灯馬が右なんだよね。これにはどんな意味があるのか、これから描かれるだろう灯馬の右側シーンと合わせて注目していきたいと思ったよ。
栄子:立ち位置も意味があるんやなあ。あ、気付いたんやけどそれって、一コマが横長で固定されてるからっていうのがあるんやない?
ヨシマル:確かに横長だと二人を並べて描くときに横並びになりやすいね。だから位置によって注目する人が分かりやすくなってるところはあるのかもね。小さいコマだったら、一コマに一人っていうのが多くなりそうだし。コマの大きさが変わらないっていうのも本作の大きな特徴の一つだしね。
栄子:Webページで読むことを考えてのことやろけど、新鮮な感じやな。
ヨシマル:実はヨシマルは新鮮というよりも、昔のマンガを思い出したよ。
栄子:昔のマンガ?
ヨシマル:例えば現在のマンガの原点の一つでもある手塚治虫の『新宝島』も本作のような横長で固定したコマを縦に並べている構図をとってるんだ。更に古くは、戦前の『のらくろ』なんかも似たようなコマ割りをしてる。ヨシマルも当時生きていた訳じゃないからそれがどの程度主流な表現なのかは分からないけれどね。
栄子:70年くらい前や……。
ヨシマル:もちろん昔と今じゃマンガが掲載される状況も大きく異なるけど、『新宝島』も『のらくろ』も現代に繋がるマンガの創成期に描かれた作品だ。
栄子:今現在もWebマンガという媒体の創成期って言えるんやないかってことやな。
ヨシマル:だね。だからWebマンガっていう新しい媒体のための表現なのに、それが数十年前と似たような表現になるっていうのは感慨深いものがあるよね。
栄子:でも、今のマンガはいろんなコマ割りが使われてるんねやな。
ヨシマル:紙のマンガがそうやって進化して今に至るように、Webマンガもきっとその形にあった進化をしていくんだと思う。これは本作『青春離婚』でということではないけれど、これからのWebマンガの表現がどう変わっていくのか。どう紙のマンガと道を違えていくのかっていうことを見てみたくなったよ。
栄子:新しく見えて実は原点に戻ってたんやなあ。
ヨシマル:そういうことだね。
栄子:しっかし――。
ヨシマル:ん?
栄子:『のらくろ』とか『新宝島』とかヨシマル何歳や!? どんだけじいさんやねん!
ヨシマル:まだ二十代だよ!

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2012.04.02

金

ベッドタイムストーリー

無音の声、ほしのこえ

レビュアー:6rin Novice

 小説『ベッドタイムストーリー』は朗読を収めたCDとセットで書籍になっている。フルカラーの本はイラストが彩る。
 このCDの朗読に僕は温もりを感じる。懐かしい記憶を呼び起こされたからだろうか。
 幼い頃、母が布団のなかの僕に寄り添い、子守唄を歌ったり、絵本を読み聞かせてくれたことを漠然とだが覚えている。幼い僕は寝る時に真っ暗になるのが怖かった。木製の雨戸が外の光を遮る部屋に、優しい母がオレンジ色の小さな明かりを点けてくれた。思い出すと温かい気持ちになる。この記憶は今後、明瞭になることはないだろうが、決して消えることもないだろう。記憶と温もりが僕にこびりついているのだ。CDの朗読に温もりが感じられたのは、朗読の読み聞かせという形式が、僕のなかの普段は記憶の古層に眠るその温もりを揺り起こしたからだと思う。
 朗読される物語は青年と大学の一年後輩である女の子、椎名アカリの間にある温もりを描く。その温もりは、僕の読み聞かせの記憶が持つ消えない温もりと同様に強固だ。
 青年は難病を患い、あと何日生きられるか分からない。青年は落日した人生の、明日が来ないかもしれない夜を病室のベッドで過ごす。アカリは青年が不安で眠れないとき、安心して欲しくて、青年の寝るベッドの傍らで宇宙に関するほら話を語る。
 ……青年の命が助かる儚い希望にすがりながら。
 流星群が見える夜、青年は健気なアカリに感謝の気持ちを伝える。

《「………………………………先輩」

  …………………………………………ん?

 「………………………………………………きれいですね」

  ……………………………………………………ああ。

 「……………………………………………………先輩」

  ……………………………………………………ん?

 「…………………………………………いえ………………」

  ………………………………………椎名。

 「………………………………はい………………?」

  ……………………………………ありがとう。

 「………………………………………いえ………………」》

 二人の会話は上記のように小説に書かれていて、朗読においてもそれぞれの言葉と言葉の間に沈黙「……」が挟まれる。
 この場面では二人とも、助かる望みが僅かであることがよく分かっている。だから、溢れるほどの切なさを噛み締め、声を絞りだすのに時間を要する。その結果生まれるこれらの「……」が痛々しい。ここでの沈黙は物語中のどの言葉よりも二人の間に愛があることを雄弁に語っている。

《彼女の声を、どこまでも持っていく。
 どこまでも、どこまでも……。
 夜のむこうまで……。
 彼女の声を……。》

 物語の冒頭にある青年のこの言葉通り、どんなに遠くてもアカリの声は青年に届く。なぜなら、二人が愛し合っていて、青年がアカリの想いを感じているからだ。青年は〈眠れない青年がかわいそうだ〉とか〈青年が好きだ〉などのアカリの想いを知っていて、それらを声として感じる。
 想いは口にしなければ物理的には声にならない。逆に言えば、想いは口にしなくても無音の声を発するということだ。口にしない想いは、青年がアカリの想いを知っている場合のように、相手が想いを知っているという条件付きでしか相手に届かない。だが届く場合は無音ゆえに、どんなにノイズが大きくても、どんなに遠く離れていても、相手に聞こえる。無音の声、つまり沈黙は音量が最も小さく、だからこそ最も強い声なのだ。
 想いは懐かれている間、ずっと無音の声を発する。青年の死の瀬戸際で寄り添う二人の深い想いは喧嘩しているときでさえも、それぞれの胸の奥で星の瞬きのように無音の声を発していたに違いない。二人の間にある温もりは強固な沈黙としてある。
 前述した感謝を述べる場面での二人の愛の現れである沈黙「……」には、そんな強固な沈黙としてある二人の愛が剥きだしになった生々しい感触がある。だからこそ言葉を詰まらせる二人の姿が痛々しいのだ。この場面における「……」は見事に愛を表現している。
 とりわけ素晴らしいのは、この表現が朗読というメディアを活かしている点である。小説の「……」は長く書かれていても、読者が読むスピードを調節できるゆえに短く読み飛ばされかねない。しかし朗読の場合は違う。スピードは朗読者しだいであり、聴き手は強制的に沈黙をその長さのままにしっかりと体験させられる。さらに、小説には音が無いが、朗読は音だけのメディアなので、沈黙の無音が前後の音に挟まれ際立つ。件の場面では音楽すら流れない。完全な無音の沈黙が聴き手を引き込む。
 物語の作者である乙一は映画の脚本や監督の経験を持つ。音声を扱うメディアである映画での経験があったからこそ、朗読により魅力的になる表現を物語に盛り込めたのかもしれない。
 
 物語を聴き終えた後とても切なくなった。レビューを書いている今も、作品が巧みに表現した二人の無音の声が余韻として残っている。切ない物語を書いた乙一。品のある可愛らしいイラストを描いた漫画家の釣巻和。歯切れのいい爽やかな声が耳に心地よい、朗読を担当した声優の坂本真綾。それぞれの仕事を一つの書籍にまとめた星海社。僕はこの書籍に「いいものを作りたい」という彼らの無音の声を聞いた。だから、僕は彼らに言いたい。
 素晴らしい作品を届けてくれた皆様へ。ありがとうございました。

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2011.12.20

金

Fate/zero

文庫版に込める価値

レビュアー:牛島 Adept

私にとって「Fate/Zero」は特別な物語です。だからどうあっても、最初に同人版を読んだ感動は越えられないでしょう。

原典である「Fate/staynight」は私が思春期のまっただ中で触れた娯楽作品の最高傑作の一つでした。過酷で凄惨、なのに美しい物語。魅力的なキャラクターたち。中でも主人公と対極をなす存在・言峰綺礼という「悪人」としての在り方と、彼の散っていく姿には心打たれるものがありました。その言峰の若き日が語られている。彼に何かを感じた人ならば、それだけで無視できない作品でしょう。そして第四次聖杯戦争を全力で駆け巡ったウェイバーとライダー。彼らから受け取ったものの価値は計り知れません。

私にとって「Fate/Zero」はかけ値無しに人生に影響を与えるほどの作品であり、それこそ作中のライダーのように紙が変色するまで読みました。

だから、白状します。星海社文庫の「Fate/Zero」には、感動することをまったく期待してませんでした。あの感動に何かを加える余地などなく、文庫版を買ったのも「Fate」と星海社のファンだから――そんな風に思っていました。

しかし。その上で、星海社が仕掛けた文庫版ならではの試みは、文庫を揃えるだけの価値があったと思うのです。

前置きが長くなりましたが、さて。文庫版「Fate/zero」の魅力を語っちゃいましょう。

まずは目につく表紙から。セイバーさんです。全巻セイバーさんです。同人版では四冊だったのに六冊に分けられた「Fate/zero」――その表紙が全部セイバーさんです。イラストレーターである武内崇氏の描くセイバーさんがいっぱいです。恥ずかしながら全巻セイバーさんが表紙というこの仕掛けに気づいたのは三巻が出たあたりでした。けどこれ、実はかなり重要な試みだと思うのです。まず、物語におけるセイバーさんの活躍が表紙イラストに現れているという点。アイリスフィールとの理想的な主従関係、アインツベルンの森での剣舞、エクスカリバーの発動、ライダーとのカーチェイス……などなど、物語のセイバーさんの活躍を切り取ると、六冊に分けるのがちょうどいいのです。「Fate/zero」はセイバーさんの挫折の物語でもあり、その面が強調されています。なにが言いたいのかというと、セイバーさんがとても愛されているということです。

さて、六冊に分けたことには他にも意味があります。星海社文庫の特徴のひとつ、長い折り返しです。このイラストを載せることもできる素敵なスペースには、聖杯戦争を戦う他のサーヴァントが描かれています。既読の方には今さらですが、聖杯戦争を戦うのは七柱のサーヴァントです。表紙にいるセイバーさんを除くと、その数六柱。つまり各巻に綺麗に収まる数になっています。この六分冊、なかなかどうして粋な計らいです。

次にフォントについて。星海社が刊行物のフォントにこだわっているのはもはや周知の事実かと思いますが、それはこの「Fate/zero」にも現れています。あくまで同人版との比較ですが、版面の組みとフォントが変わったことで、読むときの圧迫感が減った印象を受けました。

最後に、物語の本文で、セイバーの「あのシーン」を除いて一切のイラストを載せなかったことについて。これに関しては賛否両論あるだろうと思います。が、しかし。文章だけにすることで深まる楽しみというものは確実にあります。まして虚淵先生の作品を文章だけで楽しめる機会というのはそうそうあるものではありません。ですから私はこの試みを支持します。

さて。こうして見てみると、やはり私はこの文庫版が好きなのでしょう。既にある物語を再び編集するという行為に意味を込める。物語を読んだ作用ではありませんが、そこには確かな感動がありました。

素敵な文庫版を、ありがとう。

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2011.08.17


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