文体とはなにか?
この問いは難問だ。
いくら文章を読んでも書いても、この問いの答えを、自分なりの言葉に落とし込むことはできなかった。
その難問に、古賀さんは簡潔な答えを出していた。
曰く、「文体とはリズムである」と。
リズム。
リズムとは一貫した論理性から作り出される。破綻した論理は、読みにくく伝わりにくいリズムとなって文書に表れる。それが本書の重要な主張だ。
わかりやすいなあ、と思ったし、納得できる「答え」だった。
文体とはリズムであり、論理である。
この言葉に出会ってから、文章を書くときの意識が少し変わった。以前よりも自分の文章に自信もついた。
が、それだけでない。
ここからが本題。
本書を読むことで、他人の文章を読むときの意識も変わった。
特に、小説に対する意識は劇的に変化した。今まで、読んでいてわけのわからなかった作品が、先の言葉を意識することで、途端に読めるようになったのだ。
たとえば、円城塔や高橋源一郎といった前衛的作風を持つ作家の作品が、以前よりもずっとクリアに読めるようになった。
「文章には、一定の知識や技術、ルールが求められる。音楽でいうところのリズムやメロディ、コード進行などに該当する部分である」
これは本書でさらりと語られている部分だが、とても大事なことを語っている。普段、私たちが文章を読むとき、あまりこういったことは意識しない。意識する必要がないから、というよりも、文章の技術やルールは可視化が難しいからだろう。音楽の場合、リズムやメロディ、コードは楽譜などの形で表現できるが、文章では、せいぜいが動詞や助動詞といった文法レベルでしか表現できない。
ここで言う「文章のコード」は、作品全体を支える「論理性」と言い換えていい。つまり「文章のコード=論理=リズム=文体」だ。
文体を可視化して取り出すことは難しいから、私たちは、その存在を忘れたまま文章を読んでしまう。その結果、ありふれたコードを持たない小説作品(前衛的な作品など)に出会ったとき、どう読めばいいのかわからずに途方にくれてしまう。
話が抽象的になりすぎないように、具体的な言葉を並べて言い換えてみると、次のようになる。
日本の伝統的な自然主義文学(厳密な定義は置いておいて、ここでは、現実のリアリティをそのまま描写している作品、程度の意味とする)に慣れ親しんだ読者が、「文章のコード」を意識したことがないとすれば、「文学的作品とは、現実のリアリティに従って書かれるものだ」という価値観が自然に生まれるだろう。しかし、それは「現実のリアリティ」という「文章のコード」が使われているにすぎない。
そのような読者は、「現実のリアリティ」以外のコードを用いて書かれた作品を読むのにとても苦労するだろう。
たとえば、アニメやマンガの「お約束」というコードを知らない読者には、ライトノベルは単に現実と乖離したつまらない物語に見えるかもしれない。
あるいは、円城塔のデビュー作『Self-Reference ENGINE』の「床下から大量のフロイトが出てきた」という一文は、どう頑張っても「現実のリアリティ」というコードでは読解できない。『Self-Reference ENGINE』は「時系列が意味を持たなくなった世界での論理」という特殊なコードで書かれていて、それを意識せずに読んでも、物語は読み解けないし、作品に対する正当な評価も出てこない。
円城塔の作風は、「数学的論理」といった言葉で表現されることが多い。これは、自然主義的なコードから離れた作品を書き続ける円城塔の作風をよく表している。インタビューなどでは「(自分の作風のような)作品がもっとあってもいいと思う」と語っている通り、勿論、作者は自分の作品のコードが自然主義的でないことに対して自覚的だ。
このような考え方が、上手く自分の中で整理できたのは、「文体とはリズムである」という言葉に出会ってからだ。漠然と、円城塔の作品は、他の小説と違うことはわかっていたけれど、果たして具体的に何が違うのか、以前は言葉にできていなかった。
こういう考えを身につけてからは、以前よりも円城塔の作品が読みやすくなったし、より理解できるようにもなった。
高橋源一郎の『恋する原発』という小説も、東日本大震災の記憶を「現実のリアリティ」ではなく、「ドキュメンタリーAVの制作」という、「この作家以外にはきっと誰も使わないだろうな……」と思わせる特殊なコードで書かれた前衛的な作品だ。高橋源一郎の意図は、現実をありのままに書くことでは掬い取れない情動や言葉を描くことにある。この読解もやはり、「文章のコード」という考え方なしには導き出せなかった。
より丁寧に、より正確に文章を書く技術を知ることは、読む技術の向上にもつながっている。
念のため付け加えておくけれど、「現実のリアリティ」で書かれた小説が、特殊なコードで書かれた小説に劣っていると言いたいわけではない。私が言いたいこと、実感したことは、「文章のコード=論理=リズム=文体」を意識することは、小説読解の可能性の幅を大いに広げてくれるということだ。
今の私は、小説を読むときに「この小説はどういうコードで書かれているのか?」ということを意識するようにしている。この認識がずれていると、大抵の場合、何が書かれているのかよくわからなくなる。逆に、あえて作品の持つコードとは別のコードで読み返すことで、その作品の意図とは全く別の可能性を引き出すこともできる。
「文体とはリズムである」という言葉に出会ってから、以前よりも小説を読むのが楽しくなったのは、言うまでもない。
ジセダイで『20歳の自分に受けさせたい文章講義』を読む
この問いは難問だ。
いくら文章を読んでも書いても、この問いの答えを、自分なりの言葉に落とし込むことはできなかった。
その難問に、古賀さんは簡潔な答えを出していた。
曰く、「文体とはリズムである」と。
リズム。
リズムとは一貫した論理性から作り出される。破綻した論理は、読みにくく伝わりにくいリズムとなって文書に表れる。それが本書の重要な主張だ。
わかりやすいなあ、と思ったし、納得できる「答え」だった。
文体とはリズムであり、論理である。
この言葉に出会ってから、文章を書くときの意識が少し変わった。以前よりも自分の文章に自信もついた。
が、それだけでない。
ここからが本題。
本書を読むことで、他人の文章を読むときの意識も変わった。
特に、小説に対する意識は劇的に変化した。今まで、読んでいてわけのわからなかった作品が、先の言葉を意識することで、途端に読めるようになったのだ。
たとえば、円城塔や高橋源一郎といった前衛的作風を持つ作家の作品が、以前よりもずっとクリアに読めるようになった。
「文章には、一定の知識や技術、ルールが求められる。音楽でいうところのリズムやメロディ、コード進行などに該当する部分である」
これは本書でさらりと語られている部分だが、とても大事なことを語っている。普段、私たちが文章を読むとき、あまりこういったことは意識しない。意識する必要がないから、というよりも、文章の技術やルールは可視化が難しいからだろう。音楽の場合、リズムやメロディ、コードは楽譜などの形で表現できるが、文章では、せいぜいが動詞や助動詞といった文法レベルでしか表現できない。
ここで言う「文章のコード」は、作品全体を支える「論理性」と言い換えていい。つまり「文章のコード=論理=リズム=文体」だ。
文体を可視化して取り出すことは難しいから、私たちは、その存在を忘れたまま文章を読んでしまう。その結果、ありふれたコードを持たない小説作品(前衛的な作品など)に出会ったとき、どう読めばいいのかわからずに途方にくれてしまう。
話が抽象的になりすぎないように、具体的な言葉を並べて言い換えてみると、次のようになる。
日本の伝統的な自然主義文学(厳密な定義は置いておいて、ここでは、現実のリアリティをそのまま描写している作品、程度の意味とする)に慣れ親しんだ読者が、「文章のコード」を意識したことがないとすれば、「文学的作品とは、現実のリアリティに従って書かれるものだ」という価値観が自然に生まれるだろう。しかし、それは「現実のリアリティ」という「文章のコード」が使われているにすぎない。
そのような読者は、「現実のリアリティ」以外のコードを用いて書かれた作品を読むのにとても苦労するだろう。
たとえば、アニメやマンガの「お約束」というコードを知らない読者には、ライトノベルは単に現実と乖離したつまらない物語に見えるかもしれない。
あるいは、円城塔のデビュー作『Self-Reference ENGINE』の「床下から大量のフロイトが出てきた」という一文は、どう頑張っても「現実のリアリティ」というコードでは読解できない。『Self-Reference ENGINE』は「時系列が意味を持たなくなった世界での論理」という特殊なコードで書かれていて、それを意識せずに読んでも、物語は読み解けないし、作品に対する正当な評価も出てこない。
円城塔の作風は、「数学的論理」といった言葉で表現されることが多い。これは、自然主義的なコードから離れた作品を書き続ける円城塔の作風をよく表している。インタビューなどでは「(自分の作風のような)作品がもっとあってもいいと思う」と語っている通り、勿論、作者は自分の作品のコードが自然主義的でないことに対して自覚的だ。
このような考え方が、上手く自分の中で整理できたのは、「文体とはリズムである」という言葉に出会ってからだ。漠然と、円城塔の作品は、他の小説と違うことはわかっていたけれど、果たして具体的に何が違うのか、以前は言葉にできていなかった。
こういう考えを身につけてからは、以前よりも円城塔の作品が読みやすくなったし、より理解できるようにもなった。
高橋源一郎の『恋する原発』という小説も、東日本大震災の記憶を「現実のリアリティ」ではなく、「ドキュメンタリーAVの制作」という、「この作家以外にはきっと誰も使わないだろうな……」と思わせる特殊なコードで書かれた前衛的な作品だ。高橋源一郎の意図は、現実をありのままに書くことでは掬い取れない情動や言葉を描くことにある。この読解もやはり、「文章のコード」という考え方なしには導き出せなかった。
より丁寧に、より正確に文章を書く技術を知ることは、読む技術の向上にもつながっている。
念のため付け加えておくけれど、「現実のリアリティ」で書かれた小説が、特殊なコードで書かれた小説に劣っていると言いたいわけではない。私が言いたいこと、実感したことは、「文章のコード=論理=リズム=文体」を意識することは、小説読解の可能性の幅を大いに広げてくれるということだ。
今の私は、小説を読むときに「この小説はどういうコードで書かれているのか?」ということを意識するようにしている。この認識がずれていると、大抵の場合、何が書かれているのかよくわからなくなる。逆に、あえて作品の持つコードとは別のコードで読み返すことで、その作品の意図とは全く別の可能性を引き出すこともできる。
「文体とはリズムである」という言葉に出会ってから、以前よりも小説を読むのが楽しくなったのは、言うまでもない。
ジセダイで『20歳の自分に受けさせたい文章講義』を読む