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「金」のレビュー

金

『サエズリ図書館のワルツさん』 紅玉いづき

小さなものになりたい

レビュアー:鳩羽 Warrior

 わたしは図書館には縁のない子供だった。
 家の近くに図書館はなく、学校の図書室は決められた時間以外には鍵がかけられていた。田舎であれば大きな書店もなく、いろんなジャンルの本が視野を埋め尽くすという経験をしたのは、本好きの割には遅かったような気がする。
 制限の多い状況で、それでも読みたいときどうするか。ひとと貸し借りをした。
 友人にライトノベルを借り、近所のひとに児童文学の全集を借り、同級生のお父さんやお母さんからSFや大河小説を借りたこともあった。もはや誰の所有なのか分からないくらいに教室内を回っている本もあれば、自分の本がすっかりくたびれて返ってきたこともあった。
 何人もの人間の手のひらに置かれ、読みとられ、熱心に繰られたものが、まだ原形を留めて変わらずに残っていることがわたしには不思議だった。初めて「存在」について考えたのは、思春期らしい自己のことではなく、本についてだったと思う。

 『サエズリ図書館のワルツさん』の舞台となる世界は、大きな戦争があり、紙やあらゆる資源が貴重となっている。本は高値で取り引きされる嗜好品であり、ほとんどのひとは端末でデータとして文章を読む。本、というと、好事家や学者のためのものであり、紙媒体で読むということは、よっぽどの変わり者か無駄に資源を使う金持ち趣味の持ち主、ということになる。
 ネットワークに頼りきっているのに電力の供給は不安定、汚染物質だらけの都市、長生きできるか分からない子供たち、不安と不穏に慣れたひとびとの心の表層は、それでも凪のように静かだ。あきらめなのか許容なのか、それぞれが分相応の範囲、持てる能力で、生きていかなければならないという意識が、そこにはある。
 不便だが、それほど酷くはない。食べることができ、いつ殺されるか分からないという状況ではないのだから、言うほど最低最悪でもない。
 けれど、それが息苦しくない、泣きわめきたいくらいつらいわけじゃない、ということにはならないのだ。

 作中で読書について表現される言葉が「遠くまで飛べる」だ。
 登場人物のひとり、娯楽の読書だけでなく、図書館のレファレンスサービスもよく利用するコトウさんは言う。

 DBで調べたら、調べたことしか、わからないだろう?
 わたしはねぇ、ワルツさん、
 知らないことを、知りたいんだよ。

 狭い人間関係のなかで、好みでなくてもそれしかないという理由で読んだ本。もううっすらとしか覚えていない、たくさん積み上げてきた本。
 思えば、それらの本は、わたしを遠くへ飛ばしてくれた。理解などできなくても、窓を開けてくれ、道を造ってくれた。決して膨大な選択肢のなかから選んだわけではないけれど、彼らはわたしのなかに「知らないこと」を、たくさんの果実をつけた木が無造作に身をゆするように落としていった。
 必要な部分だけを拾い読む読書法もあるし、調べものをするときに一冊まるまる読み通すこともない。けれど「本」というひとつのコンテンツを与えられたとき、最初から最後までつい目を通してしまう、関係ないところまで読んでしまう、あるいは呼ばれたかのように別のページ、本棚の前にいるのなら別の本、に手が伸びる。
 終末に近づいているように見え、悪い方向にしか向いていかないように思える社会、それらの圧迫感は凄まじいが、それらよりも必ず死ぬと決まっている人間の方がずっと小さい。人間のその小ささに気づいたとき、未知の、空白の部分が、ようやく知性としてわたしたちを自由にする。
 「知らないことを知る」こと。「知らないことが在る」ことを知ること。それが「遠くへ飛ぶ」ことなのだろう。
だからワルツさんは、どんな貴重な本でも原則貸出をすることにし、コトウさんは高価で前時代的な「本」を娘にあげたいと思うのだ。

 紙媒体以外の電子書籍、タブレットやコンピュータのディスプレイで文章を読むことが増えてきた現在のわたしたちにとって、ここで描かれる世界は遠く隔てられているわけではない。どちらも一長一短があるが、電子書籍の便利さには紙の本はたちうちできないだろうし、新たなメディアができた分だけ読書人口は増加するかもしれない。それは単純に喜ばしいことだ。
 データは魂だと、ワルツさんはいう。登場人物たちは、本によって、少しずつぬくめられ養分を得て、変質していく。それがデータだけでは起こり得なかった反応だというのが、読んでいくうちに分かる。
 わたしは貸し借りのすえにすっかりぼろぼろになった本を思い出し、紙の本も、書店も、古本屋も、図書館も、なくならない世界/社会であってほしいと、こころから思った。左手から右手へ頁を繰っているうちに、なにか大きなものを操っているような、自分の時間とは別の砂時計を傾けているような、そんな気分を愉しみつづけたいという我儘のために。

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2013.05.29

金

エレGY

心の傷にも絆創膏を。

レビュアー:飛龍とまと Adept

 本当の俺を見てくれ!
 俺にはこんな力があるんだ。こんな才能があるんだ。誰か見てくれ、認めてくれ、必要としてくれ、褒めてくれ。口に出さなくとも、望む。理想の自己実現を頭で想像し、いつか手が届くに違いないと笑顔になっていた若き頃。夢を胸一杯に抱えていた自分。だが世の中には自分なんかよりも才能に溢れた人間が山ほど転がっていて、ああ俺は井の中の蛙だったのかと絶望し。もしくは必死に夢だけを追い続けて周りが見えなくなっていつの間にか一人になって……行き場のなくなった感情の高ぶりは自分の中で勝手に暴れ回り、そうして知らぬ間に自らの心に深い傷を付けていく。
 ――俺が居ても居なくても変わらない、こんな世の中なんてくそくらえだ――
 自己中心的な自分だけの気持ちは、思い通りにならないことのストレスに助長されいつかとんでもない爆発を引き起こす。

 主人公のフリーウェアゲーム作家・泉和良も、例に漏れずふざけた世の中に対し自らの感情を爆発させた。
 自らの運営するサイトの日記に女の子のパンツ画像を募集する熱烈な文章を書き綴ったのだ。それは一見くだらない、人々に嗤われて一蹴されるような内容で――しかしそれが全てを変えることとなろうとは。
 彼の元にたった一人、自分のパンツ姿の写真を添付しメールを送信した少女がいたのだ。彼女こそが他でもないエレGYである。
 この少女、普通ではない。送信したメールの内容がまず酷く奇妙で、その文末には「へんじがこなかったらじさつします」とまで書かれている。一体彼女は何者なのか? 泉和良は異常さを感じさせつつもどこか抑えがたい魅力を持ったエレGYに惹かれてゆく。そうして二人は出逢いを果たし、数々の出来事を経て交流を深めていき、前を向いて歩いて行く。これは一種の青春小説でもあり、恋愛小説でもあり、泉和良という人間の内面をひたすらにさらけ出した小説でもあるのだ。
 主人公の葛藤や痛みが切実に表現された文章には共感を得ると同時、痛さや辛さもしっかり伝わってくる。同時に、ほんのちょっぴり希望や勇気も見いだせる内容で、だからこそ、この二人を応援したくなるのだ。

 この二人は実のところよく似ているのかもしれない。
 二人共「世界なんてくそくらえ」と思っている。だからこそ彼はその想いを胸にゲームを創って、彼女はそのゲームの背景に隠れた想いを無意識に読み取ってファンになった。出逢いは同じモノを持つ同士必然だったようにさえ思える。
 ただ二人の異なってしまったところは、一人は感情を爆発させた結果日記に醜態をさらすことで一段落をつけたが、もう一人は自らを傷つける行為に走ってしまったことだ。彼女は心の傷に収まらず、身体すらも傷つけるに至ってしまった。
 物語の中で、エレGYの手首の傷に泉和良が絆創膏を貼るシーンがある。するとエレGYはぼろぼろと泣き出してしまうのだ。私は数多い場面の中で一番この場面が印象に残っている。どうして彼女は泣いたのか。それは、もちろん自分の憧れの相手に優しくしてもらえたことが嬉しかったのもあるだろう。でも本当はそれだけでなくて、彼が彼女の傷の深い深いところまで、痛いくらいに分かっているのが、彼の浮かべた笑顔の裏から、触れた手のぬくもりから伝わったから、涙を流したのではないだろうか。
 無意識のうちに、彼の分まで。

 皆に褒め称えられることを求めるよりも、たった一人に絆創膏を貼って貰える方が、ずっと素敵なことかもしれない。

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2013.05.29

金

iKILL

Q:生き続ける方法って、何?

レビュアー:飛龍とまと Adept

 A:自分を『殺す』こと。

 ここで言う『殺す』は、何も命を絶つことに限らない。

 我々の日々は常に順風満帆とは行かない。
 喜びだけに埋め尽くされる人生などそうはない。
 何もかもが美しいとは限らない。
 光があれば、影があるように。

 人は生き抜くために無意識に自分を殺している。
 昨日までの自分。
 友人と喧嘩した自分。上司に怒られた自分。落ち込んだ自分。
 負の感情に支配された自分そのものを、無意識のうちに殺す。それが出来る者は、混沌に支配された世界を悠然と踏み歩くことが出来る。ただそれが満足に出来ない者もいる。
 負に押しつぶされそうになると、人間は選択に迫られる。
 一つは、本当の意味で自分を『殺す』こと。
 そしてもう一つは、まず<何らかの方法>で自分を負に陥れた相手を『殺す』。のちに殺意を持ってしまった自分を、『殺す』こと。この方法でうっかり『自分殺し』に失敗した場合、どうなるかを想像するのは難くない。消えない殺意がどこへ転嫁するのか、それを知る者は死に損ねた自分だけだ。

 物語の主人公、小田切明は前述の<何らかの方法>を請け負う、一言で説明するならば殺し屋だ。
 一見決して安いとは言えない、しかし人間の命にしては安過ぎる512万円という金額を支払うことによって、彼はどんな方法を使ってでも『殺す』ことをやってのける。
 最も、ここで言う『殺す』とは本当の意味であり、決して先述した命を絶たない『殺す』ではないが。
 おそらく、彼は他人の『自分殺し』の手伝いをしているのだろう。依頼は耐えることなく訪れる。自分を殺し続けることに堪え切れなくなった人間達が、彼に金を払って助けを求める。殺意を持つ自分を、自分自身で殺すことが出来ないんだ。どうか手伝ってくれ、と。
 ……生きる為には、どうしても I kill が必要ということらしい。
 それはどこか矛盾しているようで、どうにも皮肉めいて聞こえるが。

 また、彼の華麗とも呼べる殺害風景が、この物語には余すところなく書かれている。
 残酷な描写も多々ある一方で、痛快さに似た何かさえ感じてしまうそれは優しさにすら思えてしまう。
「急ぐかい、それとも、ゆっくりやるかい」
 もう、私はこの血なまぐさい物語に取り憑かれてしまっているに違いない。

 自分を殺すだって? 訳の分からないことを言うな、悪いけれども何を言っているのかさっぱり分からない、そう思う方は是非この物語を一読して頂きたい。私の綴った言葉の意味を理解することが出来るかもしれない。
 赤く彩られた空間に魅入られてしまえば最後、間違いなくあなたは自分を『殺す』ことになるだろう。

 本来目を背けるはずであった、惨たらしくも美しい世界を見つめてしまったという自分を――

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2013.04.30

金

ブレイク君コア

ブレイクコア的精神

レビュアー:もるちこ

 この作品の登場人物の多くは、あまりに行動が突発的で、暴力的すぎる。要するにリアリティがまったくないように見えるのだ。そこに拒否反応を示す人も多いだろう。しかしこの支離滅裂な登場人物たちの行動にこそ、この作品の本質が現れているように思う。
 登場人物の突発的な行動については、作品のタイトルにもあるように、ブレイクコアという音楽が強く関係している。ブレイクコアがどういう音楽であるかは、作品内でヒロインが言及している。

「サンプリング元が分からないほどに細かく素材を裁断して複雑に再構築した奇形の音楽…(中略)…音楽として成立しているかも危うい、聞く人によっては雑音以外の何物でもない…(中略)…ラジオのノイズ、工事現場のボーリング音、都会の喧噪、感度を上げたマイクが拾う割れた風の音。そういう日常の奏でる音も私にとってはブレイクコアだ」(『ブレイク君コア』第一回の390段あたりから)

 この小説に出てくる登場人物で、支離滅裂な行動パターンを持つキャラクターは、みんなブレイクコアを聞いている。それはブレイクコア的精神(ぼくの造語です)の持ち主だからだ。上の引用から、ブレイクコア的精神を持つ人間の特徴として二つ挙げられるだろう。一つ目は、強い破壊衝動を持つこと(「細かく素材を裁断」)。二つ目は、日常生活にある、あらゆるものがブレイクコアになること。
 この作品の中で起こる唐突で支離滅裂な出来事は、すべて破壊衝動=暴力衝動≒性衝動が原因になっている。ブレイクコア的精神の持ち主は衝動的であるために、感情が短絡的に行動へと結びつきやすい。
 身体感覚が鋭いのも彼らの特徴だ。この作品において、身体感覚に関係する描写は、リズムが強調された文体で表現される。それは、ブレイクコア的精神が、感覚すらも音楽的なものに変換してしまうからだ。だから唐突にセックスしたり、暴力行動にでたりするのは、身体感覚の刺激を常に求め、感情の抑えがきかない彼らにとって、とても切実な問題でもあるのだ。そのために彼らは社会と迎合することができず、厭世的になってしまう。

 さて、この小説には精神と身体の入れ替わりという設定がある。ぼくが思うに、これには二通りの読み方がある。一つは恋愛もののライトノベル的な読み方。そして二つ目は文学的な(という言葉が正しいのかわかりませんが)読み方だ。
 一つ目の読み方は、まあそのまま読めば楽しめるだろう。身体と魂の問題について、恋愛感情を鍵に主人公が考えていく。これは共感しやすいところだろう。
 二つ目の読み方は、さっきも言った「ブレイクコア的精神」に着目する必要がある。そしてこの小説には、ブレイクコア的精神だけでなく、ブレイクコア的身体も存在しているのだ。
 ヒロインははじめブレイクコア的精神の持ち主だったが、身体はそうではなかった(彼女は「柔和な顔つき」の美少女である)。ところが精神と身体の入れ替わりによって、彼女の精神はブレイクコア的身体を手に入れることになる。するとどうなるか? 入れ替わり直後のヒロインの行動はあまりに唐突なものだったが、同時にきわめて象徴的なものなのだ。
 このような文学性を持ちつつも、この小説は飽くまでライトノベル的な視点で語られる。この二重性こそ著者の真の狙いであろう。
 読んでみれば分かるが、この小説はライトノベル的な設定や文体を使いながら、普通のライトノベルとはまったく違ったものとなっている。どこが違うのかは、簡単に指摘することができよう。それはキャラクターである。
 ライトノベルはツンデレやヤンデレといった、カテゴリー化されたキャラクターを使う。あるいはアニメ的にデフォルメ化されたキャラクターだ。しかしこの小説のキャラクターはカテゴリー化できない。それは原初的な感情の塊として現れるからだ。それでいて明晰な自己分析能力を持っているから、キャラクター小説には成り切れない切実さを持っているのだ。
 そこでやはり舞城王太郎からの影響が指摘できるだろう。舞城王太郎の小説も、支離滅裂行動パターンを取りながらも明晰な一人称で語られる場合が多い。
 この小説の終盤で「究極のブレイクコア」が出てくるのだが、これは舞城王太郎の『山ん中の獅見朋成雄』に出てくる「究極の食」を意識したものと思われる。「究極のブレイクコア」が果たしてどういったものだったか、ぜひ読んでほしいと思うが、一見過激さを演出するための残酷描写が連ねられているように見えるが、実際は非常に切実な問題をはらんでいるのだ。

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2013.04.16


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