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レビュー講座

『ひぐらしのなく頃に 第一話 鬼隠し編(上)』

会話が描写する

レビュアー:さやわか

ちっす! さやわかです。

さてさて、今週の木曜日、つまり10日には第一回のレビュアー騎士団(第一場)の更新が行われるわけですが、その前にまたまた僕が書いたレビューを掲載します。一応、今のところ(少なくとも最初のうちは)ここに掲載する僕自身のレビューは「金」が取れるようなもの、つまり「愛情」「論理」「発展性」の三つを正しく備えた文章を例として載せようとしています。これってすごいプレッシャーだけど、それは三つを備えた文章を書くのが難しいからではありません。その三つを条件としながらどんなバリエーションでレビューが書けるのか? という問いに、まず直面するからなんです。

なんだかややこしい話になってきたけど……ま、そのへんはのちのち説明する機会が必ず来ますので(予告!)、今はレビューに集中しよう。

というわけで今日は先日発売された星海社文庫の『ひぐらしのなく頃に 第一話 鬼隠し編(上)』をサクッと読み終わり、うん面白い! と思ったことがあったのでレビューを書こう。明日には『鬼隠し編(下)』が発売されるので、これを書き終わったら明日には続きを読めちゃうな。

さて、面白いと思ったことっていうのは「キャラ」の話だ。フィクションの世界、つまり小説や映画、アニメ、テレビドラマ、漫画などの領域では、多数の読者や観客から共感を得るためには、まずは「キャラを立てる」ことが重要だみたいによく言われる。これはけっこう難しい問題で、この話だけで本が一冊書けてしまうほどなんだけど、ごくごく簡単に言うとそれは要するに「その人の特徴を強く打ち出す」っていうことだ。ゲームのキャラクターデザイナーなんかがよく言う話として「キャラの絵をシルエットにしても誰だか区別できるように描く」というものがあって、たとえばそういう努力は「キャラを立てる」というの一例だと言っていいだろう。

しかし、小説の場合はどうなのか。漫画やアニメ、ゲーム、映画やテレビドラマみたいな「画のある」作品の場合は、性格や口調だけでなく、見た目によってキャラを個性的にするということができるけど、小説は文字だけだから、そううまくはいかない。これは挿絵などによって、どんな容姿のキャラなのかわかるようにしてもあまり関係がない。なぜなら実際に本文を読む時に、いつもキャラの発言ごとに絵が付いているわけじゃないからだ。

したがって小説というジャンルは、ほかのジャンルに比べてより面倒なこと、つまり文字だけで「キャラを立てる」という課題に取り組むことになった。とりわけエンタテインメントの作家は、この部分にものすごく心をくだいて、他のジャンルに負けないような強力なキャラの立った物語を作ろうとしてきたのだ。僕が『鬼隠し編(上)』を読んだ時に、そのことを思わずにいられなかった。そこにはこういう会話があった。

「あぁ…。何を買いに行かされるかわからないからな…。魅音のことだ、負けたら『痔の薬』やら『Hなゴム風船』やら、まともでないものを買いに行かされるに違いない!!」
「は、はぅ! Hなゴム風船って何だろ、何だろ!?」
「風船なんか、文房具と一緒に福田屋さんで売ってますわよ??」
「みー☆ 沙都子もその内、必要になりますのですよ、にぱ~。」
「くっくっくっく! さぁて何を買いに行かされるんだかねぇ~! せいぜい負けないようにみんな気合を入れて行きなッ!! 始めるよー!!」

ここには5人の人物が登場しているが、作者の竜騎士07はセリフだけで5人をすべて描き分けている。たぶん、この本を読んだことがない人でも、「5人いる」ということは認識できるに違いない。しかも単に区別できるだけでなくて、それぞれがどんな性格なのかまで伺えるまでになっている。

それが小説で「キャラを立てる」ってことだ。つまり端的に言って作家たちは、登場人物の語尾や口調を変えることでキャラを立てている。しかし、とりわけ『ひぐらしのなく頃に』の場合、主要な登場人物だけでも20人くらいいるのに、一人として同じ話し方をする者はおらず、しかもそれが重要な人物であればあるほど、セリフだけ見れば誰でどんな奴なのか必ずわかるようになっている。これはけっこうすごい。「??」とか「!?」という過剰な感嘆符や、「みー☆」とか「にぱ~」という言葉には、この会話の内容(つまり、登場人物が言おうとしていること)にとって何の意味もないように見えるけど、実はそれは全く逆で、これらの部分こそが修飾的に働いて、キャラの「描写」を担う大切な要素になっている。別の言い方をすると、一般に小説では「描写」っていうのは「地の文」でやるものだと考えられていると思うんだけど、この作品は会話だけで「描写」としか言いようがない効果を生み出しているのだ。

この「描写」は、さらに彼らのセリフ同士を交差させることで、わいわいと楽しそうに話をしているその関係性、彼らのコミュニティの空気感すらも立ち上らせようとしているようだ。情景は何も語られなかったのに、そこに5人の人物の語らう姿が浮かんでくる。それは「地の文」とか「文体」という考え方の根底をひっくり返しかねないことだ。まず言葉だけでキャラを立てようとして、次にセリフだけでキャラを描くことに思い至り、最後に「みー☆」みたいな表現に行き着いた作家たちの努力は、長い歴史を持つ小説というジャンル全体にとってみても、けっこうとんでもない域に到達している。ぜひ一度この本を、セリフでキャラを描こうとしているんだってことに注目して読んでみてほしい。最初から終わりまで徹底的にそのことを意識して書かれた、その意味でも、すごく巧みな作品なんだということに気づくから。

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2011.02.08

第一回非実在推理少女あ~や

選択可能な「真理」

レビュアー:さやわか

ちっす! さやわかです。

まずは「さやわかの星海社レビュアー騎士団」第一回の投稿を締め切りました。本日以降に投稿されたものは、次の更新の掲載に回させてもらいますね。

そして多数の投稿ありがとうございます! こんなに質の高いレビューが始めっからたくさん集まってしまって、なんだか超高度なコーナーになってしまいやしないかと心配になる。いやしかし、今回だけは皆さんガンガン送ってくれたけど、次回から一気に投稿数が減るという事態も考えられるわけですから、油断なりません。ということで今後もどんどん送ってください。どんな投稿でもお待ちするという姿勢は全く変更ありません!

さて、いただいたレビューの投稿について何か書こうと思ったのですが、よく考えたら今それ書いちゃったら2月10日の掲載時に書くことなくなるじゃん、と気づいたので書くのはやめておこう。

代わりに、皆さんに書かせてばっかりじゃなくて、僕もいよいよレビューを書いてみようかな。いやあ、他人のレビューを評価するのと同じ場所に自分もレビューを書くって緊張しますね。僕も大したツラの皮だ。

さて、僕が今のところ「最前線」の中でもすごく更新を楽しみにしているのは『非実在推理少女あ~や』です。豊富なコンテンツの中でこれが気になる理由はいろいろあるけど、特に言えば、この話はパロディ意識と皮肉さと極端さがケレン味たっぷりに盛り込まれていて、そういうのって僕好みなんだよね。

漫画に限らずどんな表現においても、パロディとかギャグ要素というのは批評として機能するところがあって、この漫画もそれがちゃんと活きている。

簡単に言うとミステリというのは現実に事件があって、犯人がそれをトリックによって隠蔽して、探偵役がそれを暴くという形式の物語だけど、まれにトリックという「謎」こそが物語における最大の、つまり犯人以上の敵となり、探偵役がその「謎」に鮮やかな一撃を叩き込んで打倒するという一種のヒーローもののような物語として読むことができてしまう。そのようなことを意識して書かれたミステリというのはたくさんあるけど、たとえば清涼院流水のJDCシリーズなんかはすごくわかりやすい。

さて『非実在推理少女あ~や』は、そういうミステリのあり方をちゃんと踏まえて描かれている。この物語は完全に「謎」こそが敵になっていて、犯人というものの意味づけも変えられている。第一話「コンダラ殺人事件」の第一回にある以下の台詞を見てみよう。

この密室という現象
理論的説明の成立しない混沌
世界の秩序を破壊する犯罪
犯罪的不可能状況を作り上げ物理法則をねじ曲げる
これを放置し続ければやがてはその歪みが世界を飲み込み崩壊へと至る
それを防ぐ為周囲の現象を操作し
不可能状況を可能状況へと書き換えるのが私の役目なのだ

つまり犯人であるはずの「崩壊者」というのは実際に殺人を犯したりそれを隠そうとする者ではなく「謎」すなわち「理論的説明の成立しない混沌」だけを作り出す存在なのだ。一夜でメイド喫茶が消失するとか、校庭に置いてあった重いコンダラがいきなり密室に移動するという不条理な現象は、不条理であることこそが重要で、ぶっちゃけてしまうと不条理であればあるほどよい。条理的な出来事を隠蔽するために不条理な状態が生み出されたのではなく、もはや最初から条理的な「本当に起こったこと」など存在しない。だからこの物語は論理的な整合性がとれる形で「本当に起こったこと」を好き勝手に作り替えることが目的になっているというわけだ。

しかし、実はあらゆるミステリが同じだと言うことができる。つまり結末で犯人が「その通りです、私がやりました」と述べるから何かうまくいっているみたいに見えるけど、探偵役というのは常に好き勝手に事件を解説していて、複雑なトリックを解説すればするほど、なんか嘘っぽくなる。ミステリというのはそのくらい危ういものだ。

そのことを『あ~や』は極端に描いている。そしてこの作品がいいのは、ここまでに述べたようなミステリというジャンルを巡るあれこれを一切気にせずに、むしろそれを知らない読者でも楽しめるように作ってあることだろう。いずれにせよ、探偵役であるあ~やにとっては、「不可能状況を可能状況へと書き換え」られれば、「謎」に対してどんな説明を付けようと構わないと考えている。あめりちゃんがシオミヤイルカのかわいらしい絵の中で何度も何度も何度もひどい目にあうのはそのためで、彼女が救われようが犯人になろうが、あ~やの知ったことではない。

この作品がまだ語っていないポイントが、おそらくここにあるだろう。論理的な説明が付けられればどれを選んでも構わないのならば、では何を基準にして解決は選ばれるのか。その決断とは、実は倫理を問うものだ。つまり今のところ物語は孫和人にとっていいように現実を作り替えるように進んでいるけど、それは正しいのか。「世界の秩序を破壊する犯罪」を解決するミステリなのに、正しくないというのはどういうことなのか。そもそも正しいということなどあるのか。現実を作り替えることによって何かは失われているのではないか。この先でそういうことが描かれたら(描かざるを得ないようにすら思う!)、さらに僕好みの作品だなあと思う。

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2011.02.01


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