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レビュアー「fei」のレビュー

銅

『エレGY』

最低の主人公

レビュアー:fei

 わたしは、「主人公」という言葉について、清く・正しく・どんな場面でも格好良い、というイメージを持っている。わかりやすく「ヒーロー」という単語に言い換えると、より共感して貰えるかもしれない。
 ただ、世の物語には、腹の底から噴き出るような大声でサイッテー!と叫びたくなるような「主人公」だって数多く存在していると思う。
 わたしにとって、その「最低な主人公」の一人が、泉和良。こいつだった。

 「アンディー・メンテ」のジスカルドとして、大学生時代からフリーウェアゲームの制作をしている泉和良。
 卒業後はゲーム会社に就職をするけれども、組織に馴染むことができず短期間でドロップアウトしてしまった、社会不適合者。
 固定客を掴むためにウェブ上で演じている「悩める天才ゲーム作家・ジスカルド」という幻想を剥がされ、仮面を被っていた自分を軽蔑されることを恐れて抗不安剤を噛む日々を過ごしている。
 生計的にも、精神的にも不安定な26歳。
 そのくらいなら別に良いんだよ。社会に馴染めなかったり、機嫌の揺れが激しかったり。そのぐらいで人のことを最低なんて断じたりはしない。ましてや、この泉和良というキャラクターは、作者である泉和良本人の実話を元にしたキャラクターだそうだから少しくらい欠点があっても驚かない。
 わたしがこの男を嫌いなのは、他に理由がある。

 この物語が始まる数ヶ月前に分かれたばかりだという元恋人。
 彼女が泉の元を去ったのも、「ジスカルドの魔法」のせいだったと述懐している。
 自分がこんなに感動したものを作った人はきっと天才に違いない=この人が作るものなら必ず素晴らしいものに違いない、という思い込みを利用して、ひとたび自分を崇めさせられれば、どんなものでも無条件で相手に受け入れさせることができるかもしれない── それがジスカルドの魔法。
 フリーウェアゲームはいくら作っても所詮無料で、生計を立てるためには好き勝手にゲームを作るのではなく、作者が凄い人間なんだと思わせるために人気の出るような要素を拾い集めた万人受けしそうなものを作らなくてはいけない。
 理想と現実のままならないバランスを言い訳に、「ジスカルド」をただ演じ続けるだけの泉に彼女は失望してしまう。
 そして、その後に現れた少女・エレGYに対しても、泉は「ジスカルド」を演じようとし、その魔法が解けてしまうことを何より恐れている。
 「魔法」が解けて、自分が傷つくことを恐れている。
 泉和良は、ただひたすらに対面を取り繕っている自分が傷つかないで済むために、結果的に彼女達を傷つけていた。
 わたしには、それが許せないんだよ。


 けれど、そんな「最低の男」泉に対して、エレGYは誠実であり続けた。
 彼の気まぐれにつきあってパンツの写真を本当に送る。彼が作ったゲームの感想を楽しそうに述べる。彼からメールがあれば喜んだ感情をそのまま返す。彼の一挙手一投足に一喜一憂する。

 彼女だって、最低とは言わずとも駄目な女の子の類いに入るのだと思う。
 高校三年生だけれど、不登校でリストカッター。
 泉和良が構ってくれないと自傷行為をすると脅しつけたり、構ってくれると手のひらを返したようにベタベタする。良く言えば無邪気、悪く言えば気分屋。
 アルバイトやゲームグッズの販売で収入を得なければいけない泉が、その義務を放り出してエレGYを最優先することに喜ぶ。良く言えば天衣無縫、悪く言えば世間知らず。
 彼女だって「ヒロイン」のはずだ。けれど、こんな駄目な子のどこがいいんだろう? 一般的にみればきちんと社会生活を営めているだろうと自負する「わたし」から見ると理解できない。
 最低な男に尽くす女の子。それは確かにシチュエーションとしてはありかも知れないけれど、どうして、「エレGY」はこの物語のヒロインになり得たんだろうか?

 それはエレGYが、真っ直ぐに「泉和良」を見ていたからに違いない、と思う。

 エレGYは「泉和良」も「ジスカルド」も「アンディー・メンテ」も、どれが欠けても泉は泉じゃない、と力一杯に叫んだ。
 アンディー・メンテという存在に救われた彼女は、それをずっと見つめ続けてきた。だからこそ、ジスカルドが泉和良の一面を形作ってもいることに気がついたんだろう。
 わたしには無くて、エレGYは持っていたもの。それは、自分の独りよがりではなく、相手を深く深く理解しようとして、それを相手に「真っ直ぐに伝えることができる」力だ。
 好きな人のことを見つめ続けて、ゼロ距離の地点から迷うことなくあなたが好きだと伝えること。
 他のことなんてどうでも良い。あなたが好きで、愛したくて、守りたくて、支えたくて、ずっと一緒にいたい。あなたのことを大切にしたいから、あなたは自分のことを蔑んだりしないで。
 そんな思いを衒いなく伝えられたことが、わたしにあっただろうか?
 自分の利己的な思いだけで、相手からの愛をせがんでいただけだった自分を思い出す。気持ちを押し付けるばかりで失敗ばかりしていた一方的な恋を思い出す。好きだった相手を傷つけてしまった悲しい言葉を思い出す。
 あの時のわたしよりも年若いエレGYのほうが、人の愛し方をちゃんと知っていたんじゃないんだろうか?
 だからこそ、エレGYは「ヒロイン」に、泉和良の一番大事な人になったんだろう。


 いや、この物語は最初から、泉和良ではなく彼女の物語だったんだ。
 なぜ泉和良がこんなに「最低な男」として描かれたか。
 それは彼の後ろ向きな姿勢と対比させることによって、本来の意味の「主人公」としてのヒロイン・エレGYを印象付けようとしたんだろう。
 物語のタイトルは『エレGY』。
 わたしが最初に憤っていたのはお門違いで、主役は彼女だったんだ。
 最低な男だからこそ、ヒロインは微笑みかけることもあるみたいだ。


 この本をすすめるべきは、ゲームや女子高生が好きな男性諸君ではなく、後悔している恋の記憶を持っている女性たちなのかも知れないね……?

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2011.07.14

銀

渡辺浩弐『iKILL』

12年後のゲーム・キッズ

レビュアー:fei

 ──貴方が「デジタル」と初めて出会ったのはいくつの時でしょうか。

 わたしが『iKILL』の作者・渡辺浩弐と初めて出会ったのは高校生のとき。
 部活の先輩とゲームやインターネットで遊ぶことについて雑談をしていた時に、「君だったらこんな話も読むと面白いんじゃないかな」と勧められ、翌週の活動日に手渡されたのが『1999年のゲーム・キッズ』三部作の文庫本だった。

 そのシリーズが最初に出版されたのは、1994年。ゲームの専門週刊誌に掲載されていたショート・ショートだった。「1999年」その言葉は、執筆当時には世紀末や新世紀を目前とした不安感と高揚感に溢れ、もてはやされていた単語だったのではないかな、と思う。
 しかし、胡散臭さを感じながらページをめくったとき、わたしが感じていた安っぽさはそっくりなりを潜めてしまった。
 ”今”より少しだけ先を見据えた、”すぐ次の時代”をなぞるストーリーの数々。これは単なる空想ではなく、「今、新しく開発されたこの技術がこうやって実用化されていき、数年後の世間はこうなるかもしれない」と、生々しい現実に立脚した未来が描かれた本なのだ。
 そして、過去に書かれた”未来だったはずの物語”は、ある程度が実際に先進的な技術として姿を現し、2002年のわたしのところには、既に”現実”として届いていたのだった。
 衛星通信を利用したナビゲーションシステム、プレイヤーの行動を記録して学習するAI戦闘システムを組み込んだTVゲーム、毎夜のように携帯電話やPCからインターネットへ簡単に接続し、チャットや掲示板で会ったこともない相手とお喋りを楽しみ友情を育む”わたし達”。
 そんなデジタルな生活を、渡辺浩弐ははっきりとした根拠をもって予測していたのだろう。


 あれから10年近くが経ち、今ふたたび、わたしのところへ渡辺浩弐の本が届いた。
 インターネットの大手通販サイトで、1クリックで予約注文され、発売日に自動配送された書籍。どうやらこの『iKILL』という本も、元々は2006年に講談社BOXとして発売された、わたしの知らない過去の物語だったようなのだ。
 奇妙な縁があって、星海社という存在を知り、この本に触れる機会が訪れた。
 わたしはまた、高校生のころを思い出しながら、「少しだけ過去になってしまった話」を手に取る。
 ……これは、本当に過去の話なのだろうか?

 私生活のすべてをWeb上で配信するネットアイドル。
 携帯に入った謎のメールに導かれ、復讐の準備を始める女子中学生。
 最新鋭の技術を操る立場にいながら、百円玉に満ちた記憶を捨てられなかったサラリーマン。
 顔も見えない人間達が、大衆という皮を被って世論のふりを声高に叫ぶ処刑システム・i-KILLネット。

 すべて、今のわたしが経験している現実に即して書かれたような、「今でもこの場に存在し得るかもしれない物語」なのだ。
 映像のストリーミング配信や3D技術が確立し、Web2.0が宣言された執筆当時から、2011年の今に至るまでテクノロジーは進化を続けている。しかし、WikipediaやFlickr、blog、Google AdSenseやUstreamなどわたし達が現在利用している技術も、この本が書かれたころに着想があったものだろう。
 だからこそ、この物語にわたしは深く深く入り込んでしまうような気がしてならない。
 これらの技術を駆使しながら、”ゲーム・キッズ”から”大人”へと成長した本作の主人公・小田切明。彼は”現実”の中で次々と人を殺してゆく。それは殺し屋としての依頼であったり、自身に降り掛かるトラブルを解決するためだったり、発端はさまざまであるが、4つの章では必ず人が殺される。小田切はデジタルな世界に振り回されつつも、巧妙に殺人を重ねてゆく。

 しかし、これは単にデジタルなだけの物語ではない。
 物語の中には、確かに生きた人間が存在し、生々しい姿を晒しながら日々を過ごしているのだ。

 中津田聡子(瑠璃)は、ひきこもるために自分の実生活を配信しながら生きていた。
 後藤未久は、虐めっ子への反撃のために死体を解体し、生身の自分を実感した。
 木村は、夢だったはずのゲームというデジタルに追い回されながら生活していた。
 長田浩典は、自分の復讐が顔の無い集団によって膨れ上がり続けるのを恐れ、生きることを諦めた。

 生きることと死ぬことが隣り合わせに共存する『iKILL』の世界。既に次巻の制作が発表されているが、これから小田切明は生死どちらかに取り込まれることなく、その狭間を綱渡りしながら、また人を殺してゆくのだろうか。
 わたしもまた、この物語に取り込まれてしまうのだろうか。

 ──そんなことを思いながら、またわたしはこの本をそっと開く。
 わたしが高校生だったあの頃から大人になるまで、一緒に成長した物語。
 最後のページまで視線を進め、奥付の文字に指先で触れ、そっとため息を漏らす。
 今まで読んでいた”現実”に恋い焦がれながら。

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2011.06.17


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