渡辺浩弐『iKILL』
12年後のゲーム・キッズ
レビュアー:fei
──貴方が「デジタル」と初めて出会ったのはいくつの時でしょうか。
わたしが『iKILL』の作者・渡辺浩弐と初めて出会ったのは高校生のとき。
部活の先輩とゲームやインターネットで遊ぶことについて雑談をしていた時に、「君だったらこんな話も読むと面白いんじゃないかな」と勧められ、翌週の活動日に手渡されたのが『1999年のゲーム・キッズ』三部作の文庫本だった。
そのシリーズが最初に出版されたのは、1994年。ゲームの専門週刊誌に掲載されていたショート・ショートだった。「1999年」その言葉は、執筆当時には世紀末や新世紀を目前とした不安感と高揚感に溢れ、もてはやされていた単語だったのではないかな、と思う。
しかし、胡散臭さを感じながらページをめくったとき、わたしが感じていた安っぽさはそっくりなりを潜めてしまった。
”今”より少しだけ先を見据えた、”すぐ次の時代”をなぞるストーリーの数々。これは単なる空想ではなく、「今、新しく開発されたこの技術がこうやって実用化されていき、数年後の世間はこうなるかもしれない」と、生々しい現実に立脚した未来が描かれた本なのだ。
そして、過去に書かれた”未来だったはずの物語”は、ある程度が実際に先進的な技術として姿を現し、2002年のわたしのところには、既に”現実”として届いていたのだった。
衛星通信を利用したナビゲーションシステム、プレイヤーの行動を記録して学習するAI戦闘システムを組み込んだTVゲーム、毎夜のように携帯電話やPCからインターネットへ簡単に接続し、チャットや掲示板で会ったこともない相手とお喋りを楽しみ友情を育む”わたし達”。
そんなデジタルな生活を、渡辺浩弐ははっきりとした根拠をもって予測していたのだろう。
あれから10年近くが経ち、今ふたたび、わたしのところへ渡辺浩弐の本が届いた。
インターネットの大手通販サイトで、1クリックで予約注文され、発売日に自動配送された書籍。どうやらこの『iKILL』という本も、元々は2006年に講談社BOXとして発売された、わたしの知らない過去の物語だったようなのだ。
奇妙な縁があって、星海社という存在を知り、この本に触れる機会が訪れた。
わたしはまた、高校生のころを思い出しながら、「少しだけ過去になってしまった話」を手に取る。
……これは、本当に過去の話なのだろうか?
私生活のすべてをWeb上で配信するネットアイドル。
携帯に入った謎のメールに導かれ、復讐の準備を始める女子中学生。
最新鋭の技術を操る立場にいながら、百円玉に満ちた記憶を捨てられなかったサラリーマン。
顔も見えない人間達が、大衆という皮を被って世論のふりを声高に叫ぶ処刑システム・i-KILLネット。
すべて、今のわたしが経験している現実に即して書かれたような、「今でもこの場に存在し得るかもしれない物語」なのだ。
映像のストリーミング配信や3D技術が確立し、Web2.0が宣言された執筆当時から、2011年の今に至るまでテクノロジーは進化を続けている。しかし、WikipediaやFlickr、blog、Google AdSenseやUstreamなどわたし達が現在利用している技術も、この本が書かれたころに着想があったものだろう。
だからこそ、この物語にわたしは深く深く入り込んでしまうような気がしてならない。
これらの技術を駆使しながら、”ゲーム・キッズ”から”大人”へと成長した本作の主人公・小田切明。彼は”現実”の中で次々と人を殺してゆく。それは殺し屋としての依頼であったり、自身に降り掛かるトラブルを解決するためだったり、発端はさまざまであるが、4つの章では必ず人が殺される。小田切はデジタルな世界に振り回されつつも、巧妙に殺人を重ねてゆく。
しかし、これは単にデジタルなだけの物語ではない。
物語の中には、確かに生きた人間が存在し、生々しい姿を晒しながら日々を過ごしているのだ。
中津田聡子(瑠璃)は、ひきこもるために自分の実生活を配信しながら生きていた。
後藤未久は、虐めっ子への反撃のために死体を解体し、生身の自分を実感した。
木村は、夢だったはずのゲームというデジタルに追い回されながら生活していた。
長田浩典は、自分の復讐が顔の無い集団によって膨れ上がり続けるのを恐れ、生きることを諦めた。
生きることと死ぬことが隣り合わせに共存する『iKILL』の世界。既に次巻の制作が発表されているが、これから小田切明は生死どちらかに取り込まれることなく、その狭間を綱渡りしながら、また人を殺してゆくのだろうか。
わたしもまた、この物語に取り込まれてしまうのだろうか。
──そんなことを思いながら、またわたしはこの本をそっと開く。
わたしが高校生だったあの頃から大人になるまで、一緒に成長した物語。
最後のページまで視線を進め、奥付の文字に指先で触れ、そっとため息を漏らす。
今まで読んでいた”現実”に恋い焦がれながら。
わたしが『iKILL』の作者・渡辺浩弐と初めて出会ったのは高校生のとき。
部活の先輩とゲームやインターネットで遊ぶことについて雑談をしていた時に、「君だったらこんな話も読むと面白いんじゃないかな」と勧められ、翌週の活動日に手渡されたのが『1999年のゲーム・キッズ』三部作の文庫本だった。
そのシリーズが最初に出版されたのは、1994年。ゲームの専門週刊誌に掲載されていたショート・ショートだった。「1999年」その言葉は、執筆当時には世紀末や新世紀を目前とした不安感と高揚感に溢れ、もてはやされていた単語だったのではないかな、と思う。
しかし、胡散臭さを感じながらページをめくったとき、わたしが感じていた安っぽさはそっくりなりを潜めてしまった。
”今”より少しだけ先を見据えた、”すぐ次の時代”をなぞるストーリーの数々。これは単なる空想ではなく、「今、新しく開発されたこの技術がこうやって実用化されていき、数年後の世間はこうなるかもしれない」と、生々しい現実に立脚した未来が描かれた本なのだ。
そして、過去に書かれた”未来だったはずの物語”は、ある程度が実際に先進的な技術として姿を現し、2002年のわたしのところには、既に”現実”として届いていたのだった。
衛星通信を利用したナビゲーションシステム、プレイヤーの行動を記録して学習するAI戦闘システムを組み込んだTVゲーム、毎夜のように携帯電話やPCからインターネットへ簡単に接続し、チャットや掲示板で会ったこともない相手とお喋りを楽しみ友情を育む”わたし達”。
そんなデジタルな生活を、渡辺浩弐ははっきりとした根拠をもって予測していたのだろう。
あれから10年近くが経ち、今ふたたび、わたしのところへ渡辺浩弐の本が届いた。
インターネットの大手通販サイトで、1クリックで予約注文され、発売日に自動配送された書籍。どうやらこの『iKILL』という本も、元々は2006年に講談社BOXとして発売された、わたしの知らない過去の物語だったようなのだ。
奇妙な縁があって、星海社という存在を知り、この本に触れる機会が訪れた。
わたしはまた、高校生のころを思い出しながら、「少しだけ過去になってしまった話」を手に取る。
……これは、本当に過去の話なのだろうか?
私生活のすべてをWeb上で配信するネットアイドル。
携帯に入った謎のメールに導かれ、復讐の準備を始める女子中学生。
最新鋭の技術を操る立場にいながら、百円玉に満ちた記憶を捨てられなかったサラリーマン。
顔も見えない人間達が、大衆という皮を被って世論のふりを声高に叫ぶ処刑システム・i-KILLネット。
すべて、今のわたしが経験している現実に即して書かれたような、「今でもこの場に存在し得るかもしれない物語」なのだ。
映像のストリーミング配信や3D技術が確立し、Web2.0が宣言された執筆当時から、2011年の今に至るまでテクノロジーは進化を続けている。しかし、WikipediaやFlickr、blog、Google AdSenseやUstreamなどわたし達が現在利用している技術も、この本が書かれたころに着想があったものだろう。
だからこそ、この物語にわたしは深く深く入り込んでしまうような気がしてならない。
これらの技術を駆使しながら、”ゲーム・キッズ”から”大人”へと成長した本作の主人公・小田切明。彼は”現実”の中で次々と人を殺してゆく。それは殺し屋としての依頼であったり、自身に降り掛かるトラブルを解決するためだったり、発端はさまざまであるが、4つの章では必ず人が殺される。小田切はデジタルな世界に振り回されつつも、巧妙に殺人を重ねてゆく。
しかし、これは単にデジタルなだけの物語ではない。
物語の中には、確かに生きた人間が存在し、生々しい姿を晒しながら日々を過ごしているのだ。
中津田聡子(瑠璃)は、ひきこもるために自分の実生活を配信しながら生きていた。
後藤未久は、虐めっ子への反撃のために死体を解体し、生身の自分を実感した。
木村は、夢だったはずのゲームというデジタルに追い回されながら生活していた。
長田浩典は、自分の復讐が顔の無い集団によって膨れ上がり続けるのを恐れ、生きることを諦めた。
生きることと死ぬことが隣り合わせに共存する『iKILL』の世界。既に次巻の制作が発表されているが、これから小田切明は生死どちらかに取り込まれることなく、その狭間を綱渡りしながら、また人を殺してゆくのだろうか。
わたしもまた、この物語に取り込まれてしまうのだろうか。
──そんなことを思いながら、またわたしはこの本をそっと開く。
わたしが高校生だったあの頃から大人になるまで、一緒に成長した物語。
最後のページまで視線を進め、奥付の文字に指先で触れ、そっとため息を漏らす。
今まで読んでいた”現実”に恋い焦がれながら。