iKILL2.0
倫理的な痛み
レビュアー:大和
やはり僕にとって、『iKILL』とは学校で授業を受けているような気分にさせられる作品なのだ。こんな授業をしたらPTAから苦情が来ると思うけど。なんせ『iKILL』シリーズには残酷で凄惨な描写がこれでもかってくらい盛りだくさんだ。例えば死体をバラバラに解体してく様子をじっくりと徹底的に描写したり、死んでしまった方がマシに思えるような壮絶で痛々しい拷問を描いたりする。そうした文章を前に、痛くて怖くて読んでいられない、と述べる人も少なくない。
確かに『iKILL』の描写は惨たらしくて、僕自身、読んでいて息苦しくなることもある。だが『iKILL』という作品における「痛さ」は、例えば映画『ホステル』や『SAW』といった作品たちとは違い、必ずしも快楽やスリルやサスペンスといったエンタメ性の強化に奉仕していたりはしない。もちろん、そうした機能も皆無ではないのだが、本作における「痛さ」は、エンタメ的な機能を一度は担うものの、最終的にはむしろ、それらを楽しんでいた読者を糾弾することにこそ収束していく。
それは前作『iKILL』から見られた傾向だが、本作『iKILL2.0』ではより顕著になっている。簡単に言えば、本作では読者が作品を読み進めることそのものが殺人を引き起こす、という構造を取っている。つまり読者に殺人者としての罪が与えられてしまうのだ。作者は凄惨で残酷な描写を積み上げていき、やがて最後には物語を楽しんでいた読者こそが糾弾され、積み上げられてきた全ては読者の罪へと還元される。
そうした構造を見た時、僕は本作における痛々しくて非倫理的な描写の数々は、むしろ作者が持つ倫理意識の強さを裏付けるものに思えてしまうのだ。例えばサスペンス/ミステリー/スリラー/スプラッターといったジャンルでは多くの人々が呆気なく死んでいくことも少なくないが、『iKILL』にはそうやって倫理を度外視して快楽性を追求することを善しとしないような、どこか厳格でストイックな姿勢を感じてしまう。
作品のテーマ/メッセージを最大限に表現するため、作者は痛々しい描写を徹底的に書き上げてみせる。そこに僕は、やはり倫理意識の強さ、作者が貫かんとしている信念、みたいなものを感じてしまうわけで、そうした態度からして僕は「厳格な教師みたいだなぁ」などと思ってしまうのだ。だが作品には堅苦しさや厳格さを通り越して、使命感に突き動かされて書いたのではないかと思わされるほどの圧倒的な凄みがある。そんな作品を作ってみせる作者を僕は信頼しているし、カッコいいと思うし、こんな先生の授業ならいくらでも受けたいな、と思うのである。
確かに『iKILL』の描写は惨たらしくて、僕自身、読んでいて息苦しくなることもある。だが『iKILL』という作品における「痛さ」は、例えば映画『ホステル』や『SAW』といった作品たちとは違い、必ずしも快楽やスリルやサスペンスといったエンタメ性の強化に奉仕していたりはしない。もちろん、そうした機能も皆無ではないのだが、本作における「痛さ」は、エンタメ的な機能を一度は担うものの、最終的にはむしろ、それらを楽しんでいた読者を糾弾することにこそ収束していく。
それは前作『iKILL』から見られた傾向だが、本作『iKILL2.0』ではより顕著になっている。簡単に言えば、本作では読者が作品を読み進めることそのものが殺人を引き起こす、という構造を取っている。つまり読者に殺人者としての罪が与えられてしまうのだ。作者は凄惨で残酷な描写を積み上げていき、やがて最後には物語を楽しんでいた読者こそが糾弾され、積み上げられてきた全ては読者の罪へと還元される。
そうした構造を見た時、僕は本作における痛々しくて非倫理的な描写の数々は、むしろ作者が持つ倫理意識の強さを裏付けるものに思えてしまうのだ。例えばサスペンス/ミステリー/スリラー/スプラッターといったジャンルでは多くの人々が呆気なく死んでいくことも少なくないが、『iKILL』にはそうやって倫理を度外視して快楽性を追求することを善しとしないような、どこか厳格でストイックな姿勢を感じてしまう。
作品のテーマ/メッセージを最大限に表現するため、作者は痛々しい描写を徹底的に書き上げてみせる。そこに僕は、やはり倫理意識の強さ、作者が貫かんとしている信念、みたいなものを感じてしまうわけで、そうした態度からして僕は「厳格な教師みたいだなぁ」などと思ってしまうのだ。だが作品には堅苦しさや厳格さを通り越して、使命感に突き動かされて書いたのではないかと思わされるほどの圧倒的な凄みがある。そんな作品を作ってみせる作者を僕は信頼しているし、カッコいいと思うし、こんな先生の授業ならいくらでも受けたいな、と思うのである。