「「ひぐらしのなく頃に 解 目明し編(上・下)」
裏方のいない劇場
レビュアー:zonby
例えば想像するのは、大きな半球。
ドーム型の劇場である。
真ん中には仕切りがあり、ドーム内の空間は更に二つに仕切られている。そこでは一つの物語が上演されている。
ただし、裏方はない。物語は両面で同時に上演されている。
片面で上演されているのは「ひぐらしのなく頃に 綿流し編」という物語だ。主人公は前原圭一という一人の少年。彼は引っ越した先の雛見沢という村で、園崎魅音とその双子の妹・園崎詩音。そして雛見沢に古くから伝わる因習に翻弄され、残酷劇の中に身を投じて謎を遺す。
一方反対側で上演されるのは、「ひぐらしのなく頃に 解 目明し編」という、「綿流し編」の裏側とでも言うべき物語である。一転して主人公は園崎詩音という、表の物語ではあまり目立たなかった人物にスポットが当てられている。前原圭一を主人公とした物語とは違い、こちらの演技は一年前から開始されている設定だ。彼女はその中で一人の少年と出逢い、別れ、それらと微妙にリンクしながら「綿流し編」へとなだれ込んでゆく。
題名こそ違えど、これは二つで一つの物語だ。
ただ、前原圭一と園崎詩音。この二人の視点を分けることで、こんなにも物語に広がりが生まれるのかということに、私は驚いた。
一つの物語を二人の視点で描く。
これは既存の物語や、アマチュアの描く小説にも多々見られる手法だ。
ただ私は今まで(今でも)この手法が嫌いである。
なぜならこの手法は必然的に、場面の反復や台詞の反復が多くなるからである。既に知っている情報を何度も聞かされるのは面倒なばかりか、読む気まで削がれることさえあるのだから結構深刻な問題だ。
しかしこの二つの物語はその側面を持ちながらも、見事にそのデメリットを回避しているところにぞくぞくした。
前原圭一にしか見えない情報。知り得ない情報。感じ得ない気持ちと、園崎詩音しか見えない情報。知り得ない情報。感じ得ない気持ちが合わさった時、読み手である私達はただ先に提示された「ひぐなしのなく頃に 綿流し編」をただなぞっているだけではないと、気付かされるのだ。
よおく。
よおく、見て欲しい。
ドームを隔てる壁には、一つだけ扉がついている。
その見えるか見えないかかの扉を、園崎姉妹だけが行き来している。
一見、彼女らがこの劇場、物語の裏方のように見えるかもしれない。
だが違う。
彼女達も所詮は、物語の中で自分の見えるもの、感じたことにただ翻弄される登場人物の一人に過ぎない。
では、誰が裏方なのだろう。
裏方は劇場にはいない。
それは目の前にいる。
それはページを繰る。
二つの物語を二つの視点で読み、反復させ、情報を繋ぎ合わせる。登場人物ですら知らない真実を知り、裏と表を一つの物語として再編集する。
純粋に別々の話として読んでいた内は、まだ劇場の観客として愉しむことができただろう。
けれど、全てを知ってしまったらもう観客では居られない。
――そう、この物語の裏方は他の誰でもない読者なのである。
それぞれの物語の穴を埋め、この表と裏の関係性。真実を知った貴方は、きっと薦めずには居られまい。その緻密に織り上げられた世界を、誰かに伝えられずには居られまい。
私が、そうだから。
私は、裏方だから。
裏方には仕事がある。
劇場を整備し、観客を招き入れるという仕事が。
「面白い本、ない?」という言葉を、私はいつでも待っている。
「これ、読んでみない」という言葉と、「ひぐらしのなく頃に 綿流し編」「ひぐらしのなく頃に 解 目明し編」を携えて。
ドーム型の劇場である。
真ん中には仕切りがあり、ドーム内の空間は更に二つに仕切られている。そこでは一つの物語が上演されている。
ただし、裏方はない。物語は両面で同時に上演されている。
片面で上演されているのは「ひぐらしのなく頃に 綿流し編」という物語だ。主人公は前原圭一という一人の少年。彼は引っ越した先の雛見沢という村で、園崎魅音とその双子の妹・園崎詩音。そして雛見沢に古くから伝わる因習に翻弄され、残酷劇の中に身を投じて謎を遺す。
一方反対側で上演されるのは、「ひぐらしのなく頃に 解 目明し編」という、「綿流し編」の裏側とでも言うべき物語である。一転して主人公は園崎詩音という、表の物語ではあまり目立たなかった人物にスポットが当てられている。前原圭一を主人公とした物語とは違い、こちらの演技は一年前から開始されている設定だ。彼女はその中で一人の少年と出逢い、別れ、それらと微妙にリンクしながら「綿流し編」へとなだれ込んでゆく。
題名こそ違えど、これは二つで一つの物語だ。
ただ、前原圭一と園崎詩音。この二人の視点を分けることで、こんなにも物語に広がりが生まれるのかということに、私は驚いた。
一つの物語を二人の視点で描く。
これは既存の物語や、アマチュアの描く小説にも多々見られる手法だ。
ただ私は今まで(今でも)この手法が嫌いである。
なぜならこの手法は必然的に、場面の反復や台詞の反復が多くなるからである。既に知っている情報を何度も聞かされるのは面倒なばかりか、読む気まで削がれることさえあるのだから結構深刻な問題だ。
しかしこの二つの物語はその側面を持ちながらも、見事にそのデメリットを回避しているところにぞくぞくした。
前原圭一にしか見えない情報。知り得ない情報。感じ得ない気持ちと、園崎詩音しか見えない情報。知り得ない情報。感じ得ない気持ちが合わさった時、読み手である私達はただ先に提示された「ひぐなしのなく頃に 綿流し編」をただなぞっているだけではないと、気付かされるのだ。
よおく。
よおく、見て欲しい。
ドームを隔てる壁には、一つだけ扉がついている。
その見えるか見えないかかの扉を、園崎姉妹だけが行き来している。
一見、彼女らがこの劇場、物語の裏方のように見えるかもしれない。
だが違う。
彼女達も所詮は、物語の中で自分の見えるもの、感じたことにただ翻弄される登場人物の一人に過ぎない。
では、誰が裏方なのだろう。
裏方は劇場にはいない。
それは目の前にいる。
それはページを繰る。
二つの物語を二つの視点で読み、反復させ、情報を繋ぎ合わせる。登場人物ですら知らない真実を知り、裏と表を一つの物語として再編集する。
純粋に別々の話として読んでいた内は、まだ劇場の観客として愉しむことができただろう。
けれど、全てを知ってしまったらもう観客では居られない。
――そう、この物語の裏方は他の誰でもない読者なのである。
それぞれの物語の穴を埋め、この表と裏の関係性。真実を知った貴方は、きっと薦めずには居られまい。その緻密に織り上げられた世界を、誰かに伝えられずには居られまい。
私が、そうだから。
私は、裏方だから。
裏方には仕事がある。
劇場を整備し、観客を招き入れるという仕事が。
「面白い本、ない?」という言葉を、私はいつでも待っている。
「これ、読んでみない」という言葉と、「ひぐらしのなく頃に 綿流し編」「ひぐらしのなく頃に 解 目明し編」を携えて。