金の瞳と鉄の剣 第一回
いくらなんでも悪すぎる!
レビュアー:大和
『キアは苦笑して、どこか遠い彼方へと視線を投げる。
その瞳に何が映るのか、タウは知りようがない。だがそれでも彼は信じている。二人は同じ物を見つめ、同じ夢を見て、いつか同じ場所に辿り着くのだと。』
「最新&最高のバディものがここに!」というキャッチコピーが示すように、『金の瞳と鉄の剣』という作品は、二人の主人公――タウとキアの関係が大きな魅力の一つだ。二人は強固な絆で結ばれた相棒同士として描かれている。例えば竜と戦う時の連携では「お互いにタイミングは万全に心得ている」し、冒頭で引用した文章もタウのキアに対する強い信頼を表している。時には「もうどれだけ長い付き合いだと思っているんだか」なんてモノローグが飛び出すくらいだから、第一回の時点で既に、二人は相当な場数を共に駆け抜けたパートナーとして関係を確立しているのだろう。
ところで、エンタテインメントの作家に対して「意地が悪い」という言葉は時折称賛の意味として使われる。読者の予想をしっかり裏切れている、ということだからだ。その前提を踏まえて言うけれど――この作品は、あまりにも意地が悪い。
そう、この作品はとことん意地が悪いのだ。『金の瞳と鉄の剣』というタイトルをつけておきながら「剣は論外」なんて言うし、高河ゆんの華麗なイラストが置かれながら中身は地べたを這いずる傭兵稼業だし、「ファンタジーの王道中の王道」と言いながら遠大な世界観も数奇な運命も出てこない。
何より意地が悪いと思ったのは、タウとキアの関係だ。
この作品は二人の絆がいかに強いか、繰り返し繰り返し描いてみせるけど――その実、ひどく危うい関係であることが、第一話において既に示唆されている。例えば第一話の中ほどに、こんなシーンがある。
『(…)かろうじて輪郭として見て取れるのは、薄くぼやけた遠い山々の稜線だ。
(…)不意打ちも同然に訪れた歓喜で、タウの魂は打ち震えた。
(…)タウにとって、そこは未知の異境だった。
今日この日までタウが見届け、経験してきた諸相だけが、決して世界の全てではない。未だ見ぬ驚異が、神秘が、何処かに待ち受けているのだという想い――それこそがタウを旅に駆り立てる理由の全てだ。』
この描写からタウが非日常的な感動――いわば「リアル」の対義語としての「ファンタジー」を求めていることが分かる。ここで二人は「しばらく座り込んだまま、時を忘れて目の前の雄大な美観に見入」るのだけど、このシーンの構図はまさに二人の関係性を表すメタファーとなっている。この後キアは引き返すことを提案するも、タウはそれを却下して二人は山頂へ向かう。つまり二人が座り込んでいたのは「上る」ことも「下りる」こともできる場所なのだ。
これは、二人がどちらにも振り切っていない、曖昧な立ち位置にいるからこそ成立している関係だということを示している。「上る」ことは「竜と出会う」行為であり、「竜殺し」の称号を得るための行為であり、すなわちタウが理想とする方向へと向かう道だ。だが実際に竜と遭遇してどうなったか。想定外の強さにタウは絶望し、死ぬことすら覚悟したが、キアは想定内だと言わんばかりに「ここに来たがっていたのは僕の方なんだ」と告げ、歓喜の笑みすら浮かべてみせる。キアは竜に勝って見せるが、それが当然の結果であるかのように戦闘シーンは描かれない。
つまり、「上る」ことで出会うモノは、タウにとっては圧倒的なファンタジーであり、キアにとっては圧倒的なリアルなのだ。逆に言えば、「下りる」方向はタウにとってのリアルであり、キアにとってのファンタジーだと言える。キアは「来たがっていたのは僕の方」と言ったが、それはタウと同じファンタジーを欲しているからではなく、むしろ自分が竜と同列の存在であることを再確認するための行為だった。キアは自分を、人の形をしたバケモノみたいな存在だと思っていて、タウが「上る」ような行為によって何かを得るほど、キアは自分が「下りる」道から程遠い、山頂にいる竜のような異形の存在であることを自覚させられてしまう。
だが厄介なのは、タウはキアを想うからこそ山頂に向かっている、という点だ。このすれ違いは二人が初めて出会った頃から決定的だった。
『血みどろの戦場の光景がどんなに凄惨であれ、人の世の欲望と裏切りがどれほど卑劣で非情であれ、ただそれだけで絶望するには及ばない。かつて、この世界はただそれだけの場所ではないと知ったとき、タウの人生は新しい意味を得た。その理解をもたらした友が傍らにいればこそ、今のタウが在るのだ。』
リアルに打ちのめされていたタウはキアにファンタジーを見て、リアルに打ちのめされていたキアはタウにファンタジーを見た。それを拠り所に、相手に尽くすようにして二人は生きてきた。だが――否、だからこそ、二人の考える「リアル」と「ファンタジー」は完全に真逆なのだ。相手と出会えたからこそ生きる希望が持てた、ということが、求めるモノが違うことのそのまま裏返しとなっているのだ。例えばタウが竜の角を欲したのも、結局はキアに「タウが想うファンタジー」を見せたいがためだった。二人が行く道の選択はタウが主導権を握っていて、二人がタウの望む「ファンタジー」へ向かうことはほとんど宿命付けられていると言っていい。
そして第一回は竜の角を得ることで終わる。それは二人が山頂へと向かって上り始めたことを暗示している。それはタウが望む道であり、キアが望まない道だ。そのまま進めば、求める道がそれぞれ違うという事実に二人は直面してしまうだろう。「最新&最高のバディもの」でありながら、虚淵玄は第一回で二人の関係が瓦解するきっかけを描いてしまった。
なんて、意地悪なのだろう。
きっと意地悪な虚淵玄のことだから、この作品は「最新&最高のバディもの」を謳いながら、二人が決定的に道を異にする瞬間を描かずにはいられないと思う。そんな時、虚淵玄はどんな関係を、どんな結末を二人に与えるのだろう? 僕は今から、楽しみで仕方がない。
さて、ここでもう一度、冒頭で引用した本文を読んでほしい。
そこにどんな意味が含まれているか。判断は各々に任せよう。
でも僕が思うに、やっぱり、この文章は――いくらなんでも、意地が悪すぎる。
その瞳に何が映るのか、タウは知りようがない。だがそれでも彼は信じている。二人は同じ物を見つめ、同じ夢を見て、いつか同じ場所に辿り着くのだと。』
「最新&最高のバディものがここに!」というキャッチコピーが示すように、『金の瞳と鉄の剣』という作品は、二人の主人公――タウとキアの関係が大きな魅力の一つだ。二人は強固な絆で結ばれた相棒同士として描かれている。例えば竜と戦う時の連携では「お互いにタイミングは万全に心得ている」し、冒頭で引用した文章もタウのキアに対する強い信頼を表している。時には「もうどれだけ長い付き合いだと思っているんだか」なんてモノローグが飛び出すくらいだから、第一回の時点で既に、二人は相当な場数を共に駆け抜けたパートナーとして関係を確立しているのだろう。
ところで、エンタテインメントの作家に対して「意地が悪い」という言葉は時折称賛の意味として使われる。読者の予想をしっかり裏切れている、ということだからだ。その前提を踏まえて言うけれど――この作品は、あまりにも意地が悪い。
そう、この作品はとことん意地が悪いのだ。『金の瞳と鉄の剣』というタイトルをつけておきながら「剣は論外」なんて言うし、高河ゆんの華麗なイラストが置かれながら中身は地べたを這いずる傭兵稼業だし、「ファンタジーの王道中の王道」と言いながら遠大な世界観も数奇な運命も出てこない。
何より意地が悪いと思ったのは、タウとキアの関係だ。
この作品は二人の絆がいかに強いか、繰り返し繰り返し描いてみせるけど――その実、ひどく危うい関係であることが、第一話において既に示唆されている。例えば第一話の中ほどに、こんなシーンがある。
『(…)かろうじて輪郭として見て取れるのは、薄くぼやけた遠い山々の稜線だ。
(…)不意打ちも同然に訪れた歓喜で、タウの魂は打ち震えた。
(…)タウにとって、そこは未知の異境だった。
今日この日までタウが見届け、経験してきた諸相だけが、決して世界の全てではない。未だ見ぬ驚異が、神秘が、何処かに待ち受けているのだという想い――それこそがタウを旅に駆り立てる理由の全てだ。』
この描写からタウが非日常的な感動――いわば「リアル」の対義語としての「ファンタジー」を求めていることが分かる。ここで二人は「しばらく座り込んだまま、時を忘れて目の前の雄大な美観に見入」るのだけど、このシーンの構図はまさに二人の関係性を表すメタファーとなっている。この後キアは引き返すことを提案するも、タウはそれを却下して二人は山頂へ向かう。つまり二人が座り込んでいたのは「上る」ことも「下りる」こともできる場所なのだ。
これは、二人がどちらにも振り切っていない、曖昧な立ち位置にいるからこそ成立している関係だということを示している。「上る」ことは「竜と出会う」行為であり、「竜殺し」の称号を得るための行為であり、すなわちタウが理想とする方向へと向かう道だ。だが実際に竜と遭遇してどうなったか。想定外の強さにタウは絶望し、死ぬことすら覚悟したが、キアは想定内だと言わんばかりに「ここに来たがっていたのは僕の方なんだ」と告げ、歓喜の笑みすら浮かべてみせる。キアは竜に勝って見せるが、それが当然の結果であるかのように戦闘シーンは描かれない。
つまり、「上る」ことで出会うモノは、タウにとっては圧倒的なファンタジーであり、キアにとっては圧倒的なリアルなのだ。逆に言えば、「下りる」方向はタウにとってのリアルであり、キアにとってのファンタジーだと言える。キアは「来たがっていたのは僕の方」と言ったが、それはタウと同じファンタジーを欲しているからではなく、むしろ自分が竜と同列の存在であることを再確認するための行為だった。キアは自分を、人の形をしたバケモノみたいな存在だと思っていて、タウが「上る」ような行為によって何かを得るほど、キアは自分が「下りる」道から程遠い、山頂にいる竜のような異形の存在であることを自覚させられてしまう。
だが厄介なのは、タウはキアを想うからこそ山頂に向かっている、という点だ。このすれ違いは二人が初めて出会った頃から決定的だった。
『血みどろの戦場の光景がどんなに凄惨であれ、人の世の欲望と裏切りがどれほど卑劣で非情であれ、ただそれだけで絶望するには及ばない。かつて、この世界はただそれだけの場所ではないと知ったとき、タウの人生は新しい意味を得た。その理解をもたらした友が傍らにいればこそ、今のタウが在るのだ。』
リアルに打ちのめされていたタウはキアにファンタジーを見て、リアルに打ちのめされていたキアはタウにファンタジーを見た。それを拠り所に、相手に尽くすようにして二人は生きてきた。だが――否、だからこそ、二人の考える「リアル」と「ファンタジー」は完全に真逆なのだ。相手と出会えたからこそ生きる希望が持てた、ということが、求めるモノが違うことのそのまま裏返しとなっているのだ。例えばタウが竜の角を欲したのも、結局はキアに「タウが想うファンタジー」を見せたいがためだった。二人が行く道の選択はタウが主導権を握っていて、二人がタウの望む「ファンタジー」へ向かうことはほとんど宿命付けられていると言っていい。
そして第一回は竜の角を得ることで終わる。それは二人が山頂へと向かって上り始めたことを暗示している。それはタウが望む道であり、キアが望まない道だ。そのまま進めば、求める道がそれぞれ違うという事実に二人は直面してしまうだろう。「最新&最高のバディもの」でありながら、虚淵玄は第一回で二人の関係が瓦解するきっかけを描いてしまった。
なんて、意地悪なのだろう。
きっと意地悪な虚淵玄のことだから、この作品は「最新&最高のバディもの」を謳いながら、二人が決定的に道を異にする瞬間を描かずにはいられないと思う。そんな時、虚淵玄はどんな関係を、どんな結末を二人に与えるのだろう? 僕は今から、楽しみで仕方がない。
さて、ここでもう一度、冒頭で引用した本文を読んでほしい。
そこにどんな意味が含まれているか。判断は各々に任せよう。
でも僕が思うに、やっぱり、この文章は――いくらなんでも、意地が悪すぎる。