「ドッペルゲンガーの恋人」
もう一人の私は何の夢を見るか
レビュアー:zonby
もう一人自分がいたらいいなー。
そうしたら面倒なことは全部もう一人の自分に押し付けちゃってさ。オリジナルの自分は好きなことばっかりしていられるのに。あるいは、もう一人の私はオリジナルの自分と同じ思考回路を持つはずだから、まさしく「つー」と「かー」。阿吽の呼吸の如き以心伝心具合でもって、普段の作業を二倍の速さで終わらせられちゃうのに。
なーんてことを、これまで誰でも一度は考えたことがあるはずである。
あの駄目人間で有名な、野比のび太も考えた。
それどころか、そののび太を更生させるためにやってきたはずの某猫型ロボットまで考えた。
「もう一人の自分」とは、小説から漫画に至るまで多くの作品の中で取り扱われ、また夢想されてきたテーマの一つである。
「ドッペルゲンガーの恋人」は、今よりももっとクローン技術が進化した世界。主人公の失われた恋人の体細胞からクローンとして再生された彼女が目覚めるところから始まる。彼女は目覚め、自分の状況を説明されてから泣く。
「すみません。せっかくの素晴らしい実験なのに、こんな、馬鹿みたいに泣いてしまって……。でも、どうしても涙がとまらないんです。おかしな話ですよね?死んでしまったのは私で、ここで泣いているのも私なんです。嗚呼、一体何がどうなっているのか……。すみません、どうか泣かせてください……本当に、頭が、おかしくなりそうなんです……」
と。
私はここで早くも、ひっかかりを覚えた。
常日頃、もう一人の自分がいれば楽(かもしれない)のになー。作業が分担できて便利なのになー。と考え、「ドッペルゲンガーの恋人」というロマンチックな題名と、胸打つSFラブストーリーという帯の惹句から、死んだ恋人がクローンとして蘇ってなんとなくハッピーという物語を予想していたからだ。
何より、そのひっかかりが「おかしな話ですよね?死んでしまったのは私で、ここで泣いているのも私なんです。」の一言に集約されていることに気付き、私は今まで考えていなかった(考えようともしなかった)事実に直面したのである。
オリジナルは私。
これは大前提である。
ではこれは?
オリジナルなのだから、主導権や支配権・決定権は当然私にある、と。
当たり前のように、そう…思ってはいなかったか?
オリジナルではない自分の存在。その自我について、一度でも思考を巡らせてみたことがあったか?
という事実に。
私の前に、もう一人の私が立つ。
私を指さして言う。
「お前がクローンで、私の方がオリジナルだ」
もしくは
「オリジナルはもうずっと前に死んだ。私達はクローンのクローンを続けている」
そこで逆転する。
私は私であって、それは揺らぐことのないことであるはずなのに、もしも鏡で見たように同じ容姿、同じ思考を持つ「もう一人の私」なる存在にそれを言われたとしたら、揺らぐのではないか。私は「私」になり、やがて「私というはずだった他人」になるのではないか。
それは、全く同じ意識と記憶、容姿を持ちながらにして違う「人格」を持つ他者。
それは、「私」が「私」でなくなる恐ろしい一瞬。
だから、さらりとした筆致で描かれてはいるが彼女が泣くこのシーンは、物語が終末をむかえるまで深く私の心に残るシーンになった。
東北の震災や、政治、芸能などの情報であふれる今からすると、もう随分前の話になるだろうか。
クローン羊のドリーが話題になったのを覚えている。
「ドッペルゲンガーの恋人」ほど技術がない世界の話だ。その世界からしてみればクローン研究史上に残る、ほんの最初の一歩でしかないのかもしれない。
しかしドリーは生まれた。
クローンとして。
けれどクローンとしては失敗し、ドリーはオリジナルの個体が持つ本来の老化現象に若くして襲われ死んだと聞く。人間ではないし、もうこの世にはいないので不可能なことではあるけれど、ドリーはクローンとして生まれて何を見たのだろうか。
もし話ができたなら、何を語っただろうか。
――もし、私のクローンができるとしたら私を指さして何を言うのだろう。
同じ寝顔で眠る私の横で、どんな夢を見るのだろう。
私はもう、「もう一人の私」という他者を求めないだろう。
私の大切な人が死んでも、「もう一人の大切な人」を求めないだろう。
「ドッペルゲンガーの恋人」を読んで、私は確かに「私」のドッペルゲンガーを見た。
そうしたら面倒なことは全部もう一人の自分に押し付けちゃってさ。オリジナルの自分は好きなことばっかりしていられるのに。あるいは、もう一人の私はオリジナルの自分と同じ思考回路を持つはずだから、まさしく「つー」と「かー」。阿吽の呼吸の如き以心伝心具合でもって、普段の作業を二倍の速さで終わらせられちゃうのに。
なーんてことを、これまで誰でも一度は考えたことがあるはずである。
あの駄目人間で有名な、野比のび太も考えた。
それどころか、そののび太を更生させるためにやってきたはずの某猫型ロボットまで考えた。
「もう一人の自分」とは、小説から漫画に至るまで多くの作品の中で取り扱われ、また夢想されてきたテーマの一つである。
「ドッペルゲンガーの恋人」は、今よりももっとクローン技術が進化した世界。主人公の失われた恋人の体細胞からクローンとして再生された彼女が目覚めるところから始まる。彼女は目覚め、自分の状況を説明されてから泣く。
「すみません。せっかくの素晴らしい実験なのに、こんな、馬鹿みたいに泣いてしまって……。でも、どうしても涙がとまらないんです。おかしな話ですよね?死んでしまったのは私で、ここで泣いているのも私なんです。嗚呼、一体何がどうなっているのか……。すみません、どうか泣かせてください……本当に、頭が、おかしくなりそうなんです……」
と。
私はここで早くも、ひっかかりを覚えた。
常日頃、もう一人の自分がいれば楽(かもしれない)のになー。作業が分担できて便利なのになー。と考え、「ドッペルゲンガーの恋人」というロマンチックな題名と、胸打つSFラブストーリーという帯の惹句から、死んだ恋人がクローンとして蘇ってなんとなくハッピーという物語を予想していたからだ。
何より、そのひっかかりが「おかしな話ですよね?死んでしまったのは私で、ここで泣いているのも私なんです。」の一言に集約されていることに気付き、私は今まで考えていなかった(考えようともしなかった)事実に直面したのである。
オリジナルは私。
これは大前提である。
ではこれは?
オリジナルなのだから、主導権や支配権・決定権は当然私にある、と。
当たり前のように、そう…思ってはいなかったか?
オリジナルではない自分の存在。その自我について、一度でも思考を巡らせてみたことがあったか?
という事実に。
私の前に、もう一人の私が立つ。
私を指さして言う。
「お前がクローンで、私の方がオリジナルだ」
もしくは
「オリジナルはもうずっと前に死んだ。私達はクローンのクローンを続けている」
そこで逆転する。
私は私であって、それは揺らぐことのないことであるはずなのに、もしも鏡で見たように同じ容姿、同じ思考を持つ「もう一人の私」なる存在にそれを言われたとしたら、揺らぐのではないか。私は「私」になり、やがて「私というはずだった他人」になるのではないか。
それは、全く同じ意識と記憶、容姿を持ちながらにして違う「人格」を持つ他者。
それは、「私」が「私」でなくなる恐ろしい一瞬。
だから、さらりとした筆致で描かれてはいるが彼女が泣くこのシーンは、物語が終末をむかえるまで深く私の心に残るシーンになった。
東北の震災や、政治、芸能などの情報であふれる今からすると、もう随分前の話になるだろうか。
クローン羊のドリーが話題になったのを覚えている。
「ドッペルゲンガーの恋人」ほど技術がない世界の話だ。その世界からしてみればクローン研究史上に残る、ほんの最初の一歩でしかないのかもしれない。
しかしドリーは生まれた。
クローンとして。
けれどクローンとしては失敗し、ドリーはオリジナルの個体が持つ本来の老化現象に若くして襲われ死んだと聞く。人間ではないし、もうこの世にはいないので不可能なことではあるけれど、ドリーはクローンとして生まれて何を見たのだろうか。
もし話ができたなら、何を語っただろうか。
――もし、私のクローンができるとしたら私を指さして何を言うのだろう。
同じ寝顔で眠る私の横で、どんな夢を見るのだろう。
私はもう、「もう一人の私」という他者を求めないだろう。
私の大切な人が死んでも、「もう一人の大切な人」を求めないだろう。
「ドッペルゲンガーの恋人」を読んで、私は確かに「私」のドッペルゲンガーを見た。