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読者レビュー

鉄

ひぐらしのなく頃に

ゲームとして

レビュアー:大和 Novice

 僕が『ひぐらしのなく頃に』というゲームと出会ってから、既に7年もの月日が流れている。後に様々な媒体でメディアミックスされる、その原典となるPC版が、僕と『ひぐらし』との出会いだった。プレイしたのがまるで昨日のことのように感じられるだけに、驚きと一緒に何やら感慨らしきものが沸き上がってくる。そして『ひぐらし』は今なお文庫版として再生し、新たな読者を、そして新たなゲームのプレイヤーを増やし続けている。そう、ここにあるのは一冊の小説でありながら、同時にゲームなのだ。これは『ひぐらし』という作品に触れる上でとても重要なことだと僕は思う。どういうことか、順を追って語るとしよう。

 『ひぐらし』はノベルゲームとして――公式の表記を借りるならサウンドノベルとして人々の前に姿を現した。画面にはキャラクターや背景のグラフィック、そして文章が表示され、プレイヤーは画面をクリックすることで物語を読み進めていく、という形式だ。

 僕は当然のごとくゲームという言葉を使っているけれど、『ひぐらし』をゲームだと思わない人も多かった。選択肢が無かったからだ。ノベルゲームにおいて、選択肢はプレイヤーが物語の進行に介入できるほぼ唯一の瞬間だった。それが取り払われてしまえばプレイヤーはただ黙々と物語を読み進めることしかできない。もはやそれは「ノベルゲーム」ではなく、ただの「ノベル」なのではないか?

 しかし公式ページには、こうも書かれている。

“ですが、本作品はただの小説ではなく、やはりゲームです。”

 つまり『ひぐらし』をゲームたらしめているのは選択肢の有無といった形式によるものではないのだ、と作者は語っている。では『ひぐらし』におけるゲームとは何を指しているのか? これは作者自身の言葉を持ち出すのが手っ取り早いだろう。WEBサイト『最前線』上に掲載された対談『はるかぜのふく頃に』において、作者である竜騎士07はこう語っている。

“(...)ゲームって、誰かとコミュニケーションをとって初めて成立するものなんですよ。そういう意味では『ひぐらしのなく頃に』を読んだ後に誰かと、「これってどういうことだったんだろうね?」って(...)議論していただけたら、それは立派なゲームなんです。”

 ここで作者は、ゲームという言葉の根本的な意味合いに立ち返ろうとする。例えば「『ひぐらし』はゲームではない」と言う時、その「ゲーム」とはTVゲームやPCゲームといった一部の形式に限定されてしまっている。しかし単純に「ゲーム」とだけ表記するならば、それは機械的なデバイスを通じてプレイするものだけを指すのではない。ジャンケンだとかはないちもんめだとか、単純なクイズの出し合いみたいなものだってゲームであることに違いは無い。そしてゲームが成立する最小の条件は「コミュニケーションが成立する瞬間」なのだと作者は語る。ならば作中の謎について議論を交わしたり、作品を題材に自由に話し合って楽しむことができる『ひぐらし』という作品は、やはりゲームなのだと言えるだろう。

 そういった作者の姿勢は『ひぐらし』という作品において徹底的に貫かれている。正当率1%という印象的で挑戦的な惹句、それを裏付けるかのように次々と提示される謎、続きが発表される度にプレイヤーを翻弄する物語、『ひぐらし』の世界を彩る魅力的なキャラクター。ひとたび触れれば、もう『ひぐらし』について語りたくて仕方がなくなってしまう――そう言っても過言ではないくらい強烈な世界を作者は作り出してみせた。

 それに応えるようにして、ネット上では『ひぐらし』のムーブメントが起こった。公式掲示板で、2ちゃんねるで、個人のホームページで、至るところで『ひぐらし』に関する議論や推理が繰り広げられた。興奮の渦がネット上を席巻した。言うなれば、作者は作品の内側ではなく、作品の外側に広大なゲーム空間を作り出してしまったのだ。

 ここで目を向けてほしいのは、『ひぐらし』という作品は物語のレベルにおいてもコミュニケーションという題材を扱っている、ということだ。連続怪死事件、祟り、村の暗部、様々な事件や恐怖が主人公たちを襲い、彼らは疑心暗鬼に駆られ悲劇を起こしてしまう。しかし物語は彼らが独りで抱えているものを少しずつ紐解いていき、やがて仲間と話し合うこと、相談することの大切さを謳おうとする。

 そうやって物語のテーマとしてコミュニケーションの大切さを謳うだけならば、他にも多くの作品で書かれてきたことだろう。だが『ひぐらし』という作品が凄いのは、そのテーマを貫くあまり、作品の外に踏み出して、実際に人々を繋げてしまったことだ。そこには作者の徹底した態度が、覚悟が、それらを裏付ける切実さが感じられて、もはやこの作品が一つの奇跡であるようにすら僕は感じてしまう。

 そして『ひぐらし』は文庫として再生し、人々の前に姿を現している。先述の定義に従うならば、ここにあるのは小説であると同時にゲームだ。読者は『ひぐらし』という小説を読むことで、『ひぐらし』について話し合い、議論を交わし、ゲームを楽しむことができる。

 そうやって立ち上がるゲームは、きっと僕の記憶にあるゲーム空間とは別のものだ。当時のような熱気やムーブメントが起こりうるはずもない。僕にとっては寂しいことだけれど、でも両者の間に優劣は無い。人が多いだとかムーブメントが起こっているだとか、そんなことが絶対的な価値を決めたりはしない。例えば数人の友達との間だけで楽しむゲームでも、彼らにとっては掛け替えのない体験になることだろう。そうやって読者がゲームを楽しみ、個々人の間で『ひぐらし』が思い出深い作品となるのであれば、それはとても素晴らしいことだ。

 当時は「新たな作り手による挑戦的な作品」だった『ひぐらし』も、今では「過去に伝説を作った名作」という位置づけになるだろう。当時とは作品を取り巻く環境が全く違う。受け取られ方も全然違うはずだ。それでも『ひぐらし』という作品は、時間や媒体や形式を超えたところで「ゲーム」であろうとするのだと思う。

 文庫版『ひぐらし』を小説として楽しむのも悪くない。『ひぐらし』は魅力的な物語で君を迎えてくれるだろう。ただ、どうせならこの作品はゲームなのだと思って触れてみてほしい。友達と話し合ったり議論を交わしたりしてほしい。そうやって楽しまれることこそ、作者がこの作品に込めた、もっとも切実な願いなのだと思う。

2011.09.08

さやわか
うーん。再び、レビュアー騎士団の「君主」であります、大和さんのレビューですが……これはちと難しい。「鉄」といたします。君主なのですからあまり立ち入ったコメントなどするのもどうかと思いますので、簡単に触れさせていただきます。『ひぐらし』のゲームとしての魅力、これはわかります。重要な点でありますから、大和さんがそこを何度かレビューに書いて読み手に訴えようとしているのもわかります。だからこの文章は『ひぐらし』の「解説」としてはいいでしょう。しかし「文庫版のレビュー」としてはどうでしょうか? この文章は『ひぐらし』はゲームとして楽しめる、それはいいものだ、だから文庫化を機にしてそれを再び見出しましょう、という議論になっている。しかしここで魅力とされているのは、『ひぐらし』そのものなのです。文庫版のレビューであるならば、文庫だからこその何かが少しでも入っている方がいいと思います。何でもいいのです。値段でも、刊行ペースでも、携帯性でも、新しくなったイラストについてでも。それらが一つでもないと、文庫版のレビューとしてはまずいのではないでしょうか。

本文はここまでです。