ブレイク君コア
みてる?
レビュアー:大和
僕が『ブレイク君コア』を読み終わった時、ふと頭に思い浮かんだのは『マリア様がみてる』という作品のことだった。なんて言うと、首をかしげる人も多いかもしれない。方や殺人あり恋愛ありの青春小説。方や由緒正しいお嬢様たちが織り成す少女小説。両者は見るからに全然違う作品だからだ。でも、ある一点において、両者は非常に近いことを描いているように僕は思った。
『ブレイク君コア』では「人格の入れ替わり」を中心とした物語が展開されていく。ミステリー要素やどこかスラップスティックじみた猟奇的要素もあるが、軸となっているのは主人公とヒロインのラブストーリーだ。主人公はヒロインに恋をするのだが、ヒロインの肉体では「人格の入れ替わり」が起こっていた。つまり主人公が恋をした少女の肉体には、別人の魂が入っていたのだ。そして困ったことに、主人公としてはその「入れ替わった状態」こそが理想だった。倫理的には入れ替わりを解消させることが正しいと思いながらも、入れ替わった状態を維持したいという欲望の方が強く、それを実現させるため主人公は行動する。
しかしこの作品において、主人公の欲望は必ずしも肯定されない。主人公の思惑を裏切るように物語は進んで行き、エンディングを迎える。
そこで描かれているのは「他者を受け入れる」ということだと僕は思った。主人公の前に現れる少女は、必ずしも理想通りの相手ではない。しかし多くの場合、恋愛とは、出会いとは、そういうものなのではないかと思う。例えば僕らが誰かを好きになった時、その人がまるで自分の理想をそのまま体現した存在であるかのように思えてしまうことがある。だが大抵それは幻想や勘違いだったりするものだ。そこに僕らが見出しているのは相手の実像ではなく、むしろ自身の願望だと言える。そうやって恋焦がれている状態はそれなりに心地よいものだけど、けれどそこに他者の存在は無い。ただ自分の願望と戯れているだけだ。相手の実像、実態と向き合えているとは言えない。
そして『ブレイク君コア』のエンディングは、そんな都合のいい思い込みに甘えたりはしない。願望に別れを告げ、等身大の相手と向き合うことを肯定してくれる。そこでは「人と人が関係を作る」ということをとても慎重に、大切に扱ってくれていて、とても美しいエンディングだと思う。
僕が『マリア様がみてる』という作品を思い出したのは、まさにその点に関してだった。あの作品もまた、人と人が関係を作るということを丁寧に描き続けているからだ。例えば第一巻では主人公・祐巳が一方的に憧れていた上級生であった祥子と関わりを持ち、遠くから見るだけでは知る由も無かった祥子の性格や事情に触れ、しかしそのことがより二人の距離を近づけることになる。以降の巻においても、登場人物たちは思い込みやすれ違いを繰り返しながら、それらを少しずつ修正して、様々な形で関係を築いていく――『ブレイク君コア』と『マリア様がみてる』は全然違う作品だけど、でもそこにある美しさや尊さはとても近いものであるように僕は感じた。
加えて言うならば、そうやって描き出されている部分が、印象的なガジェットによって見落とされがちな点も似ているように思った。例えば『ブレイク君コア』であれば人格の入れ替わりや「血みどろ」とも言われるミステリー要素や「青春」という惹句が、『マリア様がみてる』であれば「リリアン女学園」や「姉妹制度」といったいかにも少女同士の百合を感じさせる道具立てばかりが話題になることによって、物語がある種シンプルに描き出している部分に目が行かなくなりがちなのではないか。勿論、そういったガジェットは作品とは切り離せない重要な要素だ。それらを注意深く見つめることで初めて分かることもあるだろう。しかしそういった装いの先にあるものを見つめ、受け取ろうとすることも、また同じくらい重要なのではないかと思う。
『ブレイク君コア』では「人格の入れ替わり」を中心とした物語が展開されていく。ミステリー要素やどこかスラップスティックじみた猟奇的要素もあるが、軸となっているのは主人公とヒロインのラブストーリーだ。主人公はヒロインに恋をするのだが、ヒロインの肉体では「人格の入れ替わり」が起こっていた。つまり主人公が恋をした少女の肉体には、別人の魂が入っていたのだ。そして困ったことに、主人公としてはその「入れ替わった状態」こそが理想だった。倫理的には入れ替わりを解消させることが正しいと思いながらも、入れ替わった状態を維持したいという欲望の方が強く、それを実現させるため主人公は行動する。
しかしこの作品において、主人公の欲望は必ずしも肯定されない。主人公の思惑を裏切るように物語は進んで行き、エンディングを迎える。
そこで描かれているのは「他者を受け入れる」ということだと僕は思った。主人公の前に現れる少女は、必ずしも理想通りの相手ではない。しかし多くの場合、恋愛とは、出会いとは、そういうものなのではないかと思う。例えば僕らが誰かを好きになった時、その人がまるで自分の理想をそのまま体現した存在であるかのように思えてしまうことがある。だが大抵それは幻想や勘違いだったりするものだ。そこに僕らが見出しているのは相手の実像ではなく、むしろ自身の願望だと言える。そうやって恋焦がれている状態はそれなりに心地よいものだけど、けれどそこに他者の存在は無い。ただ自分の願望と戯れているだけだ。相手の実像、実態と向き合えているとは言えない。
そして『ブレイク君コア』のエンディングは、そんな都合のいい思い込みに甘えたりはしない。願望に別れを告げ、等身大の相手と向き合うことを肯定してくれる。そこでは「人と人が関係を作る」ということをとても慎重に、大切に扱ってくれていて、とても美しいエンディングだと思う。
僕が『マリア様がみてる』という作品を思い出したのは、まさにその点に関してだった。あの作品もまた、人と人が関係を作るということを丁寧に描き続けているからだ。例えば第一巻では主人公・祐巳が一方的に憧れていた上級生であった祥子と関わりを持ち、遠くから見るだけでは知る由も無かった祥子の性格や事情に触れ、しかしそのことがより二人の距離を近づけることになる。以降の巻においても、登場人物たちは思い込みやすれ違いを繰り返しながら、それらを少しずつ修正して、様々な形で関係を築いていく――『ブレイク君コア』と『マリア様がみてる』は全然違う作品だけど、でもそこにある美しさや尊さはとても近いものであるように僕は感じた。
加えて言うならば、そうやって描き出されている部分が、印象的なガジェットによって見落とされがちな点も似ているように思った。例えば『ブレイク君コア』であれば人格の入れ替わりや「血みどろ」とも言われるミステリー要素や「青春」という惹句が、『マリア様がみてる』であれば「リリアン女学園」や「姉妹制度」といったいかにも少女同士の百合を感じさせる道具立てばかりが話題になることによって、物語がある種シンプルに描き出している部分に目が行かなくなりがちなのではないか。勿論、そういったガジェットは作品とは切り離せない重要な要素だ。それらを注意深く見つめることで初めて分かることもあるだろう。しかしそういった装いの先にあるものを見つめ、受け取ろうとすることも、また同じくらい重要なのではないかと思う。