エレGY
クリエイターの生き様
レビュアー:大和
クリエイターとして生きることを夢見る者は多い。小説、漫画、ゲーム、音楽、美術、etc、各々の分野でそれを生業にすることが出来たらどれだけ素晴らしいだろう? 創作行為を少しでもかじったことのある人ならば、誰もが一度はそんな想いを抱くのではないかと思う。だが現実は厳しい。クリエイターとして仕事を得る、対価として金銭を得るに至るのは激しい競争を潜り抜けた一部の人々だけで、その中でも輝かしい成功を手にするのは更にほんの一握りの人間だけだ。その裏には多くの失敗や挫折が累々としている。
もっとも夢を諦めることで真っ当な人生を歩むことが出来たのなら上出来だと言えるだろう。中には夢を捨てきれず、身を持ち崩してしまう人も少なくない。例えば小説家、漫画家、芸術家、ミュージシャン、そういった人々の不幸話は枚挙にいとまが無い。彼らの多くはひたむきに夢を追いかけながらも、貧困や孤独といった現実にあえなく押し潰されてしまう。創作や芸術といったものをあまりにも真剣に追い求め、切実に欲してしまうが故に、それらに人生を壊されてしまうのだ。
『エレGY』の主人公・泉和良も苦しんでいた。物語の序盤では彼がクリエイターとして生きる道を志し、しかし思うようにいかず、貧困に喘ぎ、ついには親からの仕送りやアルバイトに頼らなければ生活できなくなる、といった顛末が語られる。それは単なるフィクションではない。エレGYは作者・泉和良が実際に経験した出来事をベースにした、ノンフィクションに限りなく近い作品だ。この小説に書かれていることは、ほとんど作者の体験談だと言っていい。
この作品では泉和良とエレGYという名の少女が出会い、そして恋に落ちていく様が中心となって語られる。そこでは恋愛要素と同時に、泉和良がクリエイターとしてどう生きていくか、といった問題が重要なテーマとして常につきまとうことになる。やがてエレGYによって泉和良はある種の救いを得ると同時に、クリエイターとして生きることの喜びにも出会う。
“僕が真摯になって生み出す創作物は、たとえ金銭的に反映されずとも、そこに込められた魂が種となってネットの世界へとばら蒔かれる。
そしてそれは奇跡的に誰かのもとへ届き、心の道標や支えとなって、未知なる新しい息吹を生んでいくのだ。”
作者が直面したクリエイターの困難が現実であるのと同様に、彼がエレGYという少女と恋をしたこと、そしてエレGYによってクリエイターの喜びを知ったことも、やはり彼が実際に体験したことなのだ。「泉和良」という文字列で検索してみればいい。すぐさま「あばたえくぼ」というタイトルのページが見つかるだろう。その先にはアンディー・メンテのホームページがあり、たくさんのフリーウェアゲームがあり、ジスカルドの名がある。そこには『エレGY』という小説に出てきたものと同じ名前のホームページがあり、作品があり、管理人がいるだろう。それらに触れ、『エレGY』という物語がどこかで現実に起こったのだということを知った時、あなたは泉和良の言葉に実感を伴った重みを感じるはずだ。
しかし気をつけなければならないのは、彼がクリエイターとしての「喜び」に出会ったとしても、それによって彼を取り巻く貧困の問題は(少なくとも小説上では)解決されていない点である。確かに彼は一つの答えを得た。それは彼の未来を力強く照らすものであり、彼を大きく躍進させるものだっただろう。だが、いかに彼がエレGYと結ばれ、幸せを手にし、クリエイターとして生きることの素晴らしさを確信したとしても、彼の貧困――クリエイターとして生きることの困難は現実に在り続ける。
その点を踏まえた時、泉和良の言葉はあまりにもクリエイター視点に寄り過ぎているようにも思えるだろう。世の中にクリエイターを賛辞する言葉は溢れている。しかしそういった言葉によって、クリエイターとして生きることに憧れ、そして身を持ち崩す人もやはり大勢いるのだ。だから「金銭にならずとも魂が種となって世界にばら蒔かれる」とする彼の言葉は、ある種の自己犠牲を肯定する言葉に見えてしまうかもしれない。クリエイターを志す人の自己肯定や自己正当化みたいに見えてしまうのかもしれない。そうやって生きて、そして朽ち果てることをも肯定するような、どこか無責任な言葉に見えてしまうかもしれない。
だが彼が語っていることの是非によって『エレGY』という作品の是非を判断するのは早計だ。むしろここで明らかになっているのは、彼があまりにも愚直に「クリエイターの性」とも言うべきものに突き動かされ、真摯に作品や表現と向き合っているということだ。
その真剣さ、ひたむきさ、切実さこそ、僕が泉和良というクリエイターを信頼する理由なのだ。僕が彼を好きになったきっかけは、アンディー・メンテで公開されていた『君が忘れていった水槽』というゲームのBGMを聞いたことだった。そのゲームにはコンシューマーのゲームみたいな凄い作り込みがあったわけでもなく、圧倒的なゲーム性があったわけでもなかった。そもそも「ただ水槽で微生物が増えたり減ったりする様子を眺めるだけ」という、ゲームなのかどうかも分からない代物だった。極めつけに、そのゲームは僕のPCでは起動しなかった。ただBGMが同梱されていて、何の気なしにそれを聞いてみて、僕は強い衝撃を受けた。あまりにも美しく、完成度の高い音楽がそこにあった。いわゆるエレクトロニカと呼ばれるジャンルに近い音楽だったけど、専門で作っているミュージシャンにも決して引けを取らないものだった。それはゲームなのかどうかもよくわからないフリーウェアに用意されたBGMだったけど、しかし何かを真剣に、切実に追及するようにして作られていると僕は感じた。
そんな彼の姿勢は、『エレGY』という作品において最も明らかな形で表れている。恐らく作者が思う以上に、この作品には彼の人生そのものが――彼のクリエイターとしての生き様が強く焼きつけられてしまっている。この作品は一人の少女との恋愛模様が描かれた小説だが、それを支えているのは、ひたむきで前のめりな情熱なのではないかと僕は思う。
そして彼の人生はまだ続いている。『エレGY』という物語は一冊の本の中で完結するが、泉和良という人物の物語はまだまだ続いている。たとえば僕の手元には泉和良の新作『私のおわり』がある。『エレGY』の先に、彼はどんな人生を歩み、どんな物語を紡ぐのだろう? 僕はその一端に触れるため、これからページを、そっと開くことにする。
もっとも夢を諦めることで真っ当な人生を歩むことが出来たのなら上出来だと言えるだろう。中には夢を捨てきれず、身を持ち崩してしまう人も少なくない。例えば小説家、漫画家、芸術家、ミュージシャン、そういった人々の不幸話は枚挙にいとまが無い。彼らの多くはひたむきに夢を追いかけながらも、貧困や孤独といった現実にあえなく押し潰されてしまう。創作や芸術といったものをあまりにも真剣に追い求め、切実に欲してしまうが故に、それらに人生を壊されてしまうのだ。
『エレGY』の主人公・泉和良も苦しんでいた。物語の序盤では彼がクリエイターとして生きる道を志し、しかし思うようにいかず、貧困に喘ぎ、ついには親からの仕送りやアルバイトに頼らなければ生活できなくなる、といった顛末が語られる。それは単なるフィクションではない。エレGYは作者・泉和良が実際に経験した出来事をベースにした、ノンフィクションに限りなく近い作品だ。この小説に書かれていることは、ほとんど作者の体験談だと言っていい。
この作品では泉和良とエレGYという名の少女が出会い、そして恋に落ちていく様が中心となって語られる。そこでは恋愛要素と同時に、泉和良がクリエイターとしてどう生きていくか、といった問題が重要なテーマとして常につきまとうことになる。やがてエレGYによって泉和良はある種の救いを得ると同時に、クリエイターとして生きることの喜びにも出会う。
“僕が真摯になって生み出す創作物は、たとえ金銭的に反映されずとも、そこに込められた魂が種となってネットの世界へとばら蒔かれる。
そしてそれは奇跡的に誰かのもとへ届き、心の道標や支えとなって、未知なる新しい息吹を生んでいくのだ。”
作者が直面したクリエイターの困難が現実であるのと同様に、彼がエレGYという少女と恋をしたこと、そしてエレGYによってクリエイターの喜びを知ったことも、やはり彼が実際に体験したことなのだ。「泉和良」という文字列で検索してみればいい。すぐさま「あばたえくぼ」というタイトルのページが見つかるだろう。その先にはアンディー・メンテのホームページがあり、たくさんのフリーウェアゲームがあり、ジスカルドの名がある。そこには『エレGY』という小説に出てきたものと同じ名前のホームページがあり、作品があり、管理人がいるだろう。それらに触れ、『エレGY』という物語がどこかで現実に起こったのだということを知った時、あなたは泉和良の言葉に実感を伴った重みを感じるはずだ。
しかし気をつけなければならないのは、彼がクリエイターとしての「喜び」に出会ったとしても、それによって彼を取り巻く貧困の問題は(少なくとも小説上では)解決されていない点である。確かに彼は一つの答えを得た。それは彼の未来を力強く照らすものであり、彼を大きく躍進させるものだっただろう。だが、いかに彼がエレGYと結ばれ、幸せを手にし、クリエイターとして生きることの素晴らしさを確信したとしても、彼の貧困――クリエイターとして生きることの困難は現実に在り続ける。
その点を踏まえた時、泉和良の言葉はあまりにもクリエイター視点に寄り過ぎているようにも思えるだろう。世の中にクリエイターを賛辞する言葉は溢れている。しかしそういった言葉によって、クリエイターとして生きることに憧れ、そして身を持ち崩す人もやはり大勢いるのだ。だから「金銭にならずとも魂が種となって世界にばら蒔かれる」とする彼の言葉は、ある種の自己犠牲を肯定する言葉に見えてしまうかもしれない。クリエイターを志す人の自己肯定や自己正当化みたいに見えてしまうのかもしれない。そうやって生きて、そして朽ち果てることをも肯定するような、どこか無責任な言葉に見えてしまうかもしれない。
だが彼が語っていることの是非によって『エレGY』という作品の是非を判断するのは早計だ。むしろここで明らかになっているのは、彼があまりにも愚直に「クリエイターの性」とも言うべきものに突き動かされ、真摯に作品や表現と向き合っているということだ。
その真剣さ、ひたむきさ、切実さこそ、僕が泉和良というクリエイターを信頼する理由なのだ。僕が彼を好きになったきっかけは、アンディー・メンテで公開されていた『君が忘れていった水槽』というゲームのBGMを聞いたことだった。そのゲームにはコンシューマーのゲームみたいな凄い作り込みがあったわけでもなく、圧倒的なゲーム性があったわけでもなかった。そもそも「ただ水槽で微生物が増えたり減ったりする様子を眺めるだけ」という、ゲームなのかどうかも分からない代物だった。極めつけに、そのゲームは僕のPCでは起動しなかった。ただBGMが同梱されていて、何の気なしにそれを聞いてみて、僕は強い衝撃を受けた。あまりにも美しく、完成度の高い音楽がそこにあった。いわゆるエレクトロニカと呼ばれるジャンルに近い音楽だったけど、専門で作っているミュージシャンにも決して引けを取らないものだった。それはゲームなのかどうかもよくわからないフリーウェアに用意されたBGMだったけど、しかし何かを真剣に、切実に追及するようにして作られていると僕は感じた。
そんな彼の姿勢は、『エレGY』という作品において最も明らかな形で表れている。恐らく作者が思う以上に、この作品には彼の人生そのものが――彼のクリエイターとしての生き様が強く焼きつけられてしまっている。この作品は一人の少女との恋愛模様が描かれた小説だが、それを支えているのは、ひたむきで前のめりな情熱なのではないかと僕は思う。
そして彼の人生はまだ続いている。『エレGY』という物語は一冊の本の中で完結するが、泉和良という人物の物語はまだまだ続いている。たとえば僕の手元には泉和良の新作『私のおわり』がある。『エレGY』の先に、彼はどんな人生を歩み、どんな物語を紡ぐのだろう? 僕はその一端に触れるため、これからページを、そっと開くことにする。