ひぐらしのなく頃に 祟殺し編(上・下)
『優しい暴力』と贖罪
レビュアー:zonby
「ひぐらしのなく頃に 祟殺し編」を読んだ人が最初に抱く感想は、きっとこういうものに違いない。
・残酷だと思った。
・沙都子が可哀想だと思った。
・救われないと思ったし、報われないと思った …エトセトラエトセトラ
私も初めはそう思ったし、その時はそう思っただけで終わってしまった。(その時は、ゲーム版と漫画版、アニメ。三つ形での「ひぐらしのなく頃に 祟殺し編」を見ていたというのに)しかしここに来て今一度活字という形で物語を再体験した結果、この物語を表すワードをふと思いついた。
それは――『優しい暴力』、だ。
『優しい暴力』。
なんとも矛盾した言葉の組み合わせではある。
「暴力」に優しさなど存在するのかどうか、と聞かれれば大抵の人は「ない」というだろう。
無論、冗談では済まないくらい痛いデコピンや、おともだちパンチなどを除いた純粋な「暴力」としての話である。(そこには言葉の暴力も含まれる)
そう、暴力は暴力でしかなく一片の言い訳を挟むまでもなく、暴力でしかない。
暴力は醜いものであり、あってはならないものであり、忌避すべきものであり、ましてや――己が誰かに対して暴力を振るうなど決してやってはいけないことなのだ。
ではなぜ優しいのだろう。
「ひぐらしのなく頃に 祟殺し編」で、主人公・圭一は、叔父から虐待を受ける仲間・沙都子をその状況から救いだすために、ある「暴力」を行使する。
その描写には微塵の優しさもない。爆発しそうな心臓を無理やりに押さえつけなお、おさまらない緊張感。相手に暴力を振るい、それが確実に相手にダメージを負わせているという、えげつなくも絶対的な感触。相手を追い詰め、暴力の末に感じる錯覚の達成感。
そこに優しさはない。
暴力だけがそこにはある。
暴力を振るうことは簡単である。その理由も簡単であることが多い。
相手に自分の言うことをきかせたい。相手よりも上に立ちたい。相手の何かを奪いたい。
事実、沙都子の叔父はそんな簡単な理由で沙都子に虐待を行なっていた。
そこから分かるように、暴力という事実に優しさはない。
しかしいかにして暴力に至ったかに、優しさがあると私は感じたのだ。
優しいからこそ…、暴力に至るしかなかったのだと思う。
沙都子を助けたい。またあの楽しい日々の中に沙都子を戻してやりたい。また幸せそうに微笑んで、自分の名前を、あるいはどこかへ行ってしまった兄のかわりでもいい「にーにー」と呼んで欲しい。
ただ、それだけの、ささやかな、望み。
自分だけが助かりたいのならば、現状を変えることが無理だと思ったなら。
見捨ててしまえばいい。
なかったことにすればいい。
まるで沙都子など、最初からいなかったかのように…。
圭一は、優し過ぎたのだ。
「暴力」に、至ってしまう程に。
だが「暴力」は贖罪を持って還される。
それがどんな形の、例え優しさが理由の暴力にせよ暴力には贖罪が伴わねばならない。
圭一も例外ではない。圭一は受けることになる。飛び切りの贖罪を…。
「ひぐらしのなく頃に 祟殺し編」は、惨劇が起きる物語だ。見るも無残な物語だ。残酷な物語だ。可哀想な物語だ。救われない物語だ。報われない物語だ。やりきれない物語だ。
―――でも『優しい暴力』と贖罪の物語でもある、と私は思うのだ。
・残酷だと思った。
・沙都子が可哀想だと思った。
・救われないと思ったし、報われないと思った …エトセトラエトセトラ
私も初めはそう思ったし、その時はそう思っただけで終わってしまった。(その時は、ゲーム版と漫画版、アニメ。三つ形での「ひぐらしのなく頃に 祟殺し編」を見ていたというのに)しかしここに来て今一度活字という形で物語を再体験した結果、この物語を表すワードをふと思いついた。
それは――『優しい暴力』、だ。
『優しい暴力』。
なんとも矛盾した言葉の組み合わせではある。
「暴力」に優しさなど存在するのかどうか、と聞かれれば大抵の人は「ない」というだろう。
無論、冗談では済まないくらい痛いデコピンや、おともだちパンチなどを除いた純粋な「暴力」としての話である。(そこには言葉の暴力も含まれる)
そう、暴力は暴力でしかなく一片の言い訳を挟むまでもなく、暴力でしかない。
暴力は醜いものであり、あってはならないものであり、忌避すべきものであり、ましてや――己が誰かに対して暴力を振るうなど決してやってはいけないことなのだ。
ではなぜ優しいのだろう。
「ひぐらしのなく頃に 祟殺し編」で、主人公・圭一は、叔父から虐待を受ける仲間・沙都子をその状況から救いだすために、ある「暴力」を行使する。
その描写には微塵の優しさもない。爆発しそうな心臓を無理やりに押さえつけなお、おさまらない緊張感。相手に暴力を振るい、それが確実に相手にダメージを負わせているという、えげつなくも絶対的な感触。相手を追い詰め、暴力の末に感じる錯覚の達成感。
そこに優しさはない。
暴力だけがそこにはある。
暴力を振るうことは簡単である。その理由も簡単であることが多い。
相手に自分の言うことをきかせたい。相手よりも上に立ちたい。相手の何かを奪いたい。
事実、沙都子の叔父はそんな簡単な理由で沙都子に虐待を行なっていた。
そこから分かるように、暴力という事実に優しさはない。
しかしいかにして暴力に至ったかに、優しさがあると私は感じたのだ。
優しいからこそ…、暴力に至るしかなかったのだと思う。
沙都子を助けたい。またあの楽しい日々の中に沙都子を戻してやりたい。また幸せそうに微笑んで、自分の名前を、あるいはどこかへ行ってしまった兄のかわりでもいい「にーにー」と呼んで欲しい。
ただ、それだけの、ささやかな、望み。
自分だけが助かりたいのならば、現状を変えることが無理だと思ったなら。
見捨ててしまえばいい。
なかったことにすればいい。
まるで沙都子など、最初からいなかったかのように…。
圭一は、優し過ぎたのだ。
「暴力」に、至ってしまう程に。
だが「暴力」は贖罪を持って還される。
それがどんな形の、例え優しさが理由の暴力にせよ暴力には贖罪が伴わねばならない。
圭一も例外ではない。圭一は受けることになる。飛び切りの贖罪を…。
「ひぐらしのなく頃に 祟殺し編」は、惨劇が起きる物語だ。見るも無残な物語だ。残酷な物語だ。可哀想な物語だ。救われない物語だ。報われない物語だ。やりきれない物語だ。
―――でも『優しい暴力』と贖罪の物語でもある、と私は思うのだ。