サクラコ・アトミカ
奇跡の構造
レビュアー:大和
サクラコ・アトミカはSF作品でありボーイミーツガールであり、直球勝負のラブストーリーだ。「想像力」というキーワードを軸に進むこの物語は、まるで読者にアジテーションを試みるかのごとく、力強いことばを投げかけながら読者と作品との間に奇跡を起こそうとする。サクラコ・アトミカが起こそうとする奇跡は、フィクションを発展させる可能性に満ちている。それは僕の胸を強く躍らせるものだ。僕は今から、ここにある奇跡について語りたい。
まず作品の概要に触れておこう。サクラコ・アトミカは星海社FICTIONSより出版された、犬村小六によるSF小説だ。ヒロインであるサクラコは、あらゆる人間が絶対的に美しいと感じてしまう「世界一の美少女」だった。畸形都市・丁都の支配者であるディドル・オルガは、彼女の存在から「サクラコの美しさが世界を滅ぼす」という一文を思いつく。あらゆる想像を現実にしてしまう魔法のような能力を持っていたオルガは、その一文だけを根拠に「原子塔」を創造する。それはサクラコの美しさを原子の矢に変換して世界の都市に撃ち出すという悪夢の装置だった。原子塔の稼働が間近に差し迫る中、丁都に囚われていたサクラコは、牢の番人でありオルガの作りだした生物であるナギと出会う。やがてサクラコとナギは惹かれあい、丁都からの脱出を試みる――
この作品が持つ魅力の一つは、サクラコとナギが見せる真っすぐなラブストーリーだ。見ているこっちが恥ずかしくなってしまいそうなくらい、純粋な気持ちを二人は叫び、謳い、ぶつけ合う。この物語は徹頭徹尾、サクラコとナギが結ばれ、幸せになることを目指して進んで行き、最後にはハッピーエンドを掴み取る。しかしハッピーエンドがもたらされるのは、愛の力によってではない。二人は想像力によって未来を掴み取るのだ。そう、この作品で特筆すべきは「想像力」というモチーフだ。
例えば戦闘シーンに目を向けてみよう。そこではまさに「想像力」による戦闘が行われる。作中の説明を借りれば、“より強力な想像力を持った方が相手の想像力へ干渉し、物理空間を自分の都合の良いように変質させる”というものだ。簡単に言えば、この世界には「想像力によって現実を好き勝手に書き変える能力」を持った連中がいて、彼ら同士の戦いでは想像力が強い方が勝つ、というわけだ。
また、サクラコの設定を見てみよう。サクラコは美少女だが、どんな美少女かは描写されない。その代わり、彼女には「観測する主体によって美しさが変わる」という表現が用いられる。簡単に言えば、それは「サクラコは世界一の美少女だ」ということが世界によって(あるいは作者によって)絶対的なルールとして決められている、ということだ。つまりは「サクラコは誰にとっても世界一の美少女なので、あなたが思う世界一の美少女を想像してください」と言っているようなものだ。
このように、サクラコ・アトミカという作品は、登場人物たちが「想像力」を働かせると同時に、読者にも「想像力」を働かせるよう強く要請してくる。何故そう振る舞うのだろう? それはこの作品が、ただひたすらに「想像力の大切さ」をテーマとし、それを謳い上げるものとして作られているからだ。そしてそれを徹底的に描くために、「小説世界が形成される領域」を最大限に利用しようとするからだ。
「小説世界が形成される領域」とは何か。簡単に言えば、それは「読者の頭の中」ということだ。小説は文字が並べられたページに作品世界が存在するわけではない。文章を読むことによって、読者の頭の中にイメージが浮かび上がり――そのイメージにおいてこそ、小説の世界は初めて形作られるものだ。つまり物語においてサクラコやナギが強く想像力を働かせようとする時、そんな彼らを思い浮かべようとして、僕らも強く想像力を働かせているのだ。
そのことを強く自覚しながらサクラコ・アトミカという物語は書かれている。それが最も結実するのは終盤の展開だろう。ナギとサクラコはもはや滅び去るしかないような状況に置かれながらも、未来への祈りという形で「想像力」を働かせ、二人にとっての現実――つまり物語世界の運命を書き変えようとする。そこでサクラコが放つ言葉の一つ一つは、ナギを激励するようでありながら、同時に読者が二人の無事を祈り、想像するよう説得するかのようだ。二人の願いと読者の願いが徐々にシンクロしていきながら、ナギとサクラコは想像力によってその願いを成就させ、物語はハッピーエンドを迎える。
ここで行われているのは、「ナギやサクラコの願い・祈り」と「読者の願い・祈り」を同一化してしまおうとする試みだ。両者を徐々に接近させていき、その差が限りなくゼロに近づいた時、僕らはまるで、自分たちの祈りがナギとサクラコを救ったかのように錯覚してしまう。無論、それはどこまで行っても錯覚でしかない。たとえ僕らが願おうと願うまいと、小説に並べられた文章は変わらない。そういう意味で言えば、サクラコとナギがハッピーエンドを迎えることは最初から決まっている。
だからサクラコ・アトミカが目指しているのは、そこにある錯覚を、読者に信じさせようとすることだ。言い換えれば、それは読者の祈りが二人を救ったということを――つまり「奇跡が起こった」ということを、読者に受け入れさせようとするものだ。読者が奇跡を受け入れた時、物語は読者の願いによってハッピーエンドを迎え、読者は「想像力」の力を、大切さを、尊さを思い知る――そうなることをサクラコ・アトミカという作品は望んでいる。
だが、ここにある種の危うさを見つけることができるだろう。読者が願うことによって、想像力の力によって、奇跡が起きる――それはあまりにも、「何でもあり」すぎるのではないか? そうやって奇跡が起きてハッピーエンドになるなんて、都合が良すぎるのではないか?
こういった疑問は必ずしも間違いではない。例えばサクラコ・アトミカにしても、終盤に起こる奇跡はかなり強引で、見ようによっては「ご都合主義」であるとも言える。そう意識してしまった時、往々にして読者はしらけてしまうものだ。
しかしここで確認しておきたいのは、あらゆるフィクションは作者の都合によって作られている、という事実であり前提だ。「ご都合主義」か否かという問題は、作者の都合が分かりやすいか分かりにくいか、という問題でしかない。物語を面白くするため、ジャンル的な要請、編集者からの要望――どんな事情があり、どんな展開であろうと、それは作者によって選択されたものだ。
例えば私小説であっても現実をベースにした恋愛小説であっても理路整然と推理が披露されるミステリーであっても、実のところ「何でもあり」であることに変わりは無い。そしてあらゆるフィクションは「何でもあり」であるという前提から最初の一歩を踏み出し、そしてその前提を隠すことによって意味や価値を生み出そうとするものだ。「何でもあり」だからこそ多種多様な物語が生まれ、僕らはそれらを楽しむことができる。けれど僕らがそれらを楽しむ時、元々は「何でもあり」だった、という地点に戻ったりはしないだろう。例えばミステリーであればミステリー的な秩序によってその前提は隠されるだろう。あるいは荒唐無稽で何でもありに見えるギャグ漫画であっても、そこにはその漫画なりの秩序が存在するだろう。「何でもあり」の上に最初の一歩を踏み出す作者に対し、読者はその「前提を隠している秩序」の上に最初の一歩を踏み出すのだ。そうやって前提が隠され続け、それが成功している限り、僕らは現実に引き戻されることも作者の都合を意識することもなく、ただ作品を楽しむことができる。
もちろん、現実を意識したり作者の都合を意識したりすることが、作品を楽しめないということとイコールにはならない。むしろそういった部分を踏まえた楽しみ方は常套手段とも言えるだろう。だが多くの場合、そういった楽しみ方は、受け手が自分の意思によって選択しているはずだ。そういった楽しみ方は、あらゆる作品において元から読者に許されている。だからここで問題になるのは、そういった視点にしか立てなくなってしまうことだ。作品が「何でもあり」であること――つまり虚構であることを必要以上に意識させてしまう時、読者はその作品世界が真に存在するかのように「入り込む」ことが難しくなってしまう。言うなれば、読者と作品世界との間にある種の「距離」が生まれてしまう。
そしてこの点において、サクラコ・アトミカは一つの困難を抱えている。実のところ、この作品はかなりメタフィクションに近い構造をしている。それはつまり、作品全体が「作品が虚構であること」を読者に強く意識させてしまう、ということだ。
とはいえメタフィクションといってもピンからキリまである。例えば漫画において、キャラクターがコマの枠を認識しているかのように振る舞ったり、「締め切りに間に合わない」「背景を書くのが大変になる」という感じで作者の都合に言及したりするようなギャグやネタのようなものも、メタフィクションといえばメタフィクションだろう。だが多くの場合、メタフィクションは自己言及性や実験性と結びつき発展してきた。それは特にミステリーやSFにおいて顕著に見られる。そしてサクラコ・アトミカが用いる「想像力」「世界一の美少女」といったモチーフや終盤で起こる奇跡は、読者を作品に強く介入させようとする(まるで読者が作品に介入することが可能であるかのように振る舞う)もので、それは自己言及性や実験性を伴うメタフィクションにとても近いものだ。
もちろん強くメタフィクションであろうとする時――つまり作品が虚構であることを意識させようとする時、作品はそもそも「そう意識させること」を目的としているし、そうすることによって初めて語れることもある。例えば「ミステリーとは何か?」「SFとは何か?」「フィクションであるとはどういうことか?」「なぜ僕らはフィクションを求めるのか?」――そういった自己言及的なテーマは、メタフィクションであることによってむしろ効果的に語られる。しかしその目的が前に出てきた時、同時に僕らは作品が虚構であることを強く意識するがゆえに、そこにある種の「距離」を感じてしまうだろう。その「距離」には、読者が作品を素直に楽しめなくなってしまうような――つまり、読者をしらけさせてしまうような危険性が常に伴うことになる。だからメタフィクション的な作品を作る作家達は、様々な手法によってその困難を回避しようと試みてきた。
そしてサクラコ・アトミカは、こういった困難に対して一つの優れた解答を出している。ここでサクラコ・アトミカが利用しているのはジャンル的な定型性――いわば、ある種の「ベタさ」ともいうべきものだ。例えば「想像力」「世界一の美少女」といったモチーフは異能バトルや美少女キャラクターといった、ある種ライトノベル的なお決まりのパターンに接続されることでメタ性が前面に出ることを回避している。何故そうすることで回避できるのか? それは定型性が読者の解釈を助けている――つまり定型的な枠組みの中に収まることによってメタ性の前面化が抑えられている、という部分もあるだろう。でも僕が思うに、重要なのはむしろメタ性よりも違うものが前面化することだ。そこで前面化するのは、ある種ベタで、どこかジュブナイルじみた感覚――言うなれば「純朴さ」とでも表現すべきものだ。
ボーイミーツガール/純愛的なラブストーリー、「想像力」という直球な言葉づかい、アジテーションじみた強い台詞・ことばの数々、片山若子による童話を思わせるような淡く美しいイラスト……そういった要素が次々と積み重ねられ、作品全体は「純朴さ」とも言うべき雰囲気・感触を帯びて行く。その力が最も発揮されるのは、終盤で起こる奇跡のシーンだ。先述したように、ここで起きる奇跡はかなり「都合がいい」ものだと言える。だがその都合の良さは、作品全体を満たす「純朴さ」によって、むしろ「作者の切実な祈り・メッセージ」として作品のテーマを強く打ち出すことになり、奇跡に説得力を持たせることに貢献する。言うなれば、多くの作品が「ご都合主義」であることを避けようとして、物語に様々な秩序や理を通そうとするのに対し――サクラコ・アトミカという作品は、「純朴さ」が作用することによって、むしろ「ご都合主義」であることこそが(テーマを描くための)最も効果的な展開として機能するように価値を転倒させてしまうのだ。それによって、サクラコ・アトミカはメタ性の高いギミックによって「何でもあり」であるかのような自由さを獲得しながら、同時にメタ性の高いギミックが感じさせてしまいがちな「距離」を感じさせないことに成功している。
ここには批判も考えられるだろう。その「純朴さ」は誰にとっても通用するとは限らず、やはりこの物語を「ご都合主義的」だと受け取ってしまう人は少なからずいるはずだ――それはそうだろう。だがそもそもフィクションとは、究極的にはあらゆる人物にとって価値があるものではありえない。どんな小説も、どんなメッセージも、限られた人にしか届かない。それは当然のことだ。だからこそ、ただ素朴に「奇跡」が起こる物語を描いただけでは「ご都合主義」にしかならない。
ならば逆に、「奇跡」が「奇跡」として成立するために必要なのは、それが「奇跡」だと読者が信じることであり――それを信じる読者にとっては、そこに確かな「奇跡」が起こっていると言えるだろう。つまり万人に届くフィクションは究極的には存在しえない以上、個々の読者と作品の間で起こるものだけがフィクションに可能な「奇跡」なのではないだろうか。ならば「純朴さ」によって奇跡に説得力を持たせるサクラコ・アトミカの構造は、十分に奇跡を起こしうる構造だと言える。
この構造はサクラコ・アトミカだけでなく、他の作品やジャンルにおいても奇跡を起こしうる、あるいは奇跡を起こすヒントになるものではないかと思う。例えばそれは、ミステリーにおける「読者が犯人になる」というモチーフに転用できるのではないか? ミステリーでは「意外な犯人」を求める流れの一つとして「読者が犯人になる」という構造をもった作品がいくつか作られてきた。だが厳密な意味においてそれを成立させた作品はほとんど無いと言っていい。と言うより、そもそも僕らは犯人ではない(犯人であるはずがない)のだから、それは根本的に不可能なことへの挑戦であり、それを成功させるには奇跡を起こすしかないと言ってもいいだろう。もちろんサクラコ・アトミカ自体はミステリーではない。だがサクラコ・アトミカが起こそうとする奇跡を受け入れた時、僕らはサクラコとナギを救った犯人になっている、と解釈することもできるはずだ。
とはいえ、この意見には首肯しづらい人もいるだろう。ミステリーには元々(作者が読者にクイズを出すような)知的ゲームとしての側面がある。だから多くの場合、ミステリーにおける謎の解決には明快なロジックが求められる。言い換えれば、数学のように証明してみせることが求められる。それはサクラコ・アトミカのように、心に訴えかけて奇跡を受け入れるよう説得するような態度とは一見して真逆にも見える。
だが、僕ら読者は犯人ではありえない――つまりそもそも厳密な「証明」は不可能だということを踏まえ、そしてフィクションはそもそも虚構であり「何でもあり」であるという前提を踏まえた時、実のところ「読者が犯人になる」というモチーフにおいては、「数学的に証明してみせる」態度も「心に訴えかける」態度も、等しく「説得する」ための行為なのではないだろうか? ならばサクラコ・アトミカ自体が「読者が犯人になる」というモチーフの困難をクリアしていると言い切れなくても、そこにモチーフへの挑戦を更新するための可能性が眠っていると見ることは可能なのではないだろうか。
今、僕は胸を張って言おう。僕はサクラコ・アトミカが好きだ。サクラコ・アトミカには色んな魅力があって、そのどれもにレビューを書かせるだけの力がある。そして僕を最も惹きつけるのは、サクラコ・アトミカを支える奇跡の構造だ。そこに秘められた可能性は、僕にフィクションの未来を感じさせてくれる。
まず作品の概要に触れておこう。サクラコ・アトミカは星海社FICTIONSより出版された、犬村小六によるSF小説だ。ヒロインであるサクラコは、あらゆる人間が絶対的に美しいと感じてしまう「世界一の美少女」だった。畸形都市・丁都の支配者であるディドル・オルガは、彼女の存在から「サクラコの美しさが世界を滅ぼす」という一文を思いつく。あらゆる想像を現実にしてしまう魔法のような能力を持っていたオルガは、その一文だけを根拠に「原子塔」を創造する。それはサクラコの美しさを原子の矢に変換して世界の都市に撃ち出すという悪夢の装置だった。原子塔の稼働が間近に差し迫る中、丁都に囚われていたサクラコは、牢の番人でありオルガの作りだした生物であるナギと出会う。やがてサクラコとナギは惹かれあい、丁都からの脱出を試みる――
この作品が持つ魅力の一つは、サクラコとナギが見せる真っすぐなラブストーリーだ。見ているこっちが恥ずかしくなってしまいそうなくらい、純粋な気持ちを二人は叫び、謳い、ぶつけ合う。この物語は徹頭徹尾、サクラコとナギが結ばれ、幸せになることを目指して進んで行き、最後にはハッピーエンドを掴み取る。しかしハッピーエンドがもたらされるのは、愛の力によってではない。二人は想像力によって未来を掴み取るのだ。そう、この作品で特筆すべきは「想像力」というモチーフだ。
例えば戦闘シーンに目を向けてみよう。そこではまさに「想像力」による戦闘が行われる。作中の説明を借りれば、“より強力な想像力を持った方が相手の想像力へ干渉し、物理空間を自分の都合の良いように変質させる”というものだ。簡単に言えば、この世界には「想像力によって現実を好き勝手に書き変える能力」を持った連中がいて、彼ら同士の戦いでは想像力が強い方が勝つ、というわけだ。
また、サクラコの設定を見てみよう。サクラコは美少女だが、どんな美少女かは描写されない。その代わり、彼女には「観測する主体によって美しさが変わる」という表現が用いられる。簡単に言えば、それは「サクラコは世界一の美少女だ」ということが世界によって(あるいは作者によって)絶対的なルールとして決められている、ということだ。つまりは「サクラコは誰にとっても世界一の美少女なので、あなたが思う世界一の美少女を想像してください」と言っているようなものだ。
このように、サクラコ・アトミカという作品は、登場人物たちが「想像力」を働かせると同時に、読者にも「想像力」を働かせるよう強く要請してくる。何故そう振る舞うのだろう? それはこの作品が、ただひたすらに「想像力の大切さ」をテーマとし、それを謳い上げるものとして作られているからだ。そしてそれを徹底的に描くために、「小説世界が形成される領域」を最大限に利用しようとするからだ。
「小説世界が形成される領域」とは何か。簡単に言えば、それは「読者の頭の中」ということだ。小説は文字が並べられたページに作品世界が存在するわけではない。文章を読むことによって、読者の頭の中にイメージが浮かび上がり――そのイメージにおいてこそ、小説の世界は初めて形作られるものだ。つまり物語においてサクラコやナギが強く想像力を働かせようとする時、そんな彼らを思い浮かべようとして、僕らも強く想像力を働かせているのだ。
そのことを強く自覚しながらサクラコ・アトミカという物語は書かれている。それが最も結実するのは終盤の展開だろう。ナギとサクラコはもはや滅び去るしかないような状況に置かれながらも、未来への祈りという形で「想像力」を働かせ、二人にとっての現実――つまり物語世界の運命を書き変えようとする。そこでサクラコが放つ言葉の一つ一つは、ナギを激励するようでありながら、同時に読者が二人の無事を祈り、想像するよう説得するかのようだ。二人の願いと読者の願いが徐々にシンクロしていきながら、ナギとサクラコは想像力によってその願いを成就させ、物語はハッピーエンドを迎える。
ここで行われているのは、「ナギやサクラコの願い・祈り」と「読者の願い・祈り」を同一化してしまおうとする試みだ。両者を徐々に接近させていき、その差が限りなくゼロに近づいた時、僕らはまるで、自分たちの祈りがナギとサクラコを救ったかのように錯覚してしまう。無論、それはどこまで行っても錯覚でしかない。たとえ僕らが願おうと願うまいと、小説に並べられた文章は変わらない。そういう意味で言えば、サクラコとナギがハッピーエンドを迎えることは最初から決まっている。
だからサクラコ・アトミカが目指しているのは、そこにある錯覚を、読者に信じさせようとすることだ。言い換えれば、それは読者の祈りが二人を救ったということを――つまり「奇跡が起こった」ということを、読者に受け入れさせようとするものだ。読者が奇跡を受け入れた時、物語は読者の願いによってハッピーエンドを迎え、読者は「想像力」の力を、大切さを、尊さを思い知る――そうなることをサクラコ・アトミカという作品は望んでいる。
だが、ここにある種の危うさを見つけることができるだろう。読者が願うことによって、想像力の力によって、奇跡が起きる――それはあまりにも、「何でもあり」すぎるのではないか? そうやって奇跡が起きてハッピーエンドになるなんて、都合が良すぎるのではないか?
こういった疑問は必ずしも間違いではない。例えばサクラコ・アトミカにしても、終盤に起こる奇跡はかなり強引で、見ようによっては「ご都合主義」であるとも言える。そう意識してしまった時、往々にして読者はしらけてしまうものだ。
しかしここで確認しておきたいのは、あらゆるフィクションは作者の都合によって作られている、という事実であり前提だ。「ご都合主義」か否かという問題は、作者の都合が分かりやすいか分かりにくいか、という問題でしかない。物語を面白くするため、ジャンル的な要請、編集者からの要望――どんな事情があり、どんな展開であろうと、それは作者によって選択されたものだ。
例えば私小説であっても現実をベースにした恋愛小説であっても理路整然と推理が披露されるミステリーであっても、実のところ「何でもあり」であることに変わりは無い。そしてあらゆるフィクションは「何でもあり」であるという前提から最初の一歩を踏み出し、そしてその前提を隠すことによって意味や価値を生み出そうとするものだ。「何でもあり」だからこそ多種多様な物語が生まれ、僕らはそれらを楽しむことができる。けれど僕らがそれらを楽しむ時、元々は「何でもあり」だった、という地点に戻ったりはしないだろう。例えばミステリーであればミステリー的な秩序によってその前提は隠されるだろう。あるいは荒唐無稽で何でもありに見えるギャグ漫画であっても、そこにはその漫画なりの秩序が存在するだろう。「何でもあり」の上に最初の一歩を踏み出す作者に対し、読者はその「前提を隠している秩序」の上に最初の一歩を踏み出すのだ。そうやって前提が隠され続け、それが成功している限り、僕らは現実に引き戻されることも作者の都合を意識することもなく、ただ作品を楽しむことができる。
もちろん、現実を意識したり作者の都合を意識したりすることが、作品を楽しめないということとイコールにはならない。むしろそういった部分を踏まえた楽しみ方は常套手段とも言えるだろう。だが多くの場合、そういった楽しみ方は、受け手が自分の意思によって選択しているはずだ。そういった楽しみ方は、あらゆる作品において元から読者に許されている。だからここで問題になるのは、そういった視点にしか立てなくなってしまうことだ。作品が「何でもあり」であること――つまり虚構であることを必要以上に意識させてしまう時、読者はその作品世界が真に存在するかのように「入り込む」ことが難しくなってしまう。言うなれば、読者と作品世界との間にある種の「距離」が生まれてしまう。
そしてこの点において、サクラコ・アトミカは一つの困難を抱えている。実のところ、この作品はかなりメタフィクションに近い構造をしている。それはつまり、作品全体が「作品が虚構であること」を読者に強く意識させてしまう、ということだ。
とはいえメタフィクションといってもピンからキリまである。例えば漫画において、キャラクターがコマの枠を認識しているかのように振る舞ったり、「締め切りに間に合わない」「背景を書くのが大変になる」という感じで作者の都合に言及したりするようなギャグやネタのようなものも、メタフィクションといえばメタフィクションだろう。だが多くの場合、メタフィクションは自己言及性や実験性と結びつき発展してきた。それは特にミステリーやSFにおいて顕著に見られる。そしてサクラコ・アトミカが用いる「想像力」「世界一の美少女」といったモチーフや終盤で起こる奇跡は、読者を作品に強く介入させようとする(まるで読者が作品に介入することが可能であるかのように振る舞う)もので、それは自己言及性や実験性を伴うメタフィクションにとても近いものだ。
もちろん強くメタフィクションであろうとする時――つまり作品が虚構であることを意識させようとする時、作品はそもそも「そう意識させること」を目的としているし、そうすることによって初めて語れることもある。例えば「ミステリーとは何か?」「SFとは何か?」「フィクションであるとはどういうことか?」「なぜ僕らはフィクションを求めるのか?」――そういった自己言及的なテーマは、メタフィクションであることによってむしろ効果的に語られる。しかしその目的が前に出てきた時、同時に僕らは作品が虚構であることを強く意識するがゆえに、そこにある種の「距離」を感じてしまうだろう。その「距離」には、読者が作品を素直に楽しめなくなってしまうような――つまり、読者をしらけさせてしまうような危険性が常に伴うことになる。だからメタフィクション的な作品を作る作家達は、様々な手法によってその困難を回避しようと試みてきた。
そしてサクラコ・アトミカは、こういった困難に対して一つの優れた解答を出している。ここでサクラコ・アトミカが利用しているのはジャンル的な定型性――いわば、ある種の「ベタさ」ともいうべきものだ。例えば「想像力」「世界一の美少女」といったモチーフは異能バトルや美少女キャラクターといった、ある種ライトノベル的なお決まりのパターンに接続されることでメタ性が前面に出ることを回避している。何故そうすることで回避できるのか? それは定型性が読者の解釈を助けている――つまり定型的な枠組みの中に収まることによってメタ性の前面化が抑えられている、という部分もあるだろう。でも僕が思うに、重要なのはむしろメタ性よりも違うものが前面化することだ。そこで前面化するのは、ある種ベタで、どこかジュブナイルじみた感覚――言うなれば「純朴さ」とでも表現すべきものだ。
ボーイミーツガール/純愛的なラブストーリー、「想像力」という直球な言葉づかい、アジテーションじみた強い台詞・ことばの数々、片山若子による童話を思わせるような淡く美しいイラスト……そういった要素が次々と積み重ねられ、作品全体は「純朴さ」とも言うべき雰囲気・感触を帯びて行く。その力が最も発揮されるのは、終盤で起こる奇跡のシーンだ。先述したように、ここで起きる奇跡はかなり「都合がいい」ものだと言える。だがその都合の良さは、作品全体を満たす「純朴さ」によって、むしろ「作者の切実な祈り・メッセージ」として作品のテーマを強く打ち出すことになり、奇跡に説得力を持たせることに貢献する。言うなれば、多くの作品が「ご都合主義」であることを避けようとして、物語に様々な秩序や理を通そうとするのに対し――サクラコ・アトミカという作品は、「純朴さ」が作用することによって、むしろ「ご都合主義」であることこそが(テーマを描くための)最も効果的な展開として機能するように価値を転倒させてしまうのだ。それによって、サクラコ・アトミカはメタ性の高いギミックによって「何でもあり」であるかのような自由さを獲得しながら、同時にメタ性の高いギミックが感じさせてしまいがちな「距離」を感じさせないことに成功している。
ここには批判も考えられるだろう。その「純朴さ」は誰にとっても通用するとは限らず、やはりこの物語を「ご都合主義的」だと受け取ってしまう人は少なからずいるはずだ――それはそうだろう。だがそもそもフィクションとは、究極的にはあらゆる人物にとって価値があるものではありえない。どんな小説も、どんなメッセージも、限られた人にしか届かない。それは当然のことだ。だからこそ、ただ素朴に「奇跡」が起こる物語を描いただけでは「ご都合主義」にしかならない。
ならば逆に、「奇跡」が「奇跡」として成立するために必要なのは、それが「奇跡」だと読者が信じることであり――それを信じる読者にとっては、そこに確かな「奇跡」が起こっていると言えるだろう。つまり万人に届くフィクションは究極的には存在しえない以上、個々の読者と作品の間で起こるものだけがフィクションに可能な「奇跡」なのではないだろうか。ならば「純朴さ」によって奇跡に説得力を持たせるサクラコ・アトミカの構造は、十分に奇跡を起こしうる構造だと言える。
この構造はサクラコ・アトミカだけでなく、他の作品やジャンルにおいても奇跡を起こしうる、あるいは奇跡を起こすヒントになるものではないかと思う。例えばそれは、ミステリーにおける「読者が犯人になる」というモチーフに転用できるのではないか? ミステリーでは「意外な犯人」を求める流れの一つとして「読者が犯人になる」という構造をもった作品がいくつか作られてきた。だが厳密な意味においてそれを成立させた作品はほとんど無いと言っていい。と言うより、そもそも僕らは犯人ではない(犯人であるはずがない)のだから、それは根本的に不可能なことへの挑戦であり、それを成功させるには奇跡を起こすしかないと言ってもいいだろう。もちろんサクラコ・アトミカ自体はミステリーではない。だがサクラコ・アトミカが起こそうとする奇跡を受け入れた時、僕らはサクラコとナギを救った犯人になっている、と解釈することもできるはずだ。
とはいえ、この意見には首肯しづらい人もいるだろう。ミステリーには元々(作者が読者にクイズを出すような)知的ゲームとしての側面がある。だから多くの場合、ミステリーにおける謎の解決には明快なロジックが求められる。言い換えれば、数学のように証明してみせることが求められる。それはサクラコ・アトミカのように、心に訴えかけて奇跡を受け入れるよう説得するような態度とは一見して真逆にも見える。
だが、僕ら読者は犯人ではありえない――つまりそもそも厳密な「証明」は不可能だということを踏まえ、そしてフィクションはそもそも虚構であり「何でもあり」であるという前提を踏まえた時、実のところ「読者が犯人になる」というモチーフにおいては、「数学的に証明してみせる」態度も「心に訴えかける」態度も、等しく「説得する」ための行為なのではないだろうか? ならばサクラコ・アトミカ自体が「読者が犯人になる」というモチーフの困難をクリアしていると言い切れなくても、そこにモチーフへの挑戦を更新するための可能性が眠っていると見ることは可能なのではないだろうか。
今、僕は胸を張って言おう。僕はサクラコ・アトミカが好きだ。サクラコ・アトミカには色んな魅力があって、そのどれもにレビューを書かせるだけの力がある。そして僕を最も惹きつけるのは、サクラコ・アトミカを支える奇跡の構造だ。そこに秘められた可能性は、僕にフィクションの未来を感じさせてくれる。