エレGY
背中を押してくれる奇跡
レビュアー:大和
エレGYは、すごいヤツだと思う。
泉和良のブログ――パンツ姿の画像を送れという記事を見て、彼女は本当にパンツ姿の画像を撮影して、想いが込められた文章と共に送ってしまった。そうしてエレGYの踏み出した一歩によって、2人は出会い、惹かれあう。
泉和良の視点に立つと、エレGYという破天荒な少女に振り回されている状況にも思えるのだけど、当のエレGYからすれば、それはひどく勇気の要ることだったに違いない。ずっと憧れていた人に、思い切って近付いてみる。それもパンツ姿なんていう大胆なものをきっかけにして。先に送れと言ったのは泉和良の方だけど、実際ブログの記事だけじゃ、どこまで本気なのか分からないし、書いた時は本気だったとしても、実際に送られて来たら引いてしまうかもしれない。
けれどそんな諸々の可能性を蹴飛ばして、エレGYはパンツ姿を送ってみせた。あるいはずっと追いかけてきたエレGYには泉和良の本気さが伝わったのかもしれない。その大胆さが泉和良に十分通用するものだと分かっていたのかもしれない。あるいはリスクなんて考えられなくらい彼女も必死だったのかもしれない。けどそれにしたって、中々できることじゃないと、僕は思う。少なくとも、そこには決意があったはずだ。
新たな一歩を踏み出す決意。
それは、泉和良に救いをもたらす。
彼はずっと『ジスカルドの魔法』によって苦しんでいた。『ジスカルドの魔法』とは何か。簡単に言えば、それは相手をよく知らないが故の過剰な期待を利用した処世術だ。ネット上のコミュニケーションは相手の実態が見えない分、都合のいい幻想を相手に抱くことができる。泉和良はそれを利用して、自分がネット上で演じるジスカルドという人物を「世の中に理解されない天才」とでもいうようなキャラクターに仕立て上げ、固定ファンを獲得していた。収入を得るために編み出した苦肉の策だった。
だがそれは、あくまでネット上だからこそ作り上げることのできたイメージだった。多くの女性が『ジスカルドの魔法』に引き寄せられ、彼に近づき、そして等身大の泉和良を見て、その魔法から覚めていった。いつしか彼の心には「相手が見ているのはジスカルドであって泉和良ではない」という想いがこびり付いて取れなくなってしまった。
だがエレGYは、泉和良の悩みを否定する。
”ジスカルドも泉和良も、両方併せておまえだろ!!”
”泉和良からジスカルドを消したら、泉和良じゃなくなると思う。どっちが欠けても駄目……、全部併せてじすさんでしょ?”
実のところ、これは泉和良だけが特別に出遭った問題ではなく、誰もが直面しうる問題だ。僕らは接する相手や属する共同体によってキャラを使い分ける。例えば友達といる時はふざけたことばかり言うお調子者だけど、職場に行くと物静かで、ネット上では小難しいことばかり喋る――そんな人は今時珍しくもなんともない。だが上手く適応できている時はいいが、時折僕らは演じるべきキャラクターと認めてほしい・受け入れてほしいキャラクターのギャップに苦しむ。泉和良が直面したのは、こういった自意識とキャラの問題が極端な形で現れたものだ。
それに対するエレGYの言葉は、崇高な思想や綺麗ごとなどでは決してなく、むしろ端的な事実だ。僕らはいくつものキャラを使い分けながら、しかしその中の一つだけが本物であとは偽物、なんてことは言えないはずだ。どのキャラにおける体験も、自分を形作る大切な要素となるはずだ。それを指摘してみせるエレGYの言葉は、あまりにも真っすぐで力強い。
泉和良とエレGYが出会ったことには必然性がある。泉和良が必死に生きてきたからこそ、いくつものゲームに想いをぶつけてきたからこそ、エレGYは彼の前に現れた。だが元を辿ればエレGYがジスカルドに出会った偶然があって、やっぱり2人の出会いは奇跡みたいなものでもあると思う。
だがその奇跡は、2人の間だけで完結していない。エレGYの踏み出した一歩、エレGYが放った強い言葉は、泉和良を奮い立たせ、そして『エレGY』という小説に刻まれ、多くの人に届けられた。そして泉和良が救われる様を、再び奮い立つ様を読んで、多くの人もまた、救いと勇気をもらっただろう。
僕もまた、この小説から勇気を受け取る。この小説には一つの奇跡が結実している。そして今もどこかで奇跡を起こしている。出会った読者に奇跡を起こし続けている。彼女が見せた勇気は、一体どれだけの人を救ってしまうのだろう?
いやはや、すごいヤツだ。とても敵わない。
この作品を胸に秘め、僕も踏み出すことにする。新たな一歩を。勇気が必要な一歩を。何も怖がらなくていい。怖がることを怖がらなくていい。躊躇しそうになった時、エレGYはそっと、僕の背中を押してくれる。
泉和良のブログ――パンツ姿の画像を送れという記事を見て、彼女は本当にパンツ姿の画像を撮影して、想いが込められた文章と共に送ってしまった。そうしてエレGYの踏み出した一歩によって、2人は出会い、惹かれあう。
泉和良の視点に立つと、エレGYという破天荒な少女に振り回されている状況にも思えるのだけど、当のエレGYからすれば、それはひどく勇気の要ることだったに違いない。ずっと憧れていた人に、思い切って近付いてみる。それもパンツ姿なんていう大胆なものをきっかけにして。先に送れと言ったのは泉和良の方だけど、実際ブログの記事だけじゃ、どこまで本気なのか分からないし、書いた時は本気だったとしても、実際に送られて来たら引いてしまうかもしれない。
けれどそんな諸々の可能性を蹴飛ばして、エレGYはパンツ姿を送ってみせた。あるいはずっと追いかけてきたエレGYには泉和良の本気さが伝わったのかもしれない。その大胆さが泉和良に十分通用するものだと分かっていたのかもしれない。あるいはリスクなんて考えられなくらい彼女も必死だったのかもしれない。けどそれにしたって、中々できることじゃないと、僕は思う。少なくとも、そこには決意があったはずだ。
新たな一歩を踏み出す決意。
それは、泉和良に救いをもたらす。
彼はずっと『ジスカルドの魔法』によって苦しんでいた。『ジスカルドの魔法』とは何か。簡単に言えば、それは相手をよく知らないが故の過剰な期待を利用した処世術だ。ネット上のコミュニケーションは相手の実態が見えない分、都合のいい幻想を相手に抱くことができる。泉和良はそれを利用して、自分がネット上で演じるジスカルドという人物を「世の中に理解されない天才」とでもいうようなキャラクターに仕立て上げ、固定ファンを獲得していた。収入を得るために編み出した苦肉の策だった。
だがそれは、あくまでネット上だからこそ作り上げることのできたイメージだった。多くの女性が『ジスカルドの魔法』に引き寄せられ、彼に近づき、そして等身大の泉和良を見て、その魔法から覚めていった。いつしか彼の心には「相手が見ているのはジスカルドであって泉和良ではない」という想いがこびり付いて取れなくなってしまった。
だがエレGYは、泉和良の悩みを否定する。
”ジスカルドも泉和良も、両方併せておまえだろ!!”
”泉和良からジスカルドを消したら、泉和良じゃなくなると思う。どっちが欠けても駄目……、全部併せてじすさんでしょ?”
実のところ、これは泉和良だけが特別に出遭った問題ではなく、誰もが直面しうる問題だ。僕らは接する相手や属する共同体によってキャラを使い分ける。例えば友達といる時はふざけたことばかり言うお調子者だけど、職場に行くと物静かで、ネット上では小難しいことばかり喋る――そんな人は今時珍しくもなんともない。だが上手く適応できている時はいいが、時折僕らは演じるべきキャラクターと認めてほしい・受け入れてほしいキャラクターのギャップに苦しむ。泉和良が直面したのは、こういった自意識とキャラの問題が極端な形で現れたものだ。
それに対するエレGYの言葉は、崇高な思想や綺麗ごとなどでは決してなく、むしろ端的な事実だ。僕らはいくつものキャラを使い分けながら、しかしその中の一つだけが本物であとは偽物、なんてことは言えないはずだ。どのキャラにおける体験も、自分を形作る大切な要素となるはずだ。それを指摘してみせるエレGYの言葉は、あまりにも真っすぐで力強い。
泉和良とエレGYが出会ったことには必然性がある。泉和良が必死に生きてきたからこそ、いくつものゲームに想いをぶつけてきたからこそ、エレGYは彼の前に現れた。だが元を辿ればエレGYがジスカルドに出会った偶然があって、やっぱり2人の出会いは奇跡みたいなものでもあると思う。
だがその奇跡は、2人の間だけで完結していない。エレGYの踏み出した一歩、エレGYが放った強い言葉は、泉和良を奮い立たせ、そして『エレGY』という小説に刻まれ、多くの人に届けられた。そして泉和良が救われる様を、再び奮い立つ様を読んで、多くの人もまた、救いと勇気をもらっただろう。
僕もまた、この小説から勇気を受け取る。この小説には一つの奇跡が結実している。そして今もどこかで奇跡を起こしている。出会った読者に奇跡を起こし続けている。彼女が見せた勇気は、一体どれだけの人を救ってしまうのだろう?
いやはや、すごいヤツだ。とても敵わない。
この作品を胸に秘め、僕も踏み出すことにする。新たな一歩を。勇気が必要な一歩を。何も怖がらなくていい。怖がることを怖がらなくていい。躊躇しそうになった時、エレGYはそっと、僕の背中を押してくれる。