非実在推理少女あ~や
ジャンルを飛び出す、破天荒な愛情
レビュアー:大和
この漫画は、読んでいて気持ちがいい。
なんてことのない感想のようで、これって実は、ちょっと不思議なことだと思う。
何故なら、僕はミステリーが好きなのだけど、『あ~や』という作品は皮肉たっぷりで、ミステリーを馬鹿にしているようにも読めるからだ。
例えば推理者の設定だ。『あ~や』という作品は、恣意的ミストによる現実の改窮が様々なドタバタを生みだすわけだけど、これって「名探偵の推理なんて所詮こじつけに過ぎないよね」と言ってるに等しい。でもそんな設定を見ても、僕は不快になるどころか、むしろ気に入ってしまった。何故だろう? 答えはすぐに見つかった。
この作品が、ミステリーに対する愛情に満ちているからだ。
一見して『あ~や』は破天荒な作品で、ミステリーというジャンルを否定するようにも見える。しかしこの作品はタイムスリップしたり巨大ロボが出たりしながらも、最後はきちんと崩壊者の生みだした不条理に理由を作ってみせる。デタラメな作風から一種のアンチテーゼとして読みたくなるような作品だけど、実はミステリーの形式自体は決して壊されていない。『あ~や』という作品がやっているのは、ミステリーの抱えた問題をきちんと見つめながらも、ミステリーの形式に注がれてきた愛情や歴史を否定せず、むしろ肯定するということなのだ。
こういった表現は現代において多く見られる。例えば最近話題の『魔法少女まどか☆マギカ』もそうだ。あの作品は魔法少女モノなのに、まどかは中々変身せず、戦う理由を探し続けた。それはジャンルに対する一種のアンチテーゼであるような素振りだけど、実際にはジャンルへの愛情を強く肯定する作品だった。
ミステリーの歴史に名を残す作品には、ジャンル内でそれまで当然として扱われてきた価値観を壊してしまうようなものが多々ある。虚無への供物、匣の中の失楽、十角館の殺人、コズミック/ジョーカー、etc。けれどそういった作品群はミステリーを否定するようでありながら、どれもミステリーに対する溢れんばかりの愛がある。愛があるからこそミステリーのことを真剣に考えずにはいられない作品たちなのだ。そして『あ~や』という作品も、そういった作品たちの魂を、溢れんばかりの愛を受け継いでいる。
アンチテーゼ的で破壊的なそれらの作品群と、むしろミステリーの型を守りジャンル性を肯定する『あ~や』という作品は真逆のことをやっているようにも思える。だが実のところ、結果的な方向性は違っても、そこに至るための前段階――「ミステリーを愛するからこそ」という部分は同じだ。何故違うベクトルの表現が出力されるのか?
そこには時代性が絡んでいる。
現代の表現はアンチテーゼであること自体にそれほど意味は無い。ただあえてルールを破るのであれば、それはむしろ予定調和の枠内であり、ミステリーファンへの目配せに過ぎない。無論、アンチテーゼ自体が無意味だということではない。だがこれだけ趣味や価値観が多様化してしまった現代では、ある程度の大きさをもったモノに対するアンチテーゼでなければ単なる内輪ウケで終わってしまう。そこには狭い界隈の中における「更新」はあるかもしれないが、ジャンルの未来を作る「発展」があるとは限らない。
でもこの作品は、ミステリーを知らない人が読んでも面白いように作られている。
ジャンルへの愛情とは中々難しいもので、そのジャンルが抱えた問題意識を深く扱えば扱うほど、そのジャンルについて詳しい人にしか伝わらなくなる危うさを秘めている。しかし『あ~や』という作品は、あえてミステリーというジャンルの枠から飛び出し、痛快で不条理で破天荒なギャグ漫画として振る舞うことで、逆に広い射程を持ったままミステリーが抱えた問題に言及することに成功している。(例えば探偵の倫理といった問題だ)そこに僕は、ミステリーに対する真摯な愛情を見ずにはいられない。
無論、この作品はミステリーへの愛のみによって創られたのではないだろう。様々な偶然や思惑があるのだろう。でもこの作品がミステリーへの愛に溢れていることは一目瞭然だ。例えば非実在推理少女というタイトルに込められた意味、バスカヴィルやアイリーン・アドラーといった名前のパロディ、破天荒なギャグ漫画でありながらきちんとミステリーの型を踏まえた「推理者」「観測者」「崩壊者」の構造、ミステリーに内在する問題への言及……そういった数々のこだわりを前にして、どうしてこの作品が、ミステリーに愛情を注いでいないと言えるだろう?
ミステリーが好きな人は、『あ~や』を読んでみてほしい。
ミステリーに対する愛情を感じとることができるだろう。
ミステリーが嫌いな人も、よく知らない人も、『あ~や』を読んでみてほしい。
ジャンルに愛情を注ぐとはどういうことか、『あ~や』は教えてくれるだろう。
この作品はミステリーを肯定する作品とも、ミステリーを皮肉る作品とも、ミステリーに縛られない自由でパワフルな作品とも読める。ありとあらゆる読み方ができる。その全てを『あ~や』という作品は肯定するだろう。でもやっぱり、『あ~や』を支えているのは、ミステリーというジャンルに対する、溢れんばかりの愛なのだと思う。
なんてことのない感想のようで、これって実は、ちょっと不思議なことだと思う。
何故なら、僕はミステリーが好きなのだけど、『あ~や』という作品は皮肉たっぷりで、ミステリーを馬鹿にしているようにも読めるからだ。
例えば推理者の設定だ。『あ~や』という作品は、恣意的ミストによる現実の改窮が様々なドタバタを生みだすわけだけど、これって「名探偵の推理なんて所詮こじつけに過ぎないよね」と言ってるに等しい。でもそんな設定を見ても、僕は不快になるどころか、むしろ気に入ってしまった。何故だろう? 答えはすぐに見つかった。
この作品が、ミステリーに対する愛情に満ちているからだ。
一見して『あ~や』は破天荒な作品で、ミステリーというジャンルを否定するようにも見える。しかしこの作品はタイムスリップしたり巨大ロボが出たりしながらも、最後はきちんと崩壊者の生みだした不条理に理由を作ってみせる。デタラメな作風から一種のアンチテーゼとして読みたくなるような作品だけど、実はミステリーの形式自体は決して壊されていない。『あ~や』という作品がやっているのは、ミステリーの抱えた問題をきちんと見つめながらも、ミステリーの形式に注がれてきた愛情や歴史を否定せず、むしろ肯定するということなのだ。
こういった表現は現代において多く見られる。例えば最近話題の『魔法少女まどか☆マギカ』もそうだ。あの作品は魔法少女モノなのに、まどかは中々変身せず、戦う理由を探し続けた。それはジャンルに対する一種のアンチテーゼであるような素振りだけど、実際にはジャンルへの愛情を強く肯定する作品だった。
ミステリーの歴史に名を残す作品には、ジャンル内でそれまで当然として扱われてきた価値観を壊してしまうようなものが多々ある。虚無への供物、匣の中の失楽、十角館の殺人、コズミック/ジョーカー、etc。けれどそういった作品群はミステリーを否定するようでありながら、どれもミステリーに対する溢れんばかりの愛がある。愛があるからこそミステリーのことを真剣に考えずにはいられない作品たちなのだ。そして『あ~や』という作品も、そういった作品たちの魂を、溢れんばかりの愛を受け継いでいる。
アンチテーゼ的で破壊的なそれらの作品群と、むしろミステリーの型を守りジャンル性を肯定する『あ~や』という作品は真逆のことをやっているようにも思える。だが実のところ、結果的な方向性は違っても、そこに至るための前段階――「ミステリーを愛するからこそ」という部分は同じだ。何故違うベクトルの表現が出力されるのか?
そこには時代性が絡んでいる。
現代の表現はアンチテーゼであること自体にそれほど意味は無い。ただあえてルールを破るのであれば、それはむしろ予定調和の枠内であり、ミステリーファンへの目配せに過ぎない。無論、アンチテーゼ自体が無意味だということではない。だがこれだけ趣味や価値観が多様化してしまった現代では、ある程度の大きさをもったモノに対するアンチテーゼでなければ単なる内輪ウケで終わってしまう。そこには狭い界隈の中における「更新」はあるかもしれないが、ジャンルの未来を作る「発展」があるとは限らない。
でもこの作品は、ミステリーを知らない人が読んでも面白いように作られている。
ジャンルへの愛情とは中々難しいもので、そのジャンルが抱えた問題意識を深く扱えば扱うほど、そのジャンルについて詳しい人にしか伝わらなくなる危うさを秘めている。しかし『あ~や』という作品は、あえてミステリーというジャンルの枠から飛び出し、痛快で不条理で破天荒なギャグ漫画として振る舞うことで、逆に広い射程を持ったままミステリーが抱えた問題に言及することに成功している。(例えば探偵の倫理といった問題だ)そこに僕は、ミステリーに対する真摯な愛情を見ずにはいられない。
無論、この作品はミステリーへの愛のみによって創られたのではないだろう。様々な偶然や思惑があるのだろう。でもこの作品がミステリーへの愛に溢れていることは一目瞭然だ。例えば非実在推理少女というタイトルに込められた意味、バスカヴィルやアイリーン・アドラーといった名前のパロディ、破天荒なギャグ漫画でありながらきちんとミステリーの型を踏まえた「推理者」「観測者」「崩壊者」の構造、ミステリーに内在する問題への言及……そういった数々のこだわりを前にして、どうしてこの作品が、ミステリーに愛情を注いでいないと言えるだろう?
ミステリーが好きな人は、『あ~や』を読んでみてほしい。
ミステリーに対する愛情を感じとることができるだろう。
ミステリーが嫌いな人も、よく知らない人も、『あ~や』を読んでみてほしい。
ジャンルに愛情を注ぐとはどういうことか、『あ~や』は教えてくれるだろう。
この作品はミステリーを肯定する作品とも、ミステリーを皮肉る作品とも、ミステリーに縛られない自由でパワフルな作品とも読める。ありとあらゆる読み方ができる。その全てを『あ~や』という作品は肯定するだろう。でもやっぱり、『あ~や』を支えているのは、ミステリーというジャンルに対する、溢れんばかりの愛なのだと思う。