文庫版エレGYの表紙
選ばれるもの、選ばれないもの
レビュアー:大和
僕は泉和良が好きだし、hukeも好きだ。
泉和良に関しては、特に彼の作る音楽が好きだ。僕が最も好きなのは『君が忘れていった水槽』というフリーゲームのBGMで、これはフリーゲームのBGMだとは思えないくらいクオリティが高い。単純にエレクトロニカの楽曲としても秀逸で、そのジャンルを専門とするアーティストと聞き比べても何ら劣るものではない。肝心の『エレGY』に関しても僕はパンドラで掲載された時に楽しく読ませてもらった。一風変わっていて、けれど壮大な感動を持った、素晴らしい作品だと思う。
hukeとの出会いはシュタインズ・ゲートというノベルゲームだった。ゲーム性やストーリーも素晴らしかったけど、hukeのキャラクターデザインもそれを受け止めるに足る素晴らしいものだった。特に牧瀬紅莉栖というキャラクターの魅力に関しては筆舌に尽くしがたい。無論、一人の絵師としても好きだ。hukeの絵には塗りをあえて掠れさせるような手法がよく使われているのだけど、それが今にも崩れ去ってしまいそうな緊張感を絵に与えていて、すごくカッコいい。
そして、二人がタッグを組んだ、文庫版『エレGY』。
ブログで発表された、その表紙を見た時、僕は正直――違う、と思った。
違和感を抑えつけながら、僕はその表紙をじっくりと観察した。画像下部は帯で隠れているため分からないが、恐らく現実の場所(道路か公園?)が置かれ、空にはゲーム的なドット絵風のひび割れた道とコーンとブロック。(これはもしかして泉和良が実際に作ったゲームの画像から持ってきたんだろうか? そこまでは分からなかった)左には冴えない風貌の男、右にはいかにも二次元美少女然とした黒髪の少女がアコースティック・ギターをストラップと左手で支え、右手は正面を――つまり僕らを指さしている。帯のキャッチコピーは『この恋、きっと応援したくなる!』
……なんだか、釈然としない。
この表紙が完全に間違っているとは言えない。例えば右側の少女=エレGYが持ったギターは本編で重要な役割を果たすし、二人の様子や空に浮かぶ道路のひび割れが、どことなく「暗い」「駄目な感じ」を醸し出しているのもこの作品をよく捉えている。実際、この二人は社会的に上手くいっていなくて、それも物語の重要なポイントになっている。空に浮かぶゲームのドット絵も、主人公=泉和良が作るフリーゲームの象徴として機能しているだろう。そう、考えれば考えるほど、この表紙はちゃんとエレGYという作品を捉えているのだ。
でも、納得いかない。
最初は、表紙が持つどことなく暗い感じが気に入らないのかと思った。希望をもっと描いてほしいのかと思った。でも考えてみると、問題はそこじゃないと感じた。ある種の類型に捉えられそうなこと――「冴えない男が女の子に出会って代え難いものを得る」だとか「理想から目を話せなかった男が少女と出会うことで現実と折り合いを付けていく」みたいなステレオタイプの物語に見えることが嫌なんだろうか? だがそれも違和感の本質ではない気がした。
だから僕は、この作品の何が好きなのか、何に感動したのか考えてみた。
この作品は主人公=泉和良と少女=エレGYの二人の関係を軸に物語が進む。この作品は恋愛小説だけど、その根底にあるのは泉和良の「フリーウェアゲームスピリット」だ。そしてこの作品に込められているのは、創作するということの根源的な感動だ。泉和良はエレGYと出会うことで、一人の人間として救われると同時に、創ることの喜び、創ることの可能性にも出会う。エレGYは泉和良が作るゲームのファンであると同時に、それらから強く影響を受けた新しい才能でもあって、そうやって自分が作ったモノが誰かに影響を与えうる――そこに込められた魂が「種」となって誰かに新しい息吹を与えうるという事実に、泉和良は衝撃を受ける。そこらへんが典型的な恋愛小説とは一味違うところだ。「一風変わった恋愛小説」のようでいて、裏にはすごく根源的で壮大な感動が隠れている。その一筋縄ではいかない感じがいかにも泉和良らしくて僕は好きだ。
そう、泉和良は一筋縄ではいかないクリエイターなのだ。彼が作っているフリーゲームはどれも変わったものばかりで、例えば先述した『君が忘れていった水槽』というのは、画面内で自動生成される微生物(?)たちの生態系の変化をただひたすら眺めるという作品だ。もはやゲームなのか何なのかよくわからない。というか、ゲームとして破綻している。しかしプログラムされたものでありながら、そこで繰り広げられる光景は常に一期一会で二度とはお目にかかれない。まるで本物の生物が生まれ落ち、独自の進化をしていくみたいに。そこには何か、泉和良の哲学みたいなものが込められているのだろう。そんな風に、泉和良が作り出すゲームたちは、どれも一筋縄ではいかない、鋭く尖ったものばかりだ。
そこまで考えて、ふと、気付いた。
もしかして、僕はこの表紙が「よく出来てる」ことが気に入らないんだろうか?
その解釈は、僕の中で腑に落ちるものだった。この表紙はよく出来ているが故に、むしろ凡庸に見えてしまうのだ。エレGYという作品が持つ一筋縄ではいかない感じを、泉和良が持つ鋭さを、受け止めきれてないように見えるのだ。無論、表紙一枚で表現できることには限界がある。全てを描けるわけではない。だが、この表紙は泉和良が作るゲームのような「破綻」が無くて、僕には決定的に物足りないのだ。
でも結局のところ、それは個人的な思い入れに過ぎないのかもしれない。僕が言うような破綻や鋭さを持った表紙より、この表紙の方が売れるのかもしれない。多くの人の手に行き届いて、多くの人を幸せにするのかもしれない。それは全くもって正しい判断なのかもしれない。あるいは誰かにとって、これこそが「破綻を持った鋭い表紙」なのかもしれない。そもそも僕が言うようなことは個人的な妄想に過ぎなくて、みんなこの表紙を支持するのかもしれない。でもやっぱり僕に同意してくれる人もいるかもしれない。分からない。表現として正しい判断、ってどういうことなんだろう。売れること? 誰かの心により強く残ること? それはきっとどちらも正しくて、何を選ぶかって問題でしかないのだと思う。そして後者を選ぶにしても、その「誰か」は「全員」にはなりえないのだと思う。時には両方を満たし、そして限りなく多くを満たすような奇跡にも逢えるのだろう。でも僕は今回、出逢えなかった。そして選ばれなかった。「誰か」の中に入れなかった。ただ、それだけの話なのだと思う。
でも、やっぱり、この表紙……納得いかないなぁ。
きっと文庫化だとか移植だとかメディアミックスだとかが起こす「思い入れとのズレ」みたいなものは世の中に溢れるほどあって、日々どこかで誰かが遭遇しているのだろう。でも表現が何かを選択しなければならないものである限り、「納得できる人」と「できない人」が出てきてしまうことは避けられない。それ自体に文句を言ったってしょうがない。だから僕は、ただこの表紙に納得できなかったという事実をここに記しておこうと思う。そしてこれを読んだ誰かが「選ぶこと」「選ばないこと」について考えてくれたら、それだけで救われる。そうやってこのレビューが何かを考えるきっかけになったら、とても素晴らしいことだ。それはまるで泉和良がエレGYの中に「種」を蒔いたことのようで、すごく尊いのではないかと思う。
泉和良に関しては、特に彼の作る音楽が好きだ。僕が最も好きなのは『君が忘れていった水槽』というフリーゲームのBGMで、これはフリーゲームのBGMだとは思えないくらいクオリティが高い。単純にエレクトロニカの楽曲としても秀逸で、そのジャンルを専門とするアーティストと聞き比べても何ら劣るものではない。肝心の『エレGY』に関しても僕はパンドラで掲載された時に楽しく読ませてもらった。一風変わっていて、けれど壮大な感動を持った、素晴らしい作品だと思う。
hukeとの出会いはシュタインズ・ゲートというノベルゲームだった。ゲーム性やストーリーも素晴らしかったけど、hukeのキャラクターデザインもそれを受け止めるに足る素晴らしいものだった。特に牧瀬紅莉栖というキャラクターの魅力に関しては筆舌に尽くしがたい。無論、一人の絵師としても好きだ。hukeの絵には塗りをあえて掠れさせるような手法がよく使われているのだけど、それが今にも崩れ去ってしまいそうな緊張感を絵に与えていて、すごくカッコいい。
そして、二人がタッグを組んだ、文庫版『エレGY』。
ブログで発表された、その表紙を見た時、僕は正直――違う、と思った。
違和感を抑えつけながら、僕はその表紙をじっくりと観察した。画像下部は帯で隠れているため分からないが、恐らく現実の場所(道路か公園?)が置かれ、空にはゲーム的なドット絵風のひび割れた道とコーンとブロック。(これはもしかして泉和良が実際に作ったゲームの画像から持ってきたんだろうか? そこまでは分からなかった)左には冴えない風貌の男、右にはいかにも二次元美少女然とした黒髪の少女がアコースティック・ギターをストラップと左手で支え、右手は正面を――つまり僕らを指さしている。帯のキャッチコピーは『この恋、きっと応援したくなる!』
……なんだか、釈然としない。
この表紙が完全に間違っているとは言えない。例えば右側の少女=エレGYが持ったギターは本編で重要な役割を果たすし、二人の様子や空に浮かぶ道路のひび割れが、どことなく「暗い」「駄目な感じ」を醸し出しているのもこの作品をよく捉えている。実際、この二人は社会的に上手くいっていなくて、それも物語の重要なポイントになっている。空に浮かぶゲームのドット絵も、主人公=泉和良が作るフリーゲームの象徴として機能しているだろう。そう、考えれば考えるほど、この表紙はちゃんとエレGYという作品を捉えているのだ。
でも、納得いかない。
最初は、表紙が持つどことなく暗い感じが気に入らないのかと思った。希望をもっと描いてほしいのかと思った。でも考えてみると、問題はそこじゃないと感じた。ある種の類型に捉えられそうなこと――「冴えない男が女の子に出会って代え難いものを得る」だとか「理想から目を話せなかった男が少女と出会うことで現実と折り合いを付けていく」みたいなステレオタイプの物語に見えることが嫌なんだろうか? だがそれも違和感の本質ではない気がした。
だから僕は、この作品の何が好きなのか、何に感動したのか考えてみた。
この作品は主人公=泉和良と少女=エレGYの二人の関係を軸に物語が進む。この作品は恋愛小説だけど、その根底にあるのは泉和良の「フリーウェアゲームスピリット」だ。そしてこの作品に込められているのは、創作するということの根源的な感動だ。泉和良はエレGYと出会うことで、一人の人間として救われると同時に、創ることの喜び、創ることの可能性にも出会う。エレGYは泉和良が作るゲームのファンであると同時に、それらから強く影響を受けた新しい才能でもあって、そうやって自分が作ったモノが誰かに影響を与えうる――そこに込められた魂が「種」となって誰かに新しい息吹を与えうるという事実に、泉和良は衝撃を受ける。そこらへんが典型的な恋愛小説とは一味違うところだ。「一風変わった恋愛小説」のようでいて、裏にはすごく根源的で壮大な感動が隠れている。その一筋縄ではいかない感じがいかにも泉和良らしくて僕は好きだ。
そう、泉和良は一筋縄ではいかないクリエイターなのだ。彼が作っているフリーゲームはどれも変わったものばかりで、例えば先述した『君が忘れていった水槽』というのは、画面内で自動生成される微生物(?)たちの生態系の変化をただひたすら眺めるという作品だ。もはやゲームなのか何なのかよくわからない。というか、ゲームとして破綻している。しかしプログラムされたものでありながら、そこで繰り広げられる光景は常に一期一会で二度とはお目にかかれない。まるで本物の生物が生まれ落ち、独自の進化をしていくみたいに。そこには何か、泉和良の哲学みたいなものが込められているのだろう。そんな風に、泉和良が作り出すゲームたちは、どれも一筋縄ではいかない、鋭く尖ったものばかりだ。
そこまで考えて、ふと、気付いた。
もしかして、僕はこの表紙が「よく出来てる」ことが気に入らないんだろうか?
その解釈は、僕の中で腑に落ちるものだった。この表紙はよく出来ているが故に、むしろ凡庸に見えてしまうのだ。エレGYという作品が持つ一筋縄ではいかない感じを、泉和良が持つ鋭さを、受け止めきれてないように見えるのだ。無論、表紙一枚で表現できることには限界がある。全てを描けるわけではない。だが、この表紙は泉和良が作るゲームのような「破綻」が無くて、僕には決定的に物足りないのだ。
でも結局のところ、それは個人的な思い入れに過ぎないのかもしれない。僕が言うような破綻や鋭さを持った表紙より、この表紙の方が売れるのかもしれない。多くの人の手に行き届いて、多くの人を幸せにするのかもしれない。それは全くもって正しい判断なのかもしれない。あるいは誰かにとって、これこそが「破綻を持った鋭い表紙」なのかもしれない。そもそも僕が言うようなことは個人的な妄想に過ぎなくて、みんなこの表紙を支持するのかもしれない。でもやっぱり僕に同意してくれる人もいるかもしれない。分からない。表現として正しい判断、ってどういうことなんだろう。売れること? 誰かの心により強く残ること? それはきっとどちらも正しくて、何を選ぶかって問題でしかないのだと思う。そして後者を選ぶにしても、その「誰か」は「全員」にはなりえないのだと思う。時には両方を満たし、そして限りなく多くを満たすような奇跡にも逢えるのだろう。でも僕は今回、出逢えなかった。そして選ばれなかった。「誰か」の中に入れなかった。ただ、それだけの話なのだと思う。
でも、やっぱり、この表紙……納得いかないなぁ。
きっと文庫化だとか移植だとかメディアミックスだとかが起こす「思い入れとのズレ」みたいなものは世の中に溢れるほどあって、日々どこかで誰かが遭遇しているのだろう。でも表現が何かを選択しなければならないものである限り、「納得できる人」と「できない人」が出てきてしまうことは避けられない。それ自体に文句を言ったってしょうがない。だから僕は、ただこの表紙に納得できなかったという事実をここに記しておこうと思う。そしてこれを読んだ誰かが「選ぶこと」「選ばないこと」について考えてくれたら、それだけで救われる。そうやってこのレビューが何かを考えるきっかけになったら、とても素晴らしいことだ。それはまるで泉和良がエレGYの中に「種」を蒔いたことのようで、すごく尊いのではないかと思う。