Fate/Zero
残酷で、誠実な物語
レビュアー:大和
誠実であるとはどういうことだろう? ただ無闇に褒めてみせても誠実だとは言い難いし、かといって本音を正直にぶつけることが常に誠実であるとは限らない。だがそんなしがらみはどうあれ、僕は『Fate/Zero』の一巻を初めて読んで、そこに途方もない誠実さを感じて、とにかくこの作品を真っすぐに語りたくなった。だから僕は、失礼な言葉や不快な表現を吐いてしまうかもしれないけれど、この作品を可能な限り真っすぐ語ろうと思う。
『Fate/Zero』について軽く紹介しておこう。どんな願いでも叶える『聖杯』をめぐり、七人の魔術師達が、『英霊』と呼ばれる「歴史に名を残した英雄達」を召喚し、殺し合う――『聖杯戦争』という争いが存在した。原作『Fate/stay night』は第五回聖杯戦争であり、その十年前にあたる『Fate/Zero』は原作で断片的に語られるのみだった第四回聖杯戦争を克明に描いている。『Fate/stay night』という大人気タイトルのノベライズ、その作者が同ジャンルの界隈において高い知名度を持つ虚淵玄だったこともあって、『Fate/Zero』は大きな話題を呼んだ。
率直に言って、僕がこの小説を手に取った理由の8割くらいはレビュアー騎士団に向けてレビューを書くためだった。残りの2割は虚淵玄が脚本を担当している『魔法少女まどか☆マギカ』が面白かったから。元々、僕にとって虚淵玄は「面白いけどツボではない作家」だった。だからFate/Zeroの存在は以前から知っていたけど、手に取る気にはならなかった。僕はそもそも奈須きのこの大ファンで、レビューに関しても、Fate/Zeroを語るフリをしながら奈須きのこに関して語ることになるだろうな、と思っていた。
そんな僕の考えは、いとも簡単に裏切られた。
『Fate/Zero』は予想していたよりずっと面白い作品だった。びっくりした。ただ面白いだけじゃなく、なんというか……気持ちよく読めるのだ。それが意外だった。
僕は『Fate/stay night』という作品に熱狂した。その作品の前日譚を虚淵玄が書くと聞いた時、耳を疑った。ファンによる二次創作ならばともかく、公式として『Fate』の作品世界を別の作家が書いてしまっていいのだろうか? 公式に足るモノを作れるのか? そもそも奈須きのこがそれを許すのか? 虚淵玄といえば、残酷で救いの無い物語を描く、血と硝煙が好きなハードボイルド作家というイメージだった。実力は申し分なくとも、奈須きのことは余りにもかけ離れているのではないか。どれだけ作品の出来が良くとも、違和感は免れないだろうと思っていた。
しかし『Fate/Zero』という小説には少しも違和感を感じなかった。この小説はかなり、原作に対して、そして原作をプレイしたであろう読者に対して気を遣って書かれている。例えばこの小説は表紙や作品のイメージからして衛宮切嗣およびセイバーが主人公というイメージがあるけれども、実質的にはほとんど群像劇として描かれている。これは原作への配慮から来ているのではないか? と僕は感じた。
原作をプレイした人からすれば、『Fate』の主人公は衛宮士郎だ。例外的なシーンはあるものの、基本的に『Fate』は衛宮士郎の一人称視点で進む。衛宮士郎は強いキャラ付けの無い、プレイヤーキャラ的≒世界を体験するためのインターフェース的存在として描かれていて、それはプレイヤーが奈須きのこの描く世界や物語に対して強く没入することを可能にしている。だから読者にとって『Fate』とは衛宮士郎の物語であり、衛宮士郎を介して体験する物語こそが『Fate』だった。
『Fate/Zero』は一人の主人公を立てて描くこともできたはずだ。しかしここで三人称による群像劇という手法が選ばれることで、読者は今までと立ち位置をずらすことなく、ただそこにある物語を追うことができる。三人称による群像劇という手法自体は別段突飛なものではなく、自然に選択されたものだったのかもしれないが、そこに『Fate/Zero』の原作に対する姿勢や虚淵玄のバランス感覚が表れていると見ることは自然だろう。
加えて、虚淵玄は奈須きのこが創り上げた世界観を極めてよく理解し、それに対して忠実であろうとする。聖杯戦争の設定、教会と協会の関係、魔術の仕組み、原作に登場したキャラ等々――制約とも言うべき数多くのルールがその世界には存在する。しかし虚淵玄は、そういった複雑に絡み合った世界の仕組みを、見事にキャラクターの設定に落とし込み、むしろ深みを出すことに活用している。例えば綺礼と時臣と璃正の関係だ。
『綺礼の真摯な授業態度と呑み込みの速さは、師からしてみれば申し分のないものだったらしい。(…)いまや時臣が綺礼に対して寄せる信頼は揺るぎなく、一人娘の凜にまで、綺礼に対して兄弟子の礼を取らせている程である。
だが時臣の厚情とは対照的に、綺礼の内心は冷めていく一方だった。
(…)
そんな綺礼の落胆に、時臣は露ほども気付かなかったらしい。はたして“父の璃正と同類”という見立ては、ものの見事に的中した。時臣が綺礼に寄せる評価と信頼は、まさに璃正のそれと同質だった。』
綺礼がどこまでも虚無的な人物として書かれているのに対し、時臣は魔術師、璃正は教会の神父を象徴するようなキャラクターとして描かれている。彼らが綺礼を見る時、そこには綺礼の実態というより、むしろ自分が信じる価値観を強く投影してしまっていて、その価値観は世界観の特異さと不可分になっている。綺礼に対する時臣や璃正の思考・描写を追うことで、そこにはキャラクターが持つ信念と同時に、世界観のバックグラウンドが浮き上がるようになっているのだ。
また、作品を作る上で困難だったと思われるのは、『Fate/Zero』が原作の前日譚であることだ。後日談であれば整合性を気にする心配は減っただろうし、あるいは100年や200年といった大昔であればもっと自由に出来ただろう。しかしこれはわずか10年前の物語だ。原作のキャラも多数登場するし、そもそもが原作のスタート地点を準備するような物語だ。物語というのは基本的に状況や登場人物達の変化を描くもので、例えば原作においても、衛宮士郎や他の登場人物達は事件の解決と共に何らかの答えを得る。
だがこの物語は、原作の始まりに大きく関わる前日譚である以上、事件は何ら解決することがないだろう。それを象徴するかのように、『Fate/Zero』はとても残酷だ。原作を知っている人からすれば、明らかに死ぬしかないような人物や救われないような人物を、虚淵玄は次から次へと容赦なく登場させる。この物語は一巻の時点でどうしようもなくバッドエンドの可能性に満ち溢れている。
だが選択肢が強く限定された状況下であっても、虚淵玄の筆が鈍ることは無い。むしろ水を得た魚のように、虚淵玄はそれぞれのキャラクターに譲れない信念を与え、両立することのない立場や願いを与え、残酷な現実を突きつけていく。何ら臆することなく、虚淵玄「らしい」物語をFateの世界に注ぎ込んで行く。二次創作でありながら、虚淵玄はその立場に甘えることなく、また自分を卑下することなく、果敢に奈須きのこの世界と戦っている。
そう、何より僕にとって好みなのは、奈須きのこと虚淵玄という二つの想像力が互いを高め合うようにして『Fate/Zero』は構成されているという点だ。例えば他ジャンルのクリエーターとであればコラボレーションはよく目にするだろう。『魔法少女まどか☆マギカ』は正にそうだし、『金の瞳と鉄の剣』だってそうだ。他の小説だって一人で作っているわけではない。編集者やイラストレーターや校正者等、多くの人が関わり合いながら一つの作品を作っているだろう。しかし『Fate/Zero』の状況はちょっと特殊だ。小説の作品内で、物語の書き手同士が想像力をぶつけ合うことは中々無い。例としては世界観の共有やリレー小説やトリビュート小説なんかが考えられるだろうけども、ここまで状況が限定的で、原作に干渉するような作品はそうそう無いだろう。一般的なノベライズ作品だって、それが公式設定として生きているかどうかは分からないようなものばかりだ。
もっとも、Fateの二次創作自体は数多く存在するし、そういった作品群も奈須きのこの想像力とぶつかり合っている、と言えるかもしれない。だが他の二次創作とZeroが違うのは、この作品が公式により発売されたということだ。Fateはノベルゲームでありながら数十万本もの売上を記録した、その界隈においては知らぬ者がいないほどのビッグタイトルであり、そのノベライズともなれば相当のプレッシャーだったはずだ。
だがむしろ、制約やプレッシャーは『Fate/Zero』という作品のクオリティを上げる方向に働いている。ファンによる二次創作は細かい部分が破綻しているもの――公式設定を無視したり調べきれていない作品も多い。だが『Fate/Zero』は原作ファンが求めるであろう世界観の整合性や魅力を、丁寧に積み上げながらも大胆に利用し、求められた以上のモノを読者に提示してみせる。それでいて、虚淵玄は同時に「虚淵玄ファン」が求めるであろう彼らしさも限界まで描こうとしている。虚淵玄は、この本を手に取るであろうあらゆる読者に対して、仁義を切るようにして作品を書いている。
これは恐らく、奈須きのこが過剰に世界観を創り込む作家だったからこそ成しえたコラボレーションだ。奈須きのこの世界観に対する強靭な想像力と、虚淵玄の物語に対する強靭な想像力が相まって、『Fate/Zero』という作品は非常に高いレベルまで昇華されている。僕が読んだのはまだ一巻だけで、物語自体はほとんどイントロダクションしか書かれていないけど、僕はこの作品を読んで泣きそうなくらい胸が熱くなったし、同時に嫉妬した。こんな機会を持てた虚淵玄が、僕は眩しくて羨ましい。
最後に、あとがきの一部分を引用しよう。
『当時抱えていた創作活動における葛藤に、私はFate/Zeroの執筆を通して答えを得た。作家としての自意識を肥大させすぎたあまり内罰的になっていた自分を、この作品は救済してくれた。(…)道に迷っていた自分を今いる場所まで先導してくれたのが、このFate/Zeroだった』
この物語は前日譚であり、原作の事件を準備する「ゼロに至る物語」であり、ほとんどの登場人物は救われないだろうしグッドエンドなんて望むべくもない。けれど、この作品をもって虚淵玄が救われたのであれば、『Fate/Zero』は一人の男が答えを得る物語として読めるだろう。ならば『Fate/Zero』という残酷な物語は、『Fate/stay night』に何ら引けを取らない、強くて美しくて、誠実な物語だ。
『Fate/Zero』について軽く紹介しておこう。どんな願いでも叶える『聖杯』をめぐり、七人の魔術師達が、『英霊』と呼ばれる「歴史に名を残した英雄達」を召喚し、殺し合う――『聖杯戦争』という争いが存在した。原作『Fate/stay night』は第五回聖杯戦争であり、その十年前にあたる『Fate/Zero』は原作で断片的に語られるのみだった第四回聖杯戦争を克明に描いている。『Fate/stay night』という大人気タイトルのノベライズ、その作者が同ジャンルの界隈において高い知名度を持つ虚淵玄だったこともあって、『Fate/Zero』は大きな話題を呼んだ。
率直に言って、僕がこの小説を手に取った理由の8割くらいはレビュアー騎士団に向けてレビューを書くためだった。残りの2割は虚淵玄が脚本を担当している『魔法少女まどか☆マギカ』が面白かったから。元々、僕にとって虚淵玄は「面白いけどツボではない作家」だった。だからFate/Zeroの存在は以前から知っていたけど、手に取る気にはならなかった。僕はそもそも奈須きのこの大ファンで、レビューに関しても、Fate/Zeroを語るフリをしながら奈須きのこに関して語ることになるだろうな、と思っていた。
そんな僕の考えは、いとも簡単に裏切られた。
『Fate/Zero』は予想していたよりずっと面白い作品だった。びっくりした。ただ面白いだけじゃなく、なんというか……気持ちよく読めるのだ。それが意外だった。
僕は『Fate/stay night』という作品に熱狂した。その作品の前日譚を虚淵玄が書くと聞いた時、耳を疑った。ファンによる二次創作ならばともかく、公式として『Fate』の作品世界を別の作家が書いてしまっていいのだろうか? 公式に足るモノを作れるのか? そもそも奈須きのこがそれを許すのか? 虚淵玄といえば、残酷で救いの無い物語を描く、血と硝煙が好きなハードボイルド作家というイメージだった。実力は申し分なくとも、奈須きのことは余りにもかけ離れているのではないか。どれだけ作品の出来が良くとも、違和感は免れないだろうと思っていた。
しかし『Fate/Zero』という小説には少しも違和感を感じなかった。この小説はかなり、原作に対して、そして原作をプレイしたであろう読者に対して気を遣って書かれている。例えばこの小説は表紙や作品のイメージからして衛宮切嗣およびセイバーが主人公というイメージがあるけれども、実質的にはほとんど群像劇として描かれている。これは原作への配慮から来ているのではないか? と僕は感じた。
原作をプレイした人からすれば、『Fate』の主人公は衛宮士郎だ。例外的なシーンはあるものの、基本的に『Fate』は衛宮士郎の一人称視点で進む。衛宮士郎は強いキャラ付けの無い、プレイヤーキャラ的≒世界を体験するためのインターフェース的存在として描かれていて、それはプレイヤーが奈須きのこの描く世界や物語に対して強く没入することを可能にしている。だから読者にとって『Fate』とは衛宮士郎の物語であり、衛宮士郎を介して体験する物語こそが『Fate』だった。
『Fate/Zero』は一人の主人公を立てて描くこともできたはずだ。しかしここで三人称による群像劇という手法が選ばれることで、読者は今までと立ち位置をずらすことなく、ただそこにある物語を追うことができる。三人称による群像劇という手法自体は別段突飛なものではなく、自然に選択されたものだったのかもしれないが、そこに『Fate/Zero』の原作に対する姿勢や虚淵玄のバランス感覚が表れていると見ることは自然だろう。
加えて、虚淵玄は奈須きのこが創り上げた世界観を極めてよく理解し、それに対して忠実であろうとする。聖杯戦争の設定、教会と協会の関係、魔術の仕組み、原作に登場したキャラ等々――制約とも言うべき数多くのルールがその世界には存在する。しかし虚淵玄は、そういった複雑に絡み合った世界の仕組みを、見事にキャラクターの設定に落とし込み、むしろ深みを出すことに活用している。例えば綺礼と時臣と璃正の関係だ。
『綺礼の真摯な授業態度と呑み込みの速さは、師からしてみれば申し分のないものだったらしい。(…)いまや時臣が綺礼に対して寄せる信頼は揺るぎなく、一人娘の凜にまで、綺礼に対して兄弟子の礼を取らせている程である。
だが時臣の厚情とは対照的に、綺礼の内心は冷めていく一方だった。
(…)
そんな綺礼の落胆に、時臣は露ほども気付かなかったらしい。はたして“父の璃正と同類”という見立ては、ものの見事に的中した。時臣が綺礼に寄せる評価と信頼は、まさに璃正のそれと同質だった。』
綺礼がどこまでも虚無的な人物として書かれているのに対し、時臣は魔術師、璃正は教会の神父を象徴するようなキャラクターとして描かれている。彼らが綺礼を見る時、そこには綺礼の実態というより、むしろ自分が信じる価値観を強く投影してしまっていて、その価値観は世界観の特異さと不可分になっている。綺礼に対する時臣や璃正の思考・描写を追うことで、そこにはキャラクターが持つ信念と同時に、世界観のバックグラウンドが浮き上がるようになっているのだ。
また、作品を作る上で困難だったと思われるのは、『Fate/Zero』が原作の前日譚であることだ。後日談であれば整合性を気にする心配は減っただろうし、あるいは100年や200年といった大昔であればもっと自由に出来ただろう。しかしこれはわずか10年前の物語だ。原作のキャラも多数登場するし、そもそもが原作のスタート地点を準備するような物語だ。物語というのは基本的に状況や登場人物達の変化を描くもので、例えば原作においても、衛宮士郎や他の登場人物達は事件の解決と共に何らかの答えを得る。
だがこの物語は、原作の始まりに大きく関わる前日譚である以上、事件は何ら解決することがないだろう。それを象徴するかのように、『Fate/Zero』はとても残酷だ。原作を知っている人からすれば、明らかに死ぬしかないような人物や救われないような人物を、虚淵玄は次から次へと容赦なく登場させる。この物語は一巻の時点でどうしようもなくバッドエンドの可能性に満ち溢れている。
だが選択肢が強く限定された状況下であっても、虚淵玄の筆が鈍ることは無い。むしろ水を得た魚のように、虚淵玄はそれぞれのキャラクターに譲れない信念を与え、両立することのない立場や願いを与え、残酷な現実を突きつけていく。何ら臆することなく、虚淵玄「らしい」物語をFateの世界に注ぎ込んで行く。二次創作でありながら、虚淵玄はその立場に甘えることなく、また自分を卑下することなく、果敢に奈須きのこの世界と戦っている。
そう、何より僕にとって好みなのは、奈須きのこと虚淵玄という二つの想像力が互いを高め合うようにして『Fate/Zero』は構成されているという点だ。例えば他ジャンルのクリエーターとであればコラボレーションはよく目にするだろう。『魔法少女まどか☆マギカ』は正にそうだし、『金の瞳と鉄の剣』だってそうだ。他の小説だって一人で作っているわけではない。編集者やイラストレーターや校正者等、多くの人が関わり合いながら一つの作品を作っているだろう。しかし『Fate/Zero』の状況はちょっと特殊だ。小説の作品内で、物語の書き手同士が想像力をぶつけ合うことは中々無い。例としては世界観の共有やリレー小説やトリビュート小説なんかが考えられるだろうけども、ここまで状況が限定的で、原作に干渉するような作品はそうそう無いだろう。一般的なノベライズ作品だって、それが公式設定として生きているかどうかは分からないようなものばかりだ。
もっとも、Fateの二次創作自体は数多く存在するし、そういった作品群も奈須きのこの想像力とぶつかり合っている、と言えるかもしれない。だが他の二次創作とZeroが違うのは、この作品が公式により発売されたということだ。Fateはノベルゲームでありながら数十万本もの売上を記録した、その界隈においては知らぬ者がいないほどのビッグタイトルであり、そのノベライズともなれば相当のプレッシャーだったはずだ。
だがむしろ、制約やプレッシャーは『Fate/Zero』という作品のクオリティを上げる方向に働いている。ファンによる二次創作は細かい部分が破綻しているもの――公式設定を無視したり調べきれていない作品も多い。だが『Fate/Zero』は原作ファンが求めるであろう世界観の整合性や魅力を、丁寧に積み上げながらも大胆に利用し、求められた以上のモノを読者に提示してみせる。それでいて、虚淵玄は同時に「虚淵玄ファン」が求めるであろう彼らしさも限界まで描こうとしている。虚淵玄は、この本を手に取るであろうあらゆる読者に対して、仁義を切るようにして作品を書いている。
これは恐らく、奈須きのこが過剰に世界観を創り込む作家だったからこそ成しえたコラボレーションだ。奈須きのこの世界観に対する強靭な想像力と、虚淵玄の物語に対する強靭な想像力が相まって、『Fate/Zero』という作品は非常に高いレベルまで昇華されている。僕が読んだのはまだ一巻だけで、物語自体はほとんどイントロダクションしか書かれていないけど、僕はこの作品を読んで泣きそうなくらい胸が熱くなったし、同時に嫉妬した。こんな機会を持てた虚淵玄が、僕は眩しくて羨ましい。
最後に、あとがきの一部分を引用しよう。
『当時抱えていた創作活動における葛藤に、私はFate/Zeroの執筆を通して答えを得た。作家としての自意識を肥大させすぎたあまり内罰的になっていた自分を、この作品は救済してくれた。(…)道に迷っていた自分を今いる場所まで先導してくれたのが、このFate/Zeroだった』
この物語は前日譚であり、原作の事件を準備する「ゼロに至る物語」であり、ほとんどの登場人物は救われないだろうしグッドエンドなんて望むべくもない。けれど、この作品をもって虚淵玄が救われたのであれば、『Fate/Zero』は一人の男が答えを得る物語として読めるだろう。ならば『Fate/Zero』という残酷な物語は、『Fate/stay night』に何ら引けを取らない、強くて美しくて、誠実な物語だ。