満月朗読館
満月浪漫
レビュアー:zonby
「満月朗読館」。
その名前だけで、どこかしっとりとして浪漫を感じさせる素敵な命名だと思った。
竹さん画による、本を読む女性の横顔のシルエットを看板に掲げ、朗読者たるは、様々な分野で活躍される坂本真綾。彼女の凜として透明感のある声音で紡ぎだされる朗読に、告知の時点から期待を寄せる視聴者も多くいたことと思う。満月の夜にしか開館しない電子空間の中にだけ存在する朗読館――。
四度に渡って行われたこの企画は非常に完成度、満足度共に高かったものと思う。星や月、銀河をテーマとした古典から、この企画のためだけに書き下ろされた新作文芸と、イラストのコラボレーション。30分も前から待機していないと接続すらままならなかったのがその証拠だ。
しかし同時に、こう思った人――特に仕事などで都合がつかず、配信時間に間に合わなかった人や、うっかり配信予定を忘れてしまった人など――もいたことだろう。
「なぜわざわざ毎回満月を待って朗読をする?パソコンでなら簡単に動画でも、音楽でも自分の好きな時間、好きなものを好きなだけ落とせるこの時代である。TVだって時間は決まっているが、録画ができる。完成したものをコンテンツとして配信し、好きな時に見ることができるという方法もあったのではないだろうか?」と。
確かにそうだ。
私自身そういった動画配信のサイトをよく利用する機会は多いし、自分の都合で見ることができるので便利だと思う。何より星海社の運営する「最前線」自体が、無料でいくつものコンテンツをいつでも見ることができる状態にしている。
では何故そのような時代に、わざわざ見る側の人間の時間を拘束する「満月朗読館」などという企画をしたのだろう。
誠に勝手な解釈で申し訳ないが、私はこの企画はすべて「浪漫」ゆえ、と理解している。
もう一度言おう「浪漫」だ。
満月の夜に、美しい声音の女性が紡ぐ月や星の絵物語。その朗読を聴く。浪漫ではないか。そして「浪漫」ゆえと言うならば、ある程度の不便も拘束も甘んじて受け入れなければなるまい。なぜなら浪漫とはそうそう簡単に叶えられてはならないものであるからだ。
満月まであと幾日か、数え数えて満月を確かめるように空を見上げて帰る夜。いつもより早めに風呂に入り、少量の酒やお茶などを用意してパソコンの前に待機する。電気は消し、窓から入るわずかな月光とパソコンの光源を頼りに、耳にはヘッドホン。配信を聴き終えた後、たった今耳元で語られていた物語の余韻に浸りながら窓を開け、夜空に煌々と浮かぶ満月を確かめた人間は一人や二人ではあるまい。(無論、私もその一人であることをここに明記しておく)
そう考えると、「満月の夜」だけに開館し、その日その時間にだけしか聴くことのできないという趣向も、中々粋ではないかと思えてくるから小気味良いものである。きっとあの四晩、配信を待ちわび満月を数えた人間のほとんどは、私を含め普段は満月など気にもせずパソコンの画面やTVばかり見つめているような人達が大多数だったろう。そんな人達が「満月の夜」をキーワードに日にちを数え、わざわざ「満月朗読館」が始まる前から待機し、電気を消して月光を入れたりヘッドホンの準備をしたりしていたのである。
手間をかけ暇をかけ、きたるべき時をどきどきと待つ。(いつもは右クリックで保存なのに)
ただ「満月朗読館」を満月の夜に聴くために。(いつもは深夜、適当にザッピングなのに)
これはもう浪漫のなせる技としか言えまい。
「満月朗読館」は、本来無機質な電子空間にあるだけの存在だというのに、「満月の夜に」という条件を付け加えることで、初めて息づく極めて有機的な企画だったのではないかと、これを書いていて思った。
だからなのか――
現実には存在するはずがないというのに、しかし私は物質として存在するそこを幻視する。
そのある種そっけないたたずまいは、私に路地裏の奥の奥にひっそりと在る謎の建築物を彷彿とさせる。普段は「閉館」の看板が愛想もなくかかっているくせに、満月になるとどこからともなくたくさんのファン達が集ってくるような、そんな独特の閉鎖感と親密感のある空間。誰もが顔を紅潮させ、思い思いの格好や食べ物を用意して、無意識的な同調と適度で個人的な距離感を保ちながら、その始まりを待っている。
私の幻視する「満月朗読館」は、そんな場所だ。
「次の開館はいつですか?」
「誰が朗読をするのですか?」
「どんな物語が聴けるのですか?」
「さあ、それは誰も分からない。だから中々この「閉館」の札ははずれませんね。そもそも次があるのか。誰がやるのか、どんな物語が生まれるのか。でもきっといつかひょこり開くのでしょう。またあの満月、四晩のように」
――さて、それではいつかの満月に、浪漫を込めて
その名前だけで、どこかしっとりとして浪漫を感じさせる素敵な命名だと思った。
竹さん画による、本を読む女性の横顔のシルエットを看板に掲げ、朗読者たるは、様々な分野で活躍される坂本真綾。彼女の凜として透明感のある声音で紡ぎだされる朗読に、告知の時点から期待を寄せる視聴者も多くいたことと思う。満月の夜にしか開館しない電子空間の中にだけ存在する朗読館――。
四度に渡って行われたこの企画は非常に完成度、満足度共に高かったものと思う。星や月、銀河をテーマとした古典から、この企画のためだけに書き下ろされた新作文芸と、イラストのコラボレーション。30分も前から待機していないと接続すらままならなかったのがその証拠だ。
しかし同時に、こう思った人――特に仕事などで都合がつかず、配信時間に間に合わなかった人や、うっかり配信予定を忘れてしまった人など――もいたことだろう。
「なぜわざわざ毎回満月を待って朗読をする?パソコンでなら簡単に動画でも、音楽でも自分の好きな時間、好きなものを好きなだけ落とせるこの時代である。TVだって時間は決まっているが、録画ができる。完成したものをコンテンツとして配信し、好きな時に見ることができるという方法もあったのではないだろうか?」と。
確かにそうだ。
私自身そういった動画配信のサイトをよく利用する機会は多いし、自分の都合で見ることができるので便利だと思う。何より星海社の運営する「最前線」自体が、無料でいくつものコンテンツをいつでも見ることができる状態にしている。
では何故そのような時代に、わざわざ見る側の人間の時間を拘束する「満月朗読館」などという企画をしたのだろう。
誠に勝手な解釈で申し訳ないが、私はこの企画はすべて「浪漫」ゆえ、と理解している。
もう一度言おう「浪漫」だ。
満月の夜に、美しい声音の女性が紡ぐ月や星の絵物語。その朗読を聴く。浪漫ではないか。そして「浪漫」ゆえと言うならば、ある程度の不便も拘束も甘んじて受け入れなければなるまい。なぜなら浪漫とはそうそう簡単に叶えられてはならないものであるからだ。
満月まであと幾日か、数え数えて満月を確かめるように空を見上げて帰る夜。いつもより早めに風呂に入り、少量の酒やお茶などを用意してパソコンの前に待機する。電気は消し、窓から入るわずかな月光とパソコンの光源を頼りに、耳にはヘッドホン。配信を聴き終えた後、たった今耳元で語られていた物語の余韻に浸りながら窓を開け、夜空に煌々と浮かぶ満月を確かめた人間は一人や二人ではあるまい。(無論、私もその一人であることをここに明記しておく)
そう考えると、「満月の夜」だけに開館し、その日その時間にだけしか聴くことのできないという趣向も、中々粋ではないかと思えてくるから小気味良いものである。きっとあの四晩、配信を待ちわび満月を数えた人間のほとんどは、私を含め普段は満月など気にもせずパソコンの画面やTVばかり見つめているような人達が大多数だったろう。そんな人達が「満月の夜」をキーワードに日にちを数え、わざわざ「満月朗読館」が始まる前から待機し、電気を消して月光を入れたりヘッドホンの準備をしたりしていたのである。
手間をかけ暇をかけ、きたるべき時をどきどきと待つ。(いつもは右クリックで保存なのに)
ただ「満月朗読館」を満月の夜に聴くために。(いつもは深夜、適当にザッピングなのに)
これはもう浪漫のなせる技としか言えまい。
「満月朗読館」は、本来無機質な電子空間にあるだけの存在だというのに、「満月の夜に」という条件を付け加えることで、初めて息づく極めて有機的な企画だったのではないかと、これを書いていて思った。
だからなのか――
現実には存在するはずがないというのに、しかし私は物質として存在するそこを幻視する。
そのある種そっけないたたずまいは、私に路地裏の奥の奥にひっそりと在る謎の建築物を彷彿とさせる。普段は「閉館」の看板が愛想もなくかかっているくせに、満月になるとどこからともなくたくさんのファン達が集ってくるような、そんな独特の閉鎖感と親密感のある空間。誰もが顔を紅潮させ、思い思いの格好や食べ物を用意して、無意識的な同調と適度で個人的な距離感を保ちながら、その始まりを待っている。
私の幻視する「満月朗読館」は、そんな場所だ。
「次の開館はいつですか?」
「誰が朗読をするのですか?」
「どんな物語が聴けるのですか?」
「さあ、それは誰も分からない。だから中々この「閉館」の札ははずれませんね。そもそも次があるのか。誰がやるのか、どんな物語が生まれるのか。でもきっといつかひょこり開くのでしょう。またあの満月、四晩のように」
――さて、それではいつかの満月に、浪漫を込めて