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読者レビュー

銅

ひぐらしのなく頃に

忘却が生みだす「再生」と「謎」

レビュアー:大和 Novice

 僕の中で、『ひぐらしのなく頃に』という作品は『祭囃し編』をプレイした時点で「終わった」作品だった。だから以前に講談社BOXで小説化された際も、あまり心は動かなかった。今回の文庫化も同様だ。しかしレビュアー騎士団に向けて検討してみた結果、僕はここで凄く面白いことが起こっていると気付いた。この作品は終わるどころか、むしろ再生し、新たな謎すら生みだしているのだ。

 『ひぐらしのなく頃に』は言わずと知れたノベルゲームの傑作で、同人ゲーム界の歴史を切り開いた作品だ。大雑把に説明すれば、昭和58年の雛見沢という田舎で起こった殺人事件に主人公が巻き込まれていく、という話。「正当率1%」という挑発的な宣伝文句、ノベルゲームとしてのクオリティの高さ、次々と浮上する謎、それに対する議論の沸騰、様々な要素が人々を引き付け一大ムーブメントを巻き起こした。

 まずは竜騎士07という作家の巧みさについて触れておこう。例えば(さやわか氏も言及していたけれど)ひぐらしにおけるキャラの会話は非常に特徴的だ。その発言がどのキャラの発言か、断片的に見ても一瞬で判断できるくらい、徹底した書き分けがなされている。言い換えれば、徹底した記号化が行われているということだ。ここでいくつか台詞を引用させていただこう。

『「かぁいそかぁいそなのですよ、にぱ~☆」』

『「見えたッ!! これだっぁああぁああぁああ!!!!」』

『「「な、なななんですってぇえぇ!? 7は一番わかり難いはずですのに~!?!?」』

 ここでは明らかに、従来の小説が避けてきたような表現が使われている。たとえば「~」という波線、「☆」という記号、「!!!!」「!?!?」という感嘆符や疑問符を重ねて強調する方法が挙げられる。これらのセリフから、キャラクターがマンガの如くダイナミックに動いているシーンをイメージすることは難しくない。これらは明らかにネット上のコミュニケーション、チャットやメールにおける文字だけを使ったコミュニケーションの流れを汲んでいる。ネット上では、いかにして文字だけのコミュニケーションで多くの情報、例えば発言だけでは分からない感情などを相手に伝えるか、という方法が考えられ、発展してきた。それらとマンガ的な想像力を組み込むことで、ひぐらしはキャラ会話の圧倒的な効率化、引いてはスピード感やテンポ感を生みだすことに成功している。

 しかし、この方法は記号性に依存しているが故に、著しくキャラクターや会話から身体性を奪ってしまう。言い換えれば、文字だけでやり取りをしているような、ある種の「軽さ」が否応なく表に出てきてしまう。

 ところが、ひぐらしという作品において、この「軽さ」は全くマイナスに作用していない。例えば前半のシーンにおいて、この「軽さ」は主人公達が無邪気に和気あいあいと遊ぶ雰囲気を上手く表現しているが、後半のホラー展開になると、むしろ前半の「軽さ」こそが過剰な落差を生みだすための前フリとして作用する。同時に、この過剰な記号化が可能にする表現によって、キャラクターの会話や行動にはいくつもの伏線やミスリードが張りめぐらされる。また、ネット上のコミュニケーション方法を取り入れたこの技法が、コミュニケーションに焦点を当てた作品のテーマを雄弁に物語っているとも言えるだろう。いわば竜騎士という作家は、「軽さ」を率先して引き受けることで、通常ならば欠点になりそうなことを徹底的に武器として利用している。この徹底した態度にこそ、竜騎士が他の作家と一線を画している理由があると僕は思う。キャラクターや文章のテンションから誤解されがちだが、竜騎士は勢いではなく、むしろ非常にクリアでタイトな視点や態度を武器とする作家なのだ。

 こういった指摘から、『ひぐらし』という作品の「内部」がいかに優れているかを語ることは難しくないけれど、やはり『ひぐらし』という作品の魅力は、作品の「外部」に向き合ったことにこそある。

 原作の『ひぐらし』は選択肢の存在しないノベルゲームだった。通常のノベルゲームにおいては選択肢を選択することでプレイヤーが作品世界に介入する。だが『ひぐらし』はそれを取っ払って、ただストーリーを読ませる作品を「ゲーム」として提示した。このことには少なからず反発があった。「こんなのゲームとは呼べない!」といったものだ。

 でも『ひぐらし』は間違いなくゲームだった。『ひぐらし』にとってのゲームとは、ノベルゲームという形式ではなく、むしろゲームの外に広がるコミュニケーションの空間だった。そこでは『ひぐらし』によって提示された謎に対する意見や議論や願望が渦巻いていた。『ひぐらし』の狙いは、そういった空間を作ることにこそあった。知らない人はイメージしづらいかもしれないが、『ひぐらし』の出題編が出揃った時、『ひぐらし』を取り巻く熱気は凄まじかった。公式サイトの掲示板を見れば連日連夜の激しい議論が繰り広げられていたし、全く関係ない目的で訪れたホームページにも『ひぐらし』に関する情報や考察が書かれていた。広がりながら密度を高めていくコミュニケーションの渦にプレイヤー達は熱狂した。そういった空間への参加こそが『ひぐらし』という世界への介入だった。そこには間違いなくゲームがあった。

 これらの点を踏まえた時、僕らは『ひぐらし』の小説版と向き合うに当たって、恐ろしい事実に直面させられる。それは、『ひぐらし』という作品は小説という媒体であっても、その「ゲーム性」を全く損ねていない、ということだ。『ひぐらし』が投げかけてくる謎は小説版においても全く衰えることなくそこに存在する。つまり『ひぐらし』は小説でありながらゲームなのだ。

 このことは『ひぐらし』が「ゲームをゲームたらしめているものは何か?」という問題意識に基づいて作られたことを示唆している。無論、それはノベルゲームの時点で見られるものでもあった。選択肢の無いゲーム。ただクリックするだけの作品をゲームと呼べるのか? という問題。しかし少なくとも、(公式サイトでは「サウンドノベル」と表記されているが)そこではノベルゲームという体裁は取られていた。形式として多くのノベルゲームの文脈上にある、という事実が、この選択肢が無い=物語を読むだけの作品を、プレイヤー達に「ゲーム」として認識させていた。だが小説版『ひぐらし』においては、もはやゲームというパッケージすら投げ捨ててしまった。ゲームという体裁を脱ぎ捨てることで、『ひぐらし』は「ゲームをゲームたらしめているものは何か?」という問いを、極限と言ってもいいくらい徹底的に突きつけてくる。その徹底した態度に、僕は痺れにも似た感動を覚えずにはいられない。

 そしてこの文庫化にあたっては、思いもよらない現象が起こっている。原作が完結してから既に何年もの月日が経っているわけだが、この作品は時間の経過によって色褪せるどころか、むしろ再生してしまっているのだ。

 先述の通り、ネット上はひぐらしの議論で溢れていた。意識せずともひぐらしの情報に触れてしまうことも多かった。言い換えれば、ネタバレに触れてしまう可能性が高かった。『ひぐらし』の最大の魅力は謎の提示にあり、それこそがゲーム空間を作り出していた。しかし『ひぐらし』が盛り上がれば盛り上がるほど、ネタバレに遭遇する危険は増えた。それは『ひぐらし』のゲーム性を損ねるものだ。ブームの最中にあって、何のネタバレもなく『ひぐらし』に触れることは非常に難しかった。

 しかし今や『ひぐらし』を語ろうというサイトはそれほど多くない。積極的に検索をすれば出てくるだろうが、自然と目に入ってくる、というようなことは少ないだろう。これは寂しいことでもあるけど、人々に忘却されることによって、『ひぐらし』はそのゲーム性を復活させた。再び議論に没頭させることを可能にしたのだ。

 一方で、ここには『ひぐらし』が直面する困難がある。それは当時のような巨大なゲーム空間を作り出すことはもはや叶わない、という端的な事実だ。当時の空気を作り出していた原動力は、明らかに「謎の答えを知りたい」という欲求だった。しかし今では、検索すれば簡単にその答えを知ることができてしまう。例えば友人同士で示し合わせて答えを見ないようにする、ということはできるだろうけども、当時の『ひぐらし』が持っていた、大勢の知らない人と『ひぐらし』を介して繋がっていく、議論を戦わせていく、といったような力はもはや無い。

 無論、当時のようなゲーム空間を抜きにしても、『ひぐらしのなく頃に』という作品は多くの示唆に富んだ読み物として読むことができる。しかし、やはり『ひぐらし』が大ヒットした原因、『ひぐらし』に多くの人が惹きつけられた原因は、そのゲーム空間にこそあった。恐らくは『ひぐらし』というゲーム自体が、何年も経った後に読まれるという事に関しては、あまり想定されていなかったのではないか。勿論どんな作品でも、発表した時とずっと同じ様に受け取られることはない。『ひぐらし』に限らず、どれだけ人々が熱狂した作品であっても、時代の流れは作品の風景を変えてしまう。だが『ひぐらし』は物語の外に対して自覚的な作品であっただけに、その「落差」がより目についてしまうのだ。

 これは『ひぐらし』というゲームモデルが、ある種の更新を迫られているとは言えないだろうか。時代を越えても尚、多くの人を惹きつけるような「ゲーム性」の設計。それを考えた時、もしかしたら『ひぐらし』は物語すらも捨ててしまわなければならないのかもしれない。純粋なゲームルールとシステムの抽出こそが、最も時代を越えて残る存在なのかもしれない。

 あるいは、この問いは『ひぐらし』という作品が竜騎士07という作家に向けて出題した謎であり、ゲームなのかもしれない。だが心配は無用だろう。竜騎士07の正答率は、100%に違いないのだから。

2011.03.01

さやわか
さて、先ほど「レビュアー騎士団そのもの」についてのレビューを書かれていた大和さんのレビューですぞ。
のぞみ
「これは、こうだから、こう」ってわかりやすく書いてあるのが、良いですね。
さやわか
論理的な組み立てがきちんとできていますな。文章が長くとも、平易な表現で丁寧に書けば十分なものが書けるという好例ですぞ。
のぞみ
はい。例えが用いられてるの好きです。
さやわか
さて内容ですが、実はこのレビューは、僕が以前に書いた『鬼隠し編・上』のレビューとも通じる視点があって、その意味でも面白く読ませていただきました。そして後半は、文庫という形で再生する『ひぐらし』についての感慨を綴ったという形ですな。
のぞみ
ひぐらしへの熱い愛が溢れていたと思います。
さやわか
うむ、たしかに! ネットでの謎解きを「ゲーム空間」と呼びつつ、文庫版に至ってはそれは既に成立しないという論理は理解できますな。ただ、そうなると「『ひぐらし』という作品は小説という媒体であっても、その「ゲーム性」を全く損ねていない」という部分がいささか宙に浮く格好になりはしないだろうか。この部分が枕としてありつつ、ネットという「ゲーム空間」を失ってなお『ひぐらし』が「ゲーム」として成立しているというのはどういうことか(たとえばそれは「ミステリ小説」ではなく「ゲーム」なのか?)、というほうに向かって話が進んでいくのかと思ったのだが、そうではなくてネットでかつて盛況だったゲーム空間についての説明に終始してしまった。
のぞみ
たしかに、そうなっていますね。
さやわか
言うまでもないことですが「文庫よりゲーム版の方がゲームとして成立しているから優れているのだ」という主旨のレビューでもかまわないのです。しかしそうであれば、いま引用した部分はむしろ不要。「『ひぐらし』は内部も優れているけど、本当の魅力は外部に向き合ったことだ」というだけの方が論としてはすっきりする。だが、そうなるとたぶん、まさしくこのような文庫になったり、あるいはアニメになったり、またPS2版のように一本のゲームになってファンを拡大させることについて、その価値を少なく見積もってしまうような形になる。ひょっとしたら大和さんは、そこに半ば気づいて、何となくさっきの引用部分で文庫版をホメる格好になさったのかも。しかし、そうすることによって、『ひぐらし』の各バージョンについての評価がどうも曖昧に見えてしまうわけですな。まあここは、メディアミックスもののレビューでは意外と越えにくい難所であるかもしれませんな。というわけで「銅」とさせていただいた!

本文はここまでです。