Fate/zeroの主人公、衛宮切嗣は、筆者の談にもあったように非常にはた迷惑な人物である。過去のトラウマから多数のために少数を殺すことでしか平和への手段を見出せず、どの命をも等価として扱うが故に、自分の周りの人物を次々に死へ追い落としていく。しかし、そんな切嗣の周りには必ず彼を想う女性が存在するのだ。これはいったいどういうことだろうか。この疑問に女性という立場から、一つの解を提示したい。
人は、この聖杯戦争において、あるいは生きることにおいて、何がしかの欲望によって動く。例えば雁也は恋、ケイネスは名誉、ウェイバーは自尊心、龍之介は生と死の探求、それらを満たすために突き進んでいく。それらは形が変わることはあれど、最終的には自身の能動的幸福に帰着する。それは、クライマックスまで迷い続けていた言峰さえもそうである。
では、衛宮切嗣はどうだろうか。
彼が目指した恒久的世界平和は、贖罪が発端となっている。これは、自分の内側のマイナスをゼロに戻す作業であり、プラスの幸せとは直結しないうえに決して叶うことのない願いである。そして、彼はその全てを心の奥底で自覚しながらも、引き金を引く右手を止めることができず、悪辣な自身の才能に引き摺られるようにして、血塗られた正義の味方として完成していくのだ。
これだけ外道で卑劣な手を使う彼の欲望、つまりプラスにあたる幸福は、どんなに醜悪で凶暴なのだろうと、漆黒で固められた彼の内側を紐解いてみれば、そこは驚くほどに無垢でガラスのように透き通っている。あるいは真っ白であると言ってもいいかもしれない。自分のための欲望を育む暇もなかった、人生の壮絶さがそこから窺える。
こんなにもアンバランスで、世間に理解されず、また理解も求めずに生きてきた彼の歪んだ性を、どうして愛さずにいられようか。誰よりも人を愛し、自分の人生を捧げようとした彼を、どうして支えずにいられようか。
最後に燃える街の中で見つけた士郎に手を差し伸べる切嗣の、憐憫つきまとう幸福の姿には涙せずにはいられない。
……つまり、切嗣は母性をくすぐる存在なのですね。また、身に余る大望を追っていく過程で研ぎ澄まされた血濡れの清純さに、倒錯的な美しさを感じるのも一因でしょう。
以上、衛宮切嗣はなぜもてるのか考察兼、私個人による衛宮切嗣へのラブレターでした。
人は、この聖杯戦争において、あるいは生きることにおいて、何がしかの欲望によって動く。例えば雁也は恋、ケイネスは名誉、ウェイバーは自尊心、龍之介は生と死の探求、それらを満たすために突き進んでいく。それらは形が変わることはあれど、最終的には自身の能動的幸福に帰着する。それは、クライマックスまで迷い続けていた言峰さえもそうである。
では、衛宮切嗣はどうだろうか。
彼が目指した恒久的世界平和は、贖罪が発端となっている。これは、自分の内側のマイナスをゼロに戻す作業であり、プラスの幸せとは直結しないうえに決して叶うことのない願いである。そして、彼はその全てを心の奥底で自覚しながらも、引き金を引く右手を止めることができず、悪辣な自身の才能に引き摺られるようにして、血塗られた正義の味方として完成していくのだ。
これだけ外道で卑劣な手を使う彼の欲望、つまりプラスにあたる幸福は、どんなに醜悪で凶暴なのだろうと、漆黒で固められた彼の内側を紐解いてみれば、そこは驚くほどに無垢でガラスのように透き通っている。あるいは真っ白であると言ってもいいかもしれない。自分のための欲望を育む暇もなかった、人生の壮絶さがそこから窺える。
こんなにもアンバランスで、世間に理解されず、また理解も求めずに生きてきた彼の歪んだ性を、どうして愛さずにいられようか。誰よりも人を愛し、自分の人生を捧げようとした彼を、どうして支えずにいられようか。
最後に燃える街の中で見つけた士郎に手を差し伸べる切嗣の、憐憫つきまとう幸福の姿には涙せずにはいられない。
……つまり、切嗣は母性をくすぐる存在なのですね。また、身に余る大望を追っていく過程で研ぎ澄まされた血濡れの清純さに、倒錯的な美しさを感じるのも一因でしょう。
以上、衛宮切嗣はなぜもてるのか考察兼、私個人による衛宮切嗣へのラブレターでした。